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当ブログのSSは女性への暴力行為(いわゆるリョナ的な)の描写を含む場合があります。嘔吐や流血などの表現に現実を見失う方は閲覧をご遠慮ください。 登場人物などは全てフィクションです。存在するわけがありません。

●お知らせ(5/7)
・短編「空手美少女アユミ」

目次

★空手美少女アユミ

「うーーーーーん」
 自分の名前付近に刻まれている数字を見ながら、セーラー服の少女がずっと唸っている。
 背は低めで胸も少ないが、彼女は空手少女であり、制服の下には美しく引き締まった肉体が隠れている。
『アユミ 勝率:10.4%』
 これは最下位の数字であり、少女の――アユミの胸には焦りと怒りが次第に積みあがっていた。
 腕を組んで唸るアユミのポニーテールが、くいっ、と後ろに引っ張られる。
「アユミちゃん、まーたランキング見てるの? もうやめときって。見てたって何も変わらないよ」
 艶のある声色と、セクシーなチャイナドレスに身を包んだ女性だった。彼女はアユミの親友で、普段から仲良く接している数少ない友人である。
「ていうかこれ、ひどくない? 最初はトップに近かったのにさ。バージョンアップされてこんなに下がるとか、マジ調整ミスでしょ。ヨーコもそう思わない?」
「んー、まあ確かに、えらく変更されたところは多かったわね。前がちょっと強すぎたし?」
「そりゃまあ、ゲージ半分あれば七割コンボ入るとか意味分かんないくらい強かったけど。でもそれってコンボありきじゃん? 小技の判定はそこまで強くなかったって」
「他のキャラの巻き添えくらって、一緒に弱体化されたって感じよね。あっはは、でも今はちょっと弱すぎだけど、あはははっ」
「わーらーうーな! そっちは新技と硬直減少で強くなってんじゃないのよ! あてつけか!」
 けらけら笑う親友はといえば、最近の順位は上から数えた方が早い位置にいる。
アユミは自分の境遇にため息をついた。何度目のため息なのか、数える気すら失せる。
ちら、と液晶画面の「外側」を彼女は見上げた。
 そちらには一人の男性が椅子に腰かけ、画面の「中」を注視している。この男性はさきほどの「警察官キャラ」を操作していたプレイヤーであり、現実世界の人間なのだ。
「この男の人もまさか思ってないよねー。わたしたちは画面の裏で生きてるってこと」
 ヨーコはその男性に手を振っているが、人間たちが気づくことはない。試合の領域以外は画面に映らない仕様だからだ。
 そう、彼女たちは格闘ゲーム『シンクロファイト』のキャラクターである。

 二人は今、テニスコートほどの広さがあるスペースを見下ろしていた。
 四方には段差があって、その「試合場」を見下ろせるかたちになっているのだが、人間が見ることのできるのはその「試合場」だけだ。
 はあ、と空手美少女アユミは再度ため息をつく。
「見た目あんまり好きじゃないけど。あの人上手いよね。ジャック使いじゃ結構上にいるプレイヤーでしょ?」
「全国大会に出たってこの前言ってたよ。強キャラはホント恵まれてるわよね~」
 そう、いわゆる『強キャラ』は、技の発生猶予が早いとか、火力が高いといった点が挙げられる。勝ちやすいキャラはそれだけで使用人口が多くなるし、プレイヤースキルの高い人間が使うのもごく当たり前のことだ。
 一方で『弱キャラ』もその名称通り。よっぽど愛着がない限り、使うのもためらわれるようなキャラクターも存在している。
 そして昨今のゲームはオンラインで随時アップデートが可能となっており、格闘ゲームもその流れに沿っている。プレイヤー間で強すぎると評された弱体化されるし、弱すぎたら強化される――のが望ましいのだが、それはプレイヤー視点なので、キャラクターたちがどう考えているかは、当の本人たち次第である。
「あ、ほら来たわよ。白馬の王子さまが」
 ヨーコの視線は画面外へと向けられている。しかしアユミは、その言葉だけでもうため息が出た。
 いつもの曜日、いつもの時間。そしていつもと代わり映えのしない服装をした少年が筐体に座っていた。
 何度も、何度も見ているプレイヤーだ。肩幅が狭く小柄で、髪がすこしのっぺりしていて、気弱そうな目をしていて、眼鏡をかけていて。一見して誰もが「オタク」と印象付ける風体だ。
「来た来た。よく飽きないなあ」
 このゲームが稼働してから、少年は継続してプレイしている。使用しているキャラクターを最初から一切変えないまま、これまで続けてきたという今では珍しいプレイヤーだ。
 少年が筐体にコインを入れ、相手へと乱入する。
 キャラクター選択画面になると、カーソルは迷うことなく右下へと動き、アユミのアイコンで止まった。
 そう、この少年はずっとアユミを使い続けている。稼働当初こそ強いキャラクターだったので使用人口はそれなりにいたが、理不尽な弱体化を受けたことで『キャラ替え』するプレイヤーが溢れたことは、ネットのコミュニティでも一時祭りになったほどだ。
 他のゲームセンターにも少しはいるかもしれないが、この店でアユミを使い続けているのは彼だけである。
「勝率下がってるのにさ。あたしを使ったって上がんないよ」
「あなたのことが好きってことでしょ? 羨ましいわ」
 ふん、とアユミは鼻を鳴らして、制服のスカートを翻しながら試合場へと飛び降りる。
 対戦相手は、少年よりも歳上のプレイヤーが使用するジャックだ。いで立ちは見た通り警察官だが、金髪で憎たらしい表情、事件解決には賄賂も惜しまないというなんとも好感を持てない設定になっている。
「ははっ、まだあいつに使われているのか。キミも災難だなアユミ。僕としても最初から有利と分かっている戦いには気が引けるのだが……ゲームだから仕方ないんだ。許してくれ」
 と、こんな風に神経を逆なでするようなキャラクターなのだ。
「いちいちうるさいなあ……! 黙って操作に従ってろっての」
 二人が開始位置に立つと、風景が一瞬で切り替わった。地下駐車場らしき場所になっている。もし人間が筐体の中を覗けるなら、ジオラマセットのように見えるだろう。
 両者は戦闘態勢を取る。お互いに設定されている専用のポーズだ。
フィールドに入った時点で、キャラクターたちはプログラムとプレイヤーの操作に従うことになる。
 このバトルステージの音楽が流れ始め、さらに女性の声でシステム音声が鳴り響く。
『ラウンドワン、シンクロォ、ファイッ!』
 第一ラウンドが開始されると、アユミは即座に前へと駆けた。
(最初はやっぱ、攻めるよね)
 これは、アユミ自身が意思をもって行動しているのではない。キャラクターを動かしているのはプレイヤーであり、彼女自身がそれに逆らうことはできないのだ。
 だから、自分とは意に反する行動をさせられることも当然ある。しかし少年とはいわば腐れ縁のようなものだから、彼の戦い方はほとんど理解できていると言っていい。
 実際、アユミのような『弱キャラ』はダメージを与えるチャンスを積極的に掴みに行く必要がある。だから、開幕で前に出るのは理屈に合っているのだった。
「はっ!」
 呼気と共に右ストレートを繰り出す。
「フフッ」
 しかしそれはあっさりとガードされる。
だが、これは特に不利というわけでもない。こちら側が攻めているという状況が重要なのだ。アユミは果敢にジャックを攻め、ガードを固めさせる。
「――そこっ!」
 通常攻撃を繰り返す中で、右足を大きく後ろへと引いた。一瞬だけ溜める姿勢を見せた後、ジャックの頭へと打ち放つ。
「ぐあっ!」
 見事なハイキックが入った。
 キャラクターの中には、特殊なガードを行わなければ防げない攻撃を持っている。アユミのハイキックは通常のガードでは防げないため、ダメージソースとなりえる攻撃だ。
 しかも、ここから連続コンボに繋げることもできる。
「ふっ、はっ、せっ!」
 拳と足でコンボ数を伸ばしていき、連続ヒットが「9HIT」の文字が浮かび上がったところで、締めの固有技を叩き込む。
「“蒼撃蹴”!!」
 アユミのコンボを締めくくる技の一つ。大そうな名称だが実際は単なる飛び蹴りである。
「ぅぐおおお!」
 合計十発の攻撃を受けたジャックは物凄い勢いで吹き飛んでいく。停車していた高そうな車に背中をぶつけ、地面へと倒れ込んだ。
 そして、プレイヤーの操作に従ってジャックはすぐ立ち上がった。このゲームは妙にキャラクター演出にこだわっていて、衣服の汚れや表情の変化まで細かく設定されている。だが今の彼の表情は、なんてことないという顔だった。
「あーもう! やっぱ安すぎじゃんこのコンボ!」
 アユミは相手側の体力ゲージを見上げて、思わず毒づいた。これは仕様として存在しないセリフだが、人間側に聞こえることはない。あくまでもプログラム上の動きしか認識できないからだ。
「はっはっは、せっかくガードを崩してもこれだけとは。いやいや気の毒だ」
 癇に障るジャックの言葉。
 彼の体力は、せいぜい二割程度しか減っていなかった。以前のバージョンであれば、これだけで四割近くのダメージを稼ぐことができたはずなのに。
「くっ……弱キャラってほんとどうしようもない……!」
 しかし、体力をリードしたのはアユミの方だ。ここからは無理せず、隙を見せない堅実な立ち回りで――
 アユミはそう考えていても、操作するのはプレイヤーが同じ気持ちとは限らない。
 自分の意思に反して、体がぐいっと前へと躍り出ていく。
「わわっ!?」
 思いのほか攻めの姿勢を崩さない少年に、アユミは少し驚いていた。いつもなら慎重な動きで戦っているのに。
 再びジャックへと肉薄し、攻撃を繰り出す。一旦距離が離れたから、かなり見え見えの攻撃である。
 にも関わらず、アユミの拳はあっさりと顔面にヒットした。
「なっ……」
 そう声を洩らしたのは、ジャックの方だった。予想外なダメージに唖然としている。簡単にガードできるはずなのに、まるでわざと食らったような――
 しかも今の地点は画面端だ。キャラクターによってはコンボパーツを組み換え、さらに火力を向上させることだってできる。
 弱キャラと言われているが、かろうじてアユミもそれができるキャラクターだった。
「“蒼天烈掌”!!」
 ヒット数を稼いだあとの絞め技を、ジャックの胸にぶちかます。漢字は多いが実際はただの掌底突きである。
「ぬぅわああああああ!」
 少し間の抜けたダメージボイスと共に、再び地面へ倒れ込む金髪警察官。
 さらに、彼は立ち上がらない――プレイヤーがレバーを操作していないのだ。
「これって……舐めプ?」
 一瞬、苛立ちがアユミの胸にこみ上げてきた。
 上級者が初心者と対戦しているとき、前者が手加減することはよくあることだ。それは別に手を抜いているわけではなく、初心者が長くゲームを遊んでくれるよう相手をしているわけで、いわば『接待プレイ』である。
 だが、アユミを操作する少年は稼働初期からプレイしているし、コンボの精度だって先ほどのように十分なレベルだから、初心者をとっくに脱却している。
 ジャックのプレイヤーには悪意がある――舐めプレイというやつだった。相手を格下だと断定し、あえて自分が不利になるような行動をする。端的にいえば馬鹿にしているのだ。
「あはっ、気の毒はそっちだよジャック!」
 いまだにうつ伏せで倒れたままの金髪警察官に、ダウン攻撃が仕掛けられる。
アユミは膝をグッと曲げてから、現実世界ではありえないほどの高さまでジャンプした。地上で倒れている相手の背中めがけて、両足から降下していく。
やはり相手プレイヤーは避ける素振りもなく、ジャックは攻撃をもろに受けることになる。
「ふげぇ!」
 黒のスパイクシューズがジャックの背中に打ちつけられ、地面にまで亀裂が走った。
『ノックアーウトッ!』
 お気楽なシステムボイスが響いて、アユミがポイントを先取した。二ポイント制なので、少年は次も勝てば対戦勝利になる。
「お、おのれ、くそっ。このプレイヤーはそういうヤツだったな。忘れていた……!」
 ジャックとしても、まともに戦えなかったのは不本意だろう。しかし、プレイヤーの操作に反抗することは絶対にできないから、不運と言わざるを得ない。同情はしないが。
 対して、少年は正直だ。相手の動きが明らかに変だったら、たとえば筐体のレバー不調とかを疑うものだが、戦い方を変えることはなかった。
(そこは、まあ嫌いじゃないし)
 毎回プレイしにやってくる少年にため息を吐きつつも、アユミはどこか親近感を覚えるのだった。
『ラウンドツー、シンクロォ、ファイッ!』
 第二戦の合図が流れ、アユミは再びジャックへと突撃した。
 

『ノックアーウトッ!』
 結果から言えば、少年が勝利した。第一ラウンドと同じくらいの速さで。
 アユミは相手プレイヤーの顔を見上げた。舐めプレイをしていたくせに、眉間に皺をよせて歯を噛んでいる。
「ふん、調子に乗りすぎね。おおかた、手を抜いてたらそのままやられちゃったってとこでしょ」
 おそらく相手は、逆転して勝つつもりだったのだろう。だが、思いのほか少年の腕前が低くなかったので、反撃の糸口を掴めないまま体力を削られてしまったのである。
 アユミが弱キャラだからといって、手を抜きすぎただけの話だ。
「く、くそっ、この俺がアユミに負けるとは……!」
「あーあー、顔に泥付いちゃって。キャラはプレイヤーに従うしかないもんね。ゲームだから仕方ない、よね?」
 バトル開始前のお返しとばかりに、アユミはにやにやしながらジャックを見下ろす。
 手加減されていたとはいえ、勝ちは勝ちだ。体力バーの上あたりに『1WIN』文字が表示されていることに、アユミは思わず笑みをこぼした。
 筐体にコインが投入される音が響いた。アユミの表情が一転して険しくなる。
 理由は簡単だ。相手プレイヤーがそのまま居座っていたからである。
「ちょっと、なに連コしてんのよ……!」
 基本的にこういったゲームは交代制だ。人気のゲームなら後ろに人が並んでいるし、厳密なルールが設けられていないにしろ、待ちがいないか確認するのはマナーである。
 それをあのロン毛男は、顔を真っ赤にしながら連続でコインを投入――俗にいう連コインをしたのだ。
 運が悪いというか、見た目だけはちょっとコワモテな印象なので、オタク気質なゲームである『シンクロファイト』のプレイヤーたちは窮屈そうにしている。
「こ、この際なんでも構わん! もう一度だ!」
 アユミに負けたことがそんなに悔しいのか、ジャックもロン毛男と同じ表情になっている。
「ふん、キャラはプレイヤーに似るっていうよね。あんたサイテーだよ」
 操作に従うしかないとはいえ、連コインを許容するとは、ゲームキャラクターの風上にも置けない。
バトル開始前システムボイスが流れ始めると、アユミは気を引き締め直し、バトルの構えを取った。
『ラウンドワン、シンクロォ、ファイッ!』
 開幕は、やはり少年は強気に攻めていく様子で、アユミの体が勢いよく前進する。
 最初の試合と違うのは、相手の行動だった。ジャックはガードではなく、アユミと同じく突撃してきたのである。
(もう舐めプはおしまいってことね……!)
 こうなると、単純にプレイヤーの実力勝負だ。
ただ、アユミの性能がこのゲームでかなり弱い方なのは周知の事実で、ジャックは強キャラの部類に入る。その分は少年が不利と言えた。
 お互いが間合いに入ったとき、アユミの方がぴたりと止まった。少年が相手の動きをどう読んだのか分からないが、ともかくガードへ移行する。
 ジャックはというと、技の出が早い弱攻撃を繰り出してきた。顔を狙うジャブだ。
多分、同じような行動をアユミもしたなら、判定の弱さで殴られていただろう。少年は、やはり考えて操作してくれている。
「オラ、オラオラオラッ!」
 リーチは短いが、発生の早さと判定の強さに優れるパンチを次々打ち込んでくる。こうしてガードしているだけでも、アユミとしてはかなり辛い状況だ。
(あたしは切り返し技も弱くなった……!)
 攻撃の合間、強引に技を差し込むことで状況から抜け出す技がある。しかしそれも弱体化を一途を辿ったので、こうしてガードで固まる方がある意味安全なのだった。
 チャンスのポイントは、相手の行動を先読みすることにある。
 ジャックの膝が動くのを見て、アユミはとっさに祈った。少年に。これはおそらくローキックで、ジャンプで回避すれば隙を突ける。
 祈りが通じたのか、アユミはガードを解いて跳躍の体勢を取ろうとした。
 だが、腕をがっしりと掴まれたことで、アユミは目を見張る。
「あ、まずっ……!」
 相手の選択肢は“投げ”だった。打撃判定ではないから、ガードで防ぐことができない。
これはガードを崩す手段として最も基本的といえる行動で、ローキックの初動はフェイントだったのだ。
 掴まれた右腕がぐいっと持ち上げられ、胴が前面に晒される。
 これはジャックの投げ技 “ボディラッシュ”だ。
「そらぁ!」
 フック気味の拳がセーラー服の脇にねじ込まれる。
「ぐうッ……!」
メキッ、と肋骨の軋む音。アユミは歯を食いしばって激痛に耐えるが、技名の通り一発だけでは終らない。
 右腕を掴み上げられたまま、さらに拳が唸りをあげる。二発目は下腹部に打ち込まれた。
 どぷっ、と水っぽい音と共に、臍の下がへこむ。
「んぅぅッ!?」
 子宮と膀胱が痛く刺激されて、妙に艶のある声が溢れた。身体が勝手にぴくぴく震えて、しめった熱い息が漏れる。
まだ、最後の一撃が用意されていた。三発目に狙われるのは、臍の辺り。警察官として鍛えられているという設定のたくましい腕が引き絞られる。
「く、ぁっ……!」
“ボディラッシュ”は合計三発のボディ攻撃を放つ投げ技だ。投げ技の途中でガードすることはできないから、アユミは自分の腹へと打ち込まれようとする拳を見届けるしかない。
「これで終わりだ!」
 真正面からのボディブロー。セーラー服に包まれた、空手少女らしい引き締まった腹部に、男の拳が叩き込まれる。
 ズブリと臍の周辺に拳が沈んだ。
「ぐッふ……!」
 アユミの目が見開かれ、しなやかな体躯がくの字に折れる。
 腹筋を打ち抜かれ、体内に潜む小腸の中心にまで拳が沈み込んだ。拳が奥に突き進むと腸がかき分けられて、ぐちゅぐちゅした音と痛みがアユミを襲う。
「ぅぷっ、げおッ」
 内臓を無理やり動かされたことで、嘔吐感がこみ上げる。喉がグッ、蠢いたが、彼女はなんとか耐えた――厳密には、仕様上まだ吐くまでに至っていないのだった。
(気持ちわるいぃぃ……! こんなにお腹を、ナカの内臓まで殴られたのに……!)
 実際のところ、キャラクターの痛覚は人間とほぼ同じと考えていい。ただし設定されているプログラムの限度を超えることはできないから、例えナイフで心臓を刺されても絶命しない設定であれば、死ぬほど痛くても死ねないのだ。
「ッ、げほっ……ぇ、ぅぶふッ……!」
「はははっ、身体を鍛えているといっても、どんなキャラから殴られたって同じだからなあ?」
 その通り。アユミは十六歳という設定で、歳相応の可愛らしい顔立ちだが、ファイターらしい体つきだ。腹筋だって力を込めなくてもうっすら割れているほどだが、このゲームでは防御力という概念がそもそも存在しない。
 そのうえ、打撃の演出には妙なこだわりがあるらしく、たとえば腹部を殴られたとき陥没や、腹肉の動き、内臓の音など、やけに凝ってつくられている。
 仮に子供キャラの無邪気なパンチでも、鍛えられた腹筋にはズボリとめり込んでしまう。アユミはそれを何度も経験した。
「ぅ、ぐっ……! 一回投げが入ったくらいで、いい気に……!」
 唾液を垂らしながらも、アユミは強がりを見せた。
 まだ“ボディラッシュ”をくらっただけだ。体力も半分以上残っているし、まだまだチャンスは残されているはずだ。
 しかし、先に攻撃を取られたせいなのか、少年の操作に明らかな動揺が見え始める。
「ぅ゛うッ!? がはっ……!」
 下から突き上げるボディアッパーが、アユミの鳩尾を捉えた。両足が浮き上がるほどの威力。
 背中を突き抜けそうな衝撃と痛みが胃袋に襲いかかり、彼女は口をがぱっと開いて悶えた。唾液の飛沫が散って、突き出た舌からは糸を引いている。
(くうっ、ガードが間に合ってない……!)
 普段の少年なら簡単に貰うはずのない攻撃だ。最初に投げを食らってしまったから、慌てているのかもしれない。
 アユミが思わず少年の顔を見上げようとしたとき、左頬にストレートパンチが飛んできた。
「づぁ……!」
 視界が一気にブレて、身体ごと殴り飛ばされる。紺色のワゴン車に背中から激突して、酸素が軒並み叩き出された。
 さらに、視界が強制的にぼやけて左右に揺れ動く。
(あ、やば、ピヨった……)
 アユミは焦点の合わない目で、フラフラと身体を揺らしていた。連続で攻撃を受け、障害物に衝突したことで『スタン値』が限界点を超えたのである。
 プレイヤーがレバーをひたすら回すことで復活するのだが、大抵間に合わない。
 アユミは肩を掴まれる感触と同時に、背中をぴったりと障害物に押し付けられたことを自覚した。
「一方的だな、アユミ!」
 ぼやけた視界でも分かる。ジャックが勝ち誇った表情で、拳を力強く握りしめている。
 肩を掴んでいる彼の手に力が込められると、空気を切るような音が目の前から聞こえた。
 直後、体の中心から轟音。
「あッ……」
 視界が一瞬でクリアになり、アユミは自分の腹部に向かって伸びる男の腕を見た。
 拳が、丸々飲み込まれている。
「くぶッ、っ、ごォ゛ォ゛ッ……!!」
 がくがくとしなやかな肢体が痙攣する。
 血の気が引いた顔。目は飛び出さんばかりに見開かれて、口からは粘ついた唾液が幾筋も糸を引いていた。
 彼女のすぐ傍に、パソコンの別ウィンドウのような画面が表示される。このゲームにおける演出の一つで、『とどめの瞬間』を際立たせるものだ。
 その画面には、アユミの体内が映し出されている。
「どうだ、アユミ……! お前の胃に、完璧にめり込んだぞ……!」
 興奮したようにジャックは唇を歪ませた。
 画面に表示されているのはアユミの内臓器官。ゲームだからデフォルメされているとはいっても、そのあたりをやたらと凝って再現している。見ただけで嫌な鳥肌が立ってしまうほどだ。
「ぁ、はがッ……かふ、ぉ゛ぅ……!!」
 自分の胃袋を、ジャックの拳が完璧に殴り潰している映像。丸みを帯びているはずの胃袋は、薄っぺらくなるまで歪まされている。アユミは痙攣を繰り返しながらそれを凝視するしかなかった。
 やがて拳が引き抜かれる。強烈なボディブローによって叩き潰された腹筋は、元に戻ろうとしない。
 空手少女のセーラー服はクレーターを残したままになっている。体内映像でも、胃袋は潰れたままだ。
「とどめだ……!」
(も、ダメ、ナカが、破れちゃう……)
 焦点の合わない目でジャックを見つめる。彼は拳を引き絞り、また同じ箇所を狙っていた。
 アユミは――操作している少年は、抵抗できない。これは『とどめ演出』だからである。壁を背にした”ボディラッシュ”をくらった時点で、もう負けは決まっていたのだ。
「ぬあああぁぁぁ!」
 激しい呼気とともに打ち出された拳は、陥没したままの腹に再び捻じ込まれた。ドブッ、と鈍い音がして、瀕死であるアユミの身体がびくんと跳ねあがる。
 背中にあるワゴン車が、激しい音と同時に砕け散る。
 アユミの胃袋にめりこんだ拳がそのまま奥へと押し込まれ、脊椎にぴったりと密着する映像が流れた。
 グチャッ――という効果音。
 胃袋が破れる音だった。
「ふ、ッグ……! ッ…………ェッ……! げえ゛ぇ゛ぇぇぇぇ!!」
 一瞬耐えたものの、格闘少女の喉がぐぼりとうなり、激しい嘔吐が始まる。
 拳が引き抜かれると、陥没した腹を抱えて両膝をつく。地面へびちゃびちゃと夥しい量の吐瀉液を撒き散らし、さらに自ら顔を押し付けてうずくまった。
『ノックアーウトッ!』
 ラウンド終了を告げるシステムボイスを気にする余裕もなかった。アユミは内臓がひっくり返ったような痛みと止まらない嘔吐に悶絶する。
「ぉ゛ぇ゛ぇ……! ぉぷッ、ごぼっ! ぐぶッ……!」
 吐き出されるのは白く濁った胃液のみ。固形物を吐瀉しないのはこのゲームの異様なこだわり演出において、唯一の妥協点といってもよかった。だが、キャラクターの苦しみが軽減されるわけでもない。
 女の子とは思えない重い咳を繰り返しながら、アユミは胃の激痛にひたすらのたうち回る。
(また、吐いちゃった……こいつ、見てるのに……!)
 今、少年はどんな目で自分を見ているのか。ゲームとはいえ、まだ十六歳という設定の少女が無様に嘔吐して、もがき苦しんでいる姿。
 できれば見られたくなかった――見せなくなかった。
 弱キャラと罵られてもずっと使い続けてくれている彼に、応えてあげたいのに。
 痙攣しているアユミに、ジャックはへらへらした口調で、
「へへっ、いい格好だぞ。あんな変なプレイヤーに使われると災難だよなあ?」
 ぴくっ、とアユミは肩を震わせた。嘔吐による咳き込みさえ止まる。
 アユミがうずくまったままなのでいい気になったのか、ジャックは続ける。
「満場一致で『弱キャラ』と言われているお前をいつまでも使ってるんだぜ? 未練がましく女キャラに夢中になって、みじめだ」
 明らかに馬鹿にしている口調だった。
 アユミはそれが、ひどく耳障りに思えた。全身をめぐる血液の温度が高まる。頭に駆け上ってきて、痛みで朦朧とした意識を拾い上げた。
 地面に押し付けていた顔を、ぐいっと起こす。にらみつけたその先には、表情を引きつらせるジャックがいた。
「な、なんだよ、その目は……」
 今のアユミは自らの吐瀉液にまみれていて、美少女といえる整った顔立ちは汚れている。
だが、ジャックは彼女を笑い飛ばすことができなかった。向けられた鋭い眼光に怯んで後ずさりさえしている。
「いま、なんつった? あんた」
 怒りの色で染まった声は、心臓に響くほどだった。拳をぶち込まれた腹の痛みさえ、怒りでどうでもよくなっている。
「あんたは、知らないでしょ……こいつは、夜遅くまで、あたしで練習してんのよ」
 少年は定期的にゲームセンターにやってきては、シンクロファイトで遊んでいる。
 アユミは知っている。彼はただ闇雲に遊んでいるわけではないことを。格闘ゲームで勝つためには、それ相応の努力が必要だ。
「コミュ障のくせに、勇気振り絞って対戦相手と話したりして……! メモって、考えて、次に活かそうとがんばってんのよ! こいつをバカにするのだけは、許せない……!」
 さっさと強いキャラを使えば、そんな面倒なことしなくたっていいのに。少年の腕前があれば、すんなり勝てるようになるのに。
 それでも彼は、アユミと一緒に戦い続けようとするのだ。
 それが、とても心地良かった。
 いつだって空手少女アユミは、彼のことを待っていた。
「連コなんかするヤツに、絶対負けない……! 負けたくない! そうでしょ……!?」
 最後の言葉は、自分に――少年に言い聞かせた。
 ぐるぐると痛みが渦巻いている腹部を押さえながら、彼女は立ち上がる。脚をがくがく震わせながらも、目に宿る闘志は燃えたぎるように熱い。
「し、知ったことかそんなもの。仮にそいつがどれだけ上手くても、キャラ性能の差は埋まらん!」
 圧倒されていたジャックは、優位を取り戻そうとしているようだったが、唇が小さく震えていた。
「性能なんて、もうどうだっていい! あたしはこいつとなら……!」
 弱体化を受けたことで、アユミは確かに失望した。それはどんなプレイヤーも同じだった。
 元々高い性能を持っていただけに、がくっとランクが下がったためにプレイヤーはすぐに別のキャラへと移行した。勝ち続けるために。
 でも、少年だけは違った。彼と一緒なら、いくらでも戦える。
「ぅ、げほ……えッ……! さあ、第二ラウンドよ……」
 再び胃液が逆流してきて咳き込んだが、彼女はバトルの構えを取った。
 ジャックは先取したのが自分だというのに、まるで追いつめられているような表情のまま準備に入っている。
 第二戦。闘志が沸き上がっていても、アユミが不利なのは間違いなかった。
 ゲーム特有のシステムとして、第一ラウンドのダメージ状況は引き継がれるようになっている。体力ゲージは満タンだが、いわゆる『部位ダメージ』は残っているのだ。
(ッ……いつまた、吐くか分かんない……!)
 すでに腹と内臓をひどく殴り潰されている。乱数が『嘔吐する』の演出データを引き出さないよう祈るしかなかった。
『ラウンドツー、シンクロォ、ファイッ!』
「うおおおおおおおおおお!」
 第一戦と同じく、ジャックは猛烈なスピードで接近してくる。すでにボロボロのアユミはプレイヤー操作も入りづらくなっているし、畳みかけてくるのは当然だった。
 振り上げられる右腕。
(ガードは左側……! でも、今の状態じゃ間に合わ――)
 ジャックも強キャラの名に恥じず、疲弊している相手のガード行動よりも早く攻撃を叩き込むことができるだろう。もうファーストアタックは取られたと言っていい。
 だが、アユミの身体がスッと流れるように動く。
「え」
 思わず声が洩れる。
 目の前を拳が通り過ぎていき、アユミ自身の膝がジャックの下半身に――男の大切な部分にカウンターで突き刺さった。
「~~~~~~~~~~~~~~~!!」
 謎の呻き声を発した男性警察官は、股間を押さえて膝をつく。
 その瞬間には、アユミの追撃の踵落としが脳天に決まっていた。ジャックは地面に顔面をたたきつけられる。
 たやすく反撃が決まったことに、アユミ自身が驚愕していた。
「ぐぬッ、おのれぇ!」
 ジャックの右脚がわずかに動いたことを、アユミは見逃さなかった。
(足払い……! ガード、じゃない。ジャンプが最適……!)
 だが、これはプレイヤーには感知できない部分だ。仮にその動きを捉えたところで、繰り出される攻撃までに操作が追いつくはずはない。
 そのはずなのに、アユミはすでに跳躍していた。ガードではなく。
 前もって攻撃を読んでいた――いや、違う。明らかにいまのは『見てから』だ。
 ジャックの足払いを容易に回避し、そのまま彼の背中にズンッと着地する。
「ぐえええ!」
 再びジャックの呻き声。体力ゲージがあっという間に半分まで削られている。
 背中に飛び乗ったまま、アユミは目を白黒させていた。まるで羽が生えたように身体が軽い。
 ふと少年を見上げると、なぜか彼も驚いたように目を見開いていた。
――聞いたことがある。プレイヤーと操作キャラクター……二人の強い思いが重なれば、文字通り一心同体になるって。
 身も心も『シンクロ』するって。
(あたしの視界、思ったこと、全部伝わってるんだ……!)
 きっとそうだ。でなければ、先ほどの足払いを確認してから回避したことの説明がつかない。
 なにより、少年を『勝ちたい』という意識が流れ込んでくる。
 自分も同じだ。勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい!
「……えへへ」
 つい、笑みがこぼれた。少年の心を感じることができて、どうしようもなく嬉しかった。
「ええいクソッ、いい加減離れろ!」
 ずっと踏みつぶされていたジャックが強引に立ち上がり、裏拳を繰り出してきた。
 アユミは少しだけ距離を置き、簡単にそれを避ける。
「なんだろ、あたし、もう負ける気しないよ!」
 もう一度、少年を見上げる。彼もいつの間にか笑顔を浮かべていた。
 シンクロした二人は、どんな強キャラにだって負けない。きっとこれからも。
 アユミは勝利を確信し、狼狽しているジャックの顔面へと拳を叩き込むのだった。

★設定屋さん

 西野綾香は、以前から気になっていた飲食店のポップにある『レディースデー』という文字に顔をしかめた。
「なによこれ……帰ろ」
 ヒールが強くアスファルトを踏み鳴らす音。その音で、彼女がイラついているのは傍から見ても分かるだろう。
 綾香は、一言でいえば「デキる女」である。
 高校を卒業してすぐにデザイン会社へ就職し、二十歳でチームをまとめるリーダーになった。そして二十五歳の今では、複数のチームを管理する立場にまで出世した。そのうち、拠点を統括するポジションにまで登りつめるだろうと言われている。
 上司やクライアントの期待には十分応えてきたし、綾香自身も自分の能力に自信を持っている。
 学生の頃から陸上部で身体を鍛えていて、今でも運動や筋トレは継続中だ。次第に「可愛い」といったものを表すにはキツい年齢になってきたが、鍛えているおかげか若々しいエネルギーに満ち溢れている。
 同性からは憧れの存在である彼女は、人間の本質的なところに不満を持っているのだった。
「女って理由で特別扱いされて、何が嬉しいっていうのよ」
 思わず独り言を漏らすくらいに、綾香にとっては大きな問題といえた。
 身近なところでいえば、先ほどの『レディースデー』である。
 女性であれば料理が安い、映画が安い、何かしらおまけが付いてくる――
 性別に左右されず、一人の人間として積みあがってきた綾香には、この手のやり口を強く嫌悪していた。
 女も男も同じ人間だ。子供と大人での違いこそあっても、性別によって優遇されたりする理由が見当たらない。
――西野さん、女性なんだからもっと愛想よくできないの?
 忘れかけていた上司の言葉が思い起こされて、綾香はさらにイラついた。これは、職場環境の問題について抗議したときに言われたことだ。
「女だからなに? おしとやかにしろって? ふざけんな」
 街灯がともり始めた道で、彼女は不満の思いを口から吐き出し続ける。
 いつも通っている道。こうして文句を垂らしながら歩いている道。それなのに綾香はどこか違和感を抱いた。
「……あれ、こんなのあったっけ」
 本屋がある。いや、それ自体は別におかしくないが、いつも通っている道なのに今まで気づかなかったのが不思議だ。まるで初めて訪れた土地であるかのような感覚。
 表札みたいな看板には『設定屋』と彫られている。
 無意識のうちに、綾香は『設定屋』の扉を引いた。木の扉が軋みながら開き、内部の光が視界に差し込む。
 古本屋だ、と綾香は印象づけた。くすんだ色の本棚。収まりきらずに平積みされた本。乾いた紙の匂い。それら一つ一つが、綾香の苛立っていた心の色を洗い流していく。
 視界の奥。カウンターらしき大きなテーブルを隔てて、一人の少女が視線を返してきた。
「こんばんは」
 少女の声は小さいのだが、妙に鼓膜へ響いた。脳に直接話しかけられたかと思って、綾香は肩を少し震わせた。
 店番をしているアルバイトなのだろうか――真っ黒な長髪は肩よりも下まで伸びており、肌は対照的に白くて透明感がある。
 これまた古風というか、紺のセーラー服を着ている。いわゆる『文学少女』といった様相を呈している少女は、じっと綾香を見つめている。
「あ、えっと……」
 どうしよう、と綾香は焦りつつも、本棚を見回す。彼女自身、特に小説などを好んで読むわけではない。こういった古本屋はサブカルな雑誌なんて置いてなさそうだし――
「ついここに入ってしまったのでしょう。構いませんよ」
 少女はつり目気味の瞼をゆっくり閉じてから続ける。
「あなたはこの世界に不満を持っていますね」
 ぎくり、と綾香は少女を凝視してしまった。
 どうしてだろう。少女は目を閉じているのに、心を見透かされている気がする――よく本を読んでいるから、洞察力が高いのだろうか。
「別に驚くことではありませんよ。むしろ不満を持っていない人間なんていません。わたしも例外なく」
 少女は瞼を開き、天井を軽く仰いだ。
「この世界は気に入らない設定が多すぎる。そう思いませんか?」
「――あの、なんの話なのかさっぱり……」
 なんだか――宗教的な、怪しいお店に入ってしまったのかもしれない。綾香はそう感じたが、不思議とこの少女に嫌悪感を抱かなかった。
つらつらと間を置かない話し方だが、読み聞かせるような声に聞き入ってしまう。
 そして次の言葉に、綾香の胸はどきりとした。
「女と男の違いとか知ったことじゃないって考えていますよね?」
「え……? なんで知って…?」
 思わず一、二歩後ずさるくらいに動揺した。
「あなたがそういう人だからです。よくある設定なので珍しくもありません」
 少女はゆっくりと立ち上がった。読んでいた本を閉じてから、
「この本には世界の設定が全て書かれています。この意味が分かりますか」
 と、さらりとした口調で伝えられた。あまりにも普通のトーンで話すものだから、綾香もその意味をよく拾いきれなかったというか、単純に理解できなかった。
「無理もないですね。ではこちらへ来てください。直接お見せします」
 少女は再度本を開いてぱらぱらとページをめくる。
「は、はぁ……」
 ちんぷんかんぷんな綾香は、なんでこんな店に入ったのだろう、と改めて自問した。しかし、少女は悪い人ではなさそうだし、ちょっと興味も湧いてきたのも事実だった。
 すぐ目の前まで寄っていくと、少女は本の半分くらいのページのところで指を当てた。
「ここがあなたの設定ページです」
「……え?」
 西野綾香――大きく印字された文字と顔写真。ぞくりと綾香の背筋が震える。さらに、横書きで羅列されている文章に目を剥いた。
 生年月日、年齢、正確、出身、学歴、職歴、家族構成、はてはスリーサイズまで。そのほかにもたくさん、個人情報といってもいい事項が所狭しと書かれている。
「な、な、なんでわたしが本に載ってるの? しかもこんな、誰も知らないことまで!」
「言ったでしょうあなたの設定ページだと。ここに年表もあっておそらくこの先――」
「待って待ってやめて! 言わないで!」
 目をそらしながらとっさに手で制す綾香は、胸の鼓動が早まっていることを自覚した。
 信じたわけじゃない。突然とんでもないことを突きつけられたものだから、理解がほとんど追いついていなかった。
 ただ、このページの全てを読んではいけない気がする。それだけは分かるのだった。
 でも少女はそんな綾香の動揺など気にも留めない。
「それでは手っ取り早く髪にしましょう。ここに『黒のショートヘア』とありますね? ここに――」
 テーブルに転がっている鉛筆を手にすると、【髪】という項目に、
『茶色のポニーテール』
 と書き加えた。そして印字されていた『黒のショートヘア』には二重線を引く。
 小説などはほとんど読まない綾香でも、少女がいま何をしたのか、なんとなく察しはついていた。が、そんな馬鹿なことがあり得るのかと、まだ半信半疑の状態だった。
 それでも、心臓の早い鼓動は鳴りやまない。文字から視線を外せない。
「あちらの鏡を見てください」
 テーブルのすぐそばに設置されている姿鏡。少女の声に促されるまま、おそるおそる視線をそちらへ向けた。
「うわっ……」
思わず声がもれる。
髪型が、そっくり変わっていた。『茶色のポニーテール』に。
「こうして設定を変えることもできるのです。もうお分かりですよね」
「し、信じられない……! 魔法みたい!」
 綾香は髪の尾を手で触れた。引っ張ると頭皮が痛いし、手触りもいつもと同じ。間違いなく自分の髪だ。
 ここでようやく、綾香にも一つの可能性に気づいた。
「あの、それって、人じゃなくてもいいの?」
「ある程度は自由に設定できますがあくまでも地球ベースの本ですので。たとえば『宇宙で呼吸ができる』は無理ですが『地球は呼吸ができない』は可能です」
 あまりにも極端な例だったが、綾香の理解を得るには十分だった。
 自分が望むような世界に変えることだって、できるということなのだ。しかし、そんなとんでもない本をどうしてこの少女が持っているのか。
 この店はいったい、何なのか。
「試してみますか?」
「え? い、いいの?」
 正直なところ、綾香が期待していた言葉だ。だが、こうもあっさりかけられると逆に不安になってくる。
「ほら、その、お金とかは……」
「必要ありません」
「それじゃ、他に何か取られるとか」
「いりません。寿命とか魂を取るのは悪魔や死神のやることですし私は違います」
 じゃああなたは何者なんだ、と綾香は率直な疑問を抱くものの、それを尋ねるのはどうもためらわれる。深入りするのは危ない――と直感的に思ったからだ。
 そう簡単に安心はできない。が、少女が嘘を言っているようにも見えないのだった。
「本の所有者である私が書かなければ変わらないのでその点はあらかじめご了承を。それではご希望の設定を教えてください」
 ページをいくつかめくって、鉛筆で止める。
 そのページには何が書かれているのか――綾香は好奇心をそそられたが、心のどこかでストップをかけていた。
 知ってはいけないことまで書かれている気がする。だから彼女は好奇心を今は振り払って、一つの心情を吐露した。


 翌日。
 綾香はそわそわしながら自分のデスクへ腰を下ろした。
 もう、彼女自身はあの店で出会った少女のことを信じて疑っていない。朝起きて、駅まで歩いて、電車に乗って、会社に着くまでに確信を得ていた。
「西野さん、これ十五時までにまとめといて」
 年下の女にへらへら鼻の下を伸ばす上司も、
「先にお昼失礼しまーす」
 女性社員をいつも食事に誘うはずの同僚も――どの男性も、まるで異性に興味を失ったかのように淡々としている。
 あの少女に告げたのは、『性別で態度を変えない』という言葉だ。本にどう書かれたのかは分からないが、とにかく、綾香が想像していたとおりの世界になったことは間違いない。
 男や女の態度でもうイライラすることがない――そう思うと、妙にうきうきとしたテンションになってくる。だって、自分の理想と感じる世界がもう訪れたのだから。
 
「ふふっ」
仕事を終えた綾香は上機嫌で通りを歩く。
 今日はイラつくこともなかったから効率的に業務を進めることができたし、男から下心丸見えの言葉もかけられなかったし、社内でもそんな光景を見ることもなかった。みんな自分のことに専念していて、とても心地よかったのだ。
そして、再びあの店に行こうと思っていた。お礼を言いたいし、なにより、もっと自分の思い通りにできると考えたからだ。
 あの曲がり角の先に『設定屋』がある。綾香は無意識にスキップでもしそうなほど浮かれた気持ちで店を目指した。
 曲がった瞬間に、ドンッ、と肩に衝撃を受けた。ほとんど周りを意識していない状態だったから、反対側から歩いてくる人物に気づかずぶつかってしまったのである。
「いってえな。おい」
 若いのに、無理やりドスを効かせようとした感じの声。
 見れば、髪を薄く金色に染めた青年だった。綾香は同年代の女性と比べて若干背が高いし、青年と同じくらいだ。
「あ、すみません」
「いてえっつんだよコラ。折れてるかもしれねえだろ、大人なら誠意見せろや」
 うわ、と綾香は顔をしかめる。面倒くさいヤツに絡まれた。設定屋はすぐそこにあるのに。
 せっかく今日は良い気分だったのに、こいつのせいでまた苛立ちが帰ってきた。
「だから、謝ってるじゃないの。ていうかそれくらいで折れるわけないでしょ」
「あぁ? ぶつかっといて何だよその態度。おい、ちょっとツラ貸せや」
「はい? 何なのあなた、初対面で――」
 失礼なヤツだ、と思いをぶつけようとする前に、頬に衝撃を受けた。
「ぶっ……!?」
 ――痛い。
頬が、痛い。
「おら、こっち来い」
 折れかけた膝では満足に抵抗できず、腕を引っ張られるままに路地の裏へと連れていかれる。
 ひりひりとした刺激で、綾香はようやく殴られたことに気づいた。平手ではなく、握り込んだ拳で。
「な、なにするの! 放して!」
「うっせーな、お前からぶつかってきたんだろうが! 土下座すりゃ勘弁してやるよ!」
「ふざけないでよ! 誰が土下座なんか……!」
 普段から、男に負けたくないと考えている綾香だ。素直に謝るはずもなく、こんなくだらないことで土下座なんてしたくない。
男の言いなりになんか、なりたくない。
 その意思を持ちながら生きてきたし、精神だけでなく肉体的にも彼女は鍛えてきたのだ。
 幸い、青年はそこまで大柄ではない。綾香は彼の腕を強引に振りほどいて、一瞬驚いたそいつの顔に、思い切り平手打ちをくらわせた。
 小気味良い音が路地裏に響き、瞬時に静まり返る。
 少しだけたたらを踏んだ青年は、頬を押さえながら綾香を睨み返した。
「何だ、やんのか」
「う……相手が女だからって、強がらないでよね!」
「あ? 何言ってんのお前、意味分かんねーよ」
 明らかに苛立っている青年が右手を伸ばしてくる――その手首あたりを綾香は手の甲で弾き、わずかに膝を曲げて重心を置き、青年の腹部めがけてストレートパンチを放った。
 唯一習っていた、護身術である。今回が初実践であるが、何度も練習してきたこともあってほぼ確実に対応できた。
「――ぃたっ!?」
 しかし、呻いたのは綾香の方だった。思い切り打ち放った拳は確かに青年の上腹部をとらえたが、乾いた音を立てて弾かれてしまったのだ。
 仮にも筋力トレーニングを積んできた綾香だ。薄く張った筋肉は並の男よりパンチ力はあるはずだったのに、青年にはまるで通じなかったのである。
 へえ、と青年は少し関心したようだった。
「結構やるじゃん。腹に力入れてなきゃダウンしてたぜ」
 力を入れていた、というのは何の気休めにもならなかった。綾香は自分のほぼ最大限の力がほとんど通じなかったことにショックを受けていて、動揺を隠しきれない。
「そっちは二発殴ったんだからな。まだ殴らせろよ」
「はあ? 本当にどうしようもないわね……!」
 苛立ちの火がさらに強まり、綾香は負けじと青年を睨み返した。
 先に手を出してきたのはそっちなのに。ちょっとぶつかったくらいで、いい歳してキレちゃってカッコ悪い。
 なによりも、声を大にして言いたいことがある。
「それに、女を殴るなんて最低! みっともない……!」
 見知らぬ相手に暴力を働くなんて当然おかしいし、女を殴る男なんてどうかしている。常識の欠片さえ持っていないのか。
 青年は、「は?」と眉をひそめる。
「あのさ、さっきからなに言ってんの? 女だから何だよ」
 理解不能、といった表情だった。本当に。
 綾香はそこで、胸の内がざわりとする感覚に陥った。その正体が何なのか気づく前に、
「ぅぐっ……!」
 青年の拳が、腹部に入っていた。
「っ、ぇ……!? げほッ!」
 目を白黒させた綾香は大きく咳き込み、体をくの字に折って苦悶する。
 体を鍛えて護身術を習っていたといっても、別に格闘技ができるわけでもない。対して青年は慣れた様子で殴ってきた。何の躊躇もないボディブローだった。
「女だからってカンケーねーだろ。おい」
「う、ぅぅ……!」
 ようやく、綾香は自分の矛盾点に気が付いた。
 今まで自分はどんな思いで生きてきた?
 優遇されているのが嫌いで、女という理由で人格まで注意されて、女に媚びを売る男がみっともなくて。
『女を殴るなんて最低』
 だったら、どうしてこんな言葉が出てきた?
 性別で扱いを変えない世界を望んだのは、誰だ?
 綾香は自分の意思を取り戻そうとする。しかし、殴られたという事実、加えて、腹の痛みがそれを邪魔し、心がふらふら揺れるばかりだった。
「あー、最初にぶつかってんだから、全部で三発だな。じゃあと一発殴るわ」
 青年の口調は、“相手が女でも”容赦がないようだった。
この世界では男女の区別がないのだから、当たり前なのだ。
「い、いやぁっ……!」
「なよなよした声出すな、むかつくんだよ!」
 青年は右腕を大きく振りかぶった。まっすぐ顔面を狙う構えだ。
「ひッ……!」
 とっさに腕で覆い隠す。
 だが、鈍い音は再び腹部から聞こえた。
「ぅっぶ……!?」
 顔を守ろうと両腕を上げた瞬間、無防備になった腹を狙われた。
 体を持ち上げるようかという拳は、ブラウスに隠された綾香の腹へと沈み込む。鍛えているはずの腹筋が、めりめりと音をたててへこんでいく。
「ぐっ、ぶぁ……ッ……むぐっ!」
 肺を圧迫されたことで、押し出されるようにして空気と唾液が口からこぼれた。見開いた目には涙が浮かび、視界が滲む。
 ガクガクと膝が震え始めると同時に、喉の奥から何かがこみ上げてきた。腹に突き刺さっている腕から手を離し、反射的に口を押さえる。
「へっ」
 綾香の悶絶ぶりにほくそ笑んだ青年は、彼女の腹に拳をさらに深く押し込んだ。
 ぐりっ、とブラウスに反時計のねじれが生じる。
「ぅう゛っ」
 音をたてて軋む内臓。綾香は濁った呻き声を洩らし、目を白黒させた。
「ッ、ぇっ、ぐぷっ!」
 喉の奥からのぼってきた酸味に身体が震え、綾香は耐えきれずに胃液を吐き出した。
 ある程度鍛えていたおかげなのか、もろに胃の中のものを嘔吐することはなかった。しかし、勢いよく吐いた胃液は青年の腕にかかり、彼をまたしても逆上させる。
「おいおい! きたねえだろ!」
 青年は拳を引き抜くと、びくんと痙攣する綾香を突き飛ばした。
「いっ……! かはっ、けふっ」
 塀に背中を強打し、残り少なかった酸素が全部飛び出した。
 綾香は塀を支えにしながらずるずると尻もちをつく。そのまま、腹部を抱えるようにしてアスファルトに横たわった。
「ぅぅっ、ふっ、う゛え゛ぇぇぇっ、けほっ」
 痛い。お腹痛い。気持ち悪い。
 いまだに痛みの引かない腹部と、視界がぐるぐる回るような嘔吐感。粘ついた唾液が溢れて止まらない。
 悶え続ける綾香は、次に起きることを予感していた。
 ここは人気のない路地裏で、もう夜になろうとしている時刻。力の強い男が、女を殴りつけて抵抗できないようにしている。
 こいつは他人を躊躇なく殴るような男だ。これだけで済むはずがない。
 綾香の下腹部の奥で、何かがうずいた。防衛本能が働いて、そちらも一緒に抱えてうずくまる。
「けふっ、や、やだぁ……! ぜったい、いや……!」
 涙もぼろぼろと流れてくる。無様とかそんなこと言ってられない。なんとか脱出する方法を考えなければ――
「ったく、冷めたわ。もういいよお前」
 心底興味なさそうな声だった。
 え、と綾香はうずくまったまま、遠のいていく足音を聞いている。痛みをこらえながらおそるおそる顔をあげると、青年の姿はすっかり消えてしまっていた。
 助かった、と言えるのか。
「うぅ……」
 だが、綾香の心にはなぜだか引っかかるものがあった。海の底にあるような感じ。
 そして、それを掬い上げると、涙がさらに溢れてきた。殴られた腹部が痛いとか、吐きそうだからじゃない。
 自惚れだと思われたっていい。だ女として襲われなかったことが、悔しい。
 女を人気のないところに連れ込んで、ぼこぼこにして、逃げられなくして、それで終わりって――
 いや、今この世界は、どういう常識なんだっけ。
 それを考えると同時に、綾香は自分の愚かさも自覚するのだった。
 誰よりも女としての意志を持っているのは、他でもない自分だということに。

 生気を失った表情で、綾香は『設定屋』の扉を開いた。
 なぜだか懐かしい感じがする紙の匂いと淡い電灯。黒髪の少女は、昨日といつもの恰好で椅子に座っていた。
「こんばんは。随分とお疲れですね」
 やはり無表情で少女は言った。何があったか知らないはずなのに、少女にはすべてが御見通しのような気さえする。
「自分の望んだ世界にはなりませんでしたか?」
「あ……」
 どう答えたらいいのか分からない。
 確かに綾香の願いは叶えられた。女だからって優遇されない世界。女だからってちやほやされない世界。女だからって色目を使われない世界。
 でも、さっき分かった。
 自分自身が、女であることを盾にしていたこと。
――女だから、なんだっていうんだ。
簡単なことだった。“そういうことを言える女”であることに悦になっていただけ。有り体にいえば、自分に酔っていたのだ。
 なんて情けない。なんてみっともない。世間や他人のことをあれこれ突っ込むくせに、肝心の自分は――
「……戻して」
 自然とそう口にしていた。
「よろしいのですか?」
「いい。自分のこと、よく分かったから」
「なるほど。それではあなたが変更する前の世界に戻しますね」
 淡々の少女は答える。その表情からはやはり何も読み取れない。
戻すよりも、また別の設定で世界を変えることだってできる。しかし、精神的にも肉体的にも疲弊した綾香には、もうどうでもよかった。
「人は何かに直面して初めて自分自身を知るのです。あえて偉そうに言わせていただきますがあなたにはいい経験になったことでしょう」
 まるで、昔から知っているかのような口ぶりだった。
 ぞくりと綾香の心臓が震える。
 目の前にいる少女は、単なる書店の店員ではない。世界の常識を変えることができる本なんて、そんなおかしな本を持っていること自体、疑問が浮かんでくる。
 だって、この少女だって自分の好きなように変えることだってできるはずだ。それをどうして、他人である綾香に試させたのか。
 そもそも――今の世界はどうやってつくられたのか。
 あっ、と綾香は声をあげた。その時にはもう遅くて、少女は本へと鉛筆を走らせていた。

★金と黄の交差

「わあっ、すごいっ」
 駅から一歩外に出た途端、彼女は好奇の視線をあちこちに巡らせた。
 この地域はT都の代名詞ともいえる場所で、観光客は必ずといっていいほど訪れる名所である。
 背の高いビルにはアニメの看板だったり、映像だったり、それはもういわゆる”聖地”めいた雰囲気があった。平日の夜だというのに人通りも多く、初めてこの地に足を踏み入れれば、とにかくあらゆる店へ入りたくなってしまうだろう。
「あ、いけないいけない。遊びにきたわけじゃないんですから」
 表情を引き締めながら、彼女は――如月シオンは緑色の瞳で夜空を仰ぎ見た。
 雑誌等で興味はあったが、実際にこの目で町の景色を見るのは初めてだ。かといって彼女は観光目的ではなく、仕事で訪れている。いや、任務、といった方がしっくり来るだろうか。
『人妖』と呼ばれる、人間社会の脅威となっている怪異が存在する。見た目は人間だが、本質は妖怪のそれである。人間との粘膜接触によってエネルギーを摂取するという、まさに人類の天敵といえた。
 シオンはそれを半ば実力行使でもって退治する戦闘集団、”アンチレジスト”の構成員である。しかも、彼女は上級戦闘員という肩書きを持っており、その実力は折り紙つきだった。
「えっと、C地区……でしたね」
 今回彼女に与えられた任務は、C地区で探知されたという人妖と思われる生態反応の調査である。
 判然としないのは、今までに確認されたことのないタイプの反応だったからだ。だからこそ、シオンが派遣されてきたともいえる。
 彼女は頭に叩き込んでいる地図を思い浮かべながら、目的の場所へと歩み出した。夜ということもあってか、ブロンドの髪が絵のように映えている。
 トレンチコートを着ているものの、彼女の美貌や真っ直ぐな足取りからして、スタイルも相当レベルが高いであろうことは想像に難くない。この街では外国人がいること自体はそれほど珍しくないが、シオンの存在感はどんな人間よりも一際目立っている。
 当の本人は気づいているのかいないのか、周囲の視線を気にすることなく歩き続けた。目的地は意外にも近かったため、すでに精神を引き締めている。
 しかし、
「はわっ、か、かわいい……!」
 視線の先には、彼女の憧れともいえる存在がいた。
 フリルの付いた真っ白なエプロンドレスにカチューシャを着こなしている若い少女たち。道行く人たちへ声をかけたり、店のチラシを配っていたりする。
 彼女たちはメイドだ。かといって職業がまさにメイドというわけでもない。この街ならその姿はそこかしこで見かけるし、アルバイトが多いだろう。中にはちょっと危ない店もあるかもしれないが、シオンは深く知らない。
「あぁ、こっちにもメイドさん、あっちにもメイドさん……!」
 シオンはいわゆる名門家の生まれで、言うなればお嬢様であった。ご多分に漏れずそれ相応の教育を受けてきたが、彼女自身の心にはほんの少し疑問が浮かんでいた。
 なぜ人は平等ではないのか。
 およそ上の立つ人間の思考とはいえない。しかしシオンにとっては素朴な疑問として常にあり、それは「メイド」という存在を知ったことで、世界丸ごと価値観がひっくり返った。
 ただ映画で見ただけだ。たったそれだけのきっかけで、シオンは「誰かの役に立とうとする」その姿に魅了され、以来メイドに憧れを抱くようになったのだった。
「お話したい……! 写真を一緒に撮るだけでも……!」
 通行人に声かけしているメイド姿の少女へ、ふらふらと吸い寄せられていく。
 しかし、仮にも彼女たちは仕事中だ。それを邪魔するわけには……
「仕事……、い、いけない。私も任務中なのでした――いやでも、ちょっとくらいなら……」
 一瞬だけ我に返ったのも束の間、笑顔を振りまいているメイドの姿が視界に入ると、どうにも頬が緩んでしまう。
 そうだ、通りがかって声をかけられたというシチュエーションでいこう。決して任務を忘れているわけではない。たまたまメイドさんの前を通りかかったら、話しかけられたということなら、別に何も不自然ではない。そこから会話に発展して写真を撮ることになったっておかしくないはずだ。多分。
「よし……!」
 シオンは妙に緊張した面持ちで、金髪のツインテールを整えた。いざ行かんとメイドの方へと歩み寄ろうとした矢先、
『シオンさん!』
「ひゃいっ!?」
 びくりと肩を引きつらせて硬直する。通行人の視線が集まってきて、シオンは顔を伏せながら早足でメイドの前を通り過ぎた。今の声はイヤホン型インカムから流れてきたオペレーターだ。
 自動販売機の陰に隠れながら彼女は弁解の言葉をまくしたてる。
「す、すすすみませんメイドさんが目の前にいたのでつい魔が刺したというか決してサボろうとしたわけではなくて――」
『な、なんのことですか? いえ、それより、異様な反応――気を――』
 オペレーターの声は唐突に聞こえなくなってしまう。若干のノイズが走っていて、耳障りな音と状況の異変に、シオンは眉をひそめた。
「なんですか、放してください!」
 悲鳴に近い声に、シオンはすかさず振り返った。
 先ほど声をかけそびれた黒髪のメイド。なにやら見るからにやんちゃそうな青年が彼女の腕を掴んでいる。
「いいじゃんほら、ちょっとだけだって。あっち行こうぜ」
「や、やめて……! 誰か……!」
 周りは見て見ぬフリをしていることが、シオンには分かった。疑問と苛立ちを覚えるが、あのメイドを困らせているのはシオン自身が見過ごせるはずもない。力強い足取りで二人に迫っていく。
 突然目の前にやってきた金髪少女に、青年は面食らっていた。
「な、なんだよ。あんた」
 彼の身長は若干低めで、線も細い。茶色に染めた髪は若干ボサボサで、目つきは悪いがあまり頼りになさそうな印象がある。
 しかしそんなことは関係ない。例え相手が体格のいいボクサーみたいな男だったとしても、シオンはこうしていただろう。
「彼女は嫌がっています。その手を放しなさい」
「は? カンケーないだろ。それともなに、あんたが代わりに相手してくれんの?」
 逆に男は、相手が女であるということに余裕を\感じているようだった。
 はあ、とシオンはため息を吐く。彼女は羽織ったロングコートの、肩から太ももあたりまである長いファスナーを下ろした。
 コートの下から表れたのは、この場では非常に馴染み深い「メイド服」だった。ただし一般的なそれと比べると露出度が高い。トップスはブラジャー型だし、エプロンのついたスカートも短い。白くて滑らかな腹部を惜しげなく晒しつつも、長くてしなやかな両脚は白のオーバーニーソックスに包まれている。
 今まさに守ろうとしているメイド少女が頬を赤くするくらい、挑発的な恰好である。しかしこの姿は、同時に任務中であることを示している。アンチレジストの上級戦闘員、如月シオンのれっきとした戦闘コスチュームだ。
「わ、あのメイドさん、めっちゃえろい」
「でもすごく綺麗だよね……!」
 事実、シオンは年齢の割に童顔だが画に描いたようなスタイルの持ち主であった。男性は下心の入った好奇も目もあるが、女性は羨望ともいえる視線をシオンに注いでいる。
 青年も呆気に取られたようだったが、どうも自分の都合が良い方向に物事を考える性格らしく、
「お、なに、マジで相手してくれんの?」
 と、にやついた顔で言うのだった。彼の興味は完全にシオンに向けられていて、小柄なメイドの手をすでに解放していた。
 そんな青年をシオンは冷ややかな目で見返す。
「ええ、お相手しましょう。ただし――」
 彼女はおもむろにコートを青年へと投げつけた。動揺している声の主へと向かって、白いオーバーニーソックスに覆われた右脚が振り上げられる。
 長くしなやかな脚が、コートで視界を奪われた青年の頭へと正確にヒットした。ごっ、という鈍い音に、メイド少女がびくりと肩を震わせる。
 漫画みたいな動きでもって、青年は身体ごと吹っ飛んでアスファルトの上にどさりと倒れ込んだ。
「あなたの思っているような――もう聞こえていませんか」
 ハイキックをの態勢から微動だにしないまま、シオンは静かに呟いた。
 おおっ、と周りの人々が歓声をあげ、スマートフォンやら何やらで写真を撮り始める。シャッターの音にシオンはどきりとして、慌ててスカートを押さえながら足を下ろした。
(い、いけない。目立ってしまったら任務に支障が……)
 メイド少女を助けたいあまりに我を忘れていた――しかしある意味彼女らしい一面でもあった。
 ふう、と軽く息を吐くシオンのそばで、メイド少女が恍惚とした表情で口をぽかんと開けている。
 シオンは気づいた。これはチャンスなのでは。今なら少女とお近づきになれるはず――
「おー、いてえ、結構やるじゃん」
 背後からやけに陽気な声。シオンは再びメイド少女をかばうように位置取りながら振り向いた。
 たった今ハイキックでダウンしたはずの青年が、首を回しながらニヤついている。コートは足元へ無造作に投げされていた。
(確実に入ったはず……!)
 動揺してはいるが、シオンは心理的な優位を相手に与えないために、表情を崩さず凛とした目つきで睨み返す。
 彼女が得意とする蹴りは、並大抵の格闘家が放てるものではない。
 筋肉で覆われた腕や足ならともかく、頭部を鍛えることは不可能。しかも彼女のハイキックは直接脳を揺らすほどの威力だし、かろうじて失神しなかったとしても、この青年のように笑った顔で立ち上がれるはずがない。
 こいつは、普通じゃない。
「お? なんだか知ってるって顔してるな――あ、分かったぞ? お前がアレか、果汁系戦士ってやつだな?」
「かじゅう……なんです? 人違いではありませんか?」
 聞きなれない言葉にシオンは気を取られそうになるが、ほんの一瞬だけだった。余計な事に意識を逸らさず、目の前の青年に集中する。
 この街に訪れた目的は、レジスタンスがキャッチした不審な生体反応を調べること――おそらく彼だ。
 短く息を吸ったシオンは戦闘態勢に入る。対して青年は、
「ふん、そうか、正義の味方ってのは正体を明かさないらしいからな。だけど俺は違うぜ?」
 彼は大袈裟に息を吸い込むと、ぐっ、と背中を丸める。
 全身に力を込めているようだ。握った両拳をぶるぶると震わせ、顔も紅潮していき、首元も血管が浮き上がっていた。
「ゴゥアアアアアアアアアアアアア―――――――――――!」
 溜め込んでいた酸素を一気に爆発させ、叫ぶ。
 人間の口から発せられるような声ではなかった。もっと獰猛で、激しい。咆哮と言ってもいい。
「う……!」
 シオンはびりびりとした威圧感を肌で感じ取った。ほとんど迫力のなかった青年が、突如として驚異的な存在感を放っている。
 すぐに、彼女はその美しい瞳に捉えた。青年が『変身』していく様を。
(なんですか、これは……!?)
 目の前で起きていることが、すぐには信じられなかった。
 青年が着ていたシャツが、内側から破れていく。それは彼の肉体が文字通り膨れ上がったからだ。細身だったはずの身体はもう見る影もなく、現れた肉体は人間離れしているほど大きい。
 妙に赤黒い肌には血管が浮き出ており、胴体は大木を思わせる。筋肉がぎっしりと詰まった両腕はシオンの太ももほどの太さはあろうかというほどだ。
「ふしゅううぅぅぅぅ」
 青年だったはずの男は、水蒸気のような白い息を吐いた。
 その口からのぞいているのは薄汚れた牙。彼の瞳はぎらぎらと猛獣を思わせる色を帯びていて、額から突起物が生えている。
 上半身だけは恐ろしく変貌したものの、下半身だけはジーンズのままでほとんど変わっていないのがアンバランスであった。
 周りの人々は明らかな異形を目の当たりにし、我先にと一目散ひ逃げ始めた。好奇心を持つ者はほぼゼロで、シオンはすぐ背後にいるメイド少女に、振り向かないまま声をかける。
「今すぐここから離れてください」
「ぁ、え……」
「早く!」
 ほんの少し躊躇の呼吸。その後すぐに、メイド少女が逃げていく足音をシオンは聞いた。
 自身の精神を尖らせながら、変貌を遂げた青年――怪物を睨む。
「鬼……!」
 そうシオンは感じる。彼の見た目は、昔話などに出てくる鬼そのものと言える。そして、おそらく『人妖』ではない。もっと別の何かであると確信した。
 チッチッ、と『鬼』は分厚い舌を鳴らして指を振る。
「オレの名はオニラスだ。お前は?」
「……答える気はありません」
 あくまで主導権は握らせない。シオンは異様な威圧感を受け止めながら、鋭い瞳でもってオニラスを睨み返した。
「チッ。まあいい。果汁系戦士ってのが分かっていれば十分だ!」
 人違いなのだが反論している暇はない。
 オニラスはその筋肉質な体で駆け出してきた。両脚は人間のままだからか、妙に俊敏に感じられる。
「――――ッ!」
 シオンとてアンチレジストの上級戦闘員である。数多くの戦闘を経験してきた彼女は、もとより『人間』以外を相手にしてきた。オニラスという怪物の存在を目の当たりにしつつも、戦闘スキルが鈍ることはなかった。
 太い腕から放たれる拳を寸前で避け、逆に懐へと潜り込む。
「はッ――!」
 オニラスの脇腹めがけて、薙ぐような蹴りを放つ。シオンが履いている黒のストラップシューズには、鉄板が仕込まれていて、相手が人間であれば肋骨の一本や二本は折れるだろう。しかしオニラスは確実に人間ではない。だからシオンも最初から本気だ。
 ストラップシューズの爪先が、オニラスの赤黒い皮膚へ音をたててめり込んだ。
「ぐっ……!?」
 呻いたのはシオンの方だった。
 間違いなくヒットしたが、オニラスの上半身はやはり人間のそれではあり得なかった。筋肉はもちろん皮膚ですら堅く、まるで地面を蹴りこんだかのようだった。
(一旦離れて――!)
 シオンは即座に状況を理解し、判断する。危険を承知で飛び込んだオニラスの懐は、あちらも得意な間合いだ。
 だからシオンは左足で相手の腹部を蹴りこみ、反動で後方へと跳躍する。映画のワイヤーアクションを思わせる動きは、軽やかで華麗だ。
「グハハッ、どうしたんだ。いきなり距離を取るなんて」
 完璧な蹴りが入った脇腹を、ぽんぽんとオニラスが叩く。やはりダメージはほとんど入っていないと見ていい。
 シオンの表情に若干の焦りが差す。これまでにもおよそ『人間』とはいえないモノを相手にしてきた。危機に陥ることもあったし、その都度でどうすべきか考えてきた。
 しかし、オニラスは異常だ。まだ人妖であった方が、幾分納得もいく。だがこんな常識外れが相手では――
「焦っているな? いいぞその顔。どうだ? 今からでも俺の”相手”をしてくれても構わないぞ」
 へらへらと余裕を露わにしている怪物。
 自分以外の戦闘員であったらどう判断するだろう――アンチレジストは『人妖』の討伐を目的としており、当然一般人が知る由もない極秘組織だ。下手に目立てば組織の存在が知られてしまうかもしれないし、『ファーザー』はそれを望まないだろう。
 しかし、だからといって目の前に存在する怪物を放置することは、シオンにはできなかった。
(きっと、綾ちゃんだって戦うはず)
 同じ上級戦闘員である少女の顔が思い浮かんだ。任務だとか、アンチレジストだとか関係ない。
 究極的な任務は、”人を守る”ことなのだ。
(体は頑丈すぎてまともに通じない……それなら)
 オニラスの体つきは、上半身は完全に怪物と化している。しかしジーンズを履いた下半身は人間のままだ。シオンは自分が相手より小さいことも利用する。
 足を狙うのだ。
「ああん? 焦っていたかと思ったらなんだよその目は。いきなりキリッとしやがって」
 シオンの戦う意志を帯びた目が気に入らないのか、オニラスは大きく舌打ちをした。
「逃げると思いましたか? そんなつもりは毛頭ありません。あいにくですが、私はしつこいですよ」
「チッ、そうかよ。ぜってえ、俺の”相手”をしなかったことを後悔させてやる!」
 吠えながら突進してくる怪物。シオンは冷静な思考でもって相手の動きを読む。
 オニラスは体が大きい分、攻撃の振り幅も広い。それはリーチが長いという厄介さもあるが、攻撃箇所の予測がしやすいという点があった。そこがこの怪物に勝つために攻めるべき弱点だ。
(右のストレートを受け流して――!)
 顔面を狙ってきた真っ直ぐなパンチを、左手で軽く弾く。筋肉の動きなど、戦闘経験豊富なシオンだからこそできる芸当だった。
 オニラスの腕は斜めに逸れて、体の前面を開くようなかたちになる。
「――――ふッ!」
 薙ぐようなローキック。体ごと半回転しながら放ったそれは、空気を切り裂く音を響かせた。
「うおぉッ!?」
 怪物は動揺していたが、対応しようとする動きはやはり人間の領域を超えていた。
 彼は迫ってくるシオンの長い脚を視線にとらえつつ、体をねじって回避行動に移っている。体重を乗せた拳を放っていたから、ジャンプなどして避けることは無理だと即座に判断したのだろう。
(速い! でもこのまま!)
 シオンは自分の蹴りがヒットすることを確信していた。直撃はできなくとも、足にダメージを与えれば勝機も見えるはず。彼女は迷いを捨てて、しなやかな脚を振りぬいた。
 鉄板が入ったシューズのつま先は――オニラスの股間に突き刺さった。
「あ」
 思わずそんな声をこぼすくらいに、シオンは色んな意味で動揺した。だが反撃を懸念して、初撃と同じようにすぐ後方へと跳び退る――追撃は来ない。
「――――」
 停止ボタンを押されたみたいに敵は硬直していた。
 シオンは構えを維持しながらも、蹴り込んだときの感触がどうしてもフラッシュバックしてきていた。男性にとっては地獄かそれ以上、死んだ方がマシという声を聞いたことがある……なんだか、とてつもなく悪いことをしてしまったような気分だった。
(き、効いたの? 人間ではないし、もしかしたら効果は……)
 つぶさにオニラスの状態を凝視していると、彼はものすごく小さく「ぉ」と声を洩らした。そして、
「ぐおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉくぁwせdrftgyふじこlp!!」
 この世のものとは思えない呻き声を発して、オニラスは股間を押さえながら転げまわった。それはもう見るのも気の毒になるくらいに痛そうで、
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 思わず声をかけてしまうくらい、シオンは妙な罪悪感を覚えていた。
 ただの人間みたくのたうち回っているオニラスは、体を小刻みに震わせながらもゆっくりと立ち上がる。
「くそっ、男のアイデンティティを容赦なく蹴りつけるような女だなんて……!」
「あの、さっきのは不可抗力です……! あなたの動きが予想外にも……」
「ええいうるさい! お前は男の敵だ! 全世界の男を代表して仕返ししてやる……!」
 怒り心頭といった様子でオニラスは睨みつけてきた。
 ともかく、効果があることは分かった。あの部分を集中的に狙うのは少々気が引けるが、効果がある部位にダメージを与えなければ勝ち目はない。
 それに、敵の攻撃はただ乱暴なだけで、言うなれば喧嘩スタイルだ。訓練と実戦の経験値が高いシオンにとって大した脅威では――
「――おい、まさか、俺が最初っから全力で戦っていると思っていたか?」
 相手を惑わすハッタリ――ではなかった。ぞくっ、とシオンは全身に氷をあてられたような寒気を感じ、 咄嗟に防御寄りの構えを取る――
 もう、遅かった。
 ズン、と腹部に衝撃が来て、視界が妙な位置にズレた。
「ぁ゛っ……」
 何が起きたのか、シオンの脳はまだ理解が追いついていなかった。
 体が動かない。足がなぜかアスファルトを離れている。
 目の前にオニラスの顔がある。体格差があるはずなのに、目の高さが同じ。
 理解するより先に、腹からこみ上げてきたものをゴボッと吐き出した。
「ぇっ……ごぷっ!?」
 びちゃりとアスファルトに広がったのは、自分の胃液だと分かった。喉が熱く、ひりひりと痛む。口内にまとわりついて、舌から糸を引いている。
「フン、結構鍛えてあるな。まあ、ただの人間じゃ受けきれねえか」
 オニラスの声が妙に大きく響く。鼓膜を直接叩いているみたいに。
 彼の右腕が自分の身体へ伸びていることにようやく気付いた。辿るようにして視線を泳がせる。
 筋肉の塊から繰り出された拳が、身体を強引に持ち上げていた。
「ぅぐっ……! ぇ゛っ……!」
 かなりの時間差で痛みが呼び起された。およそ人間が受け止められる攻撃ではなかったため、脳が理解するまで時間を要したのだった。
 滑らかに引き締まった腹筋は強引に突き破られて、体内の内臓器官にまで拳が抉り込まれている――そう気づいた瞬間だった。
 突き刺さっている腕が、ぐるりと半回転した。
 ぐちゅ、という生々しい音。
「う゛ッえぇぇぇぇぇ゛ぇ゛ぇ゛!」
 大きく身体が跳ね、少し白く濁った胃液が溢れた。抉られていた胃袋が、まるで雑巾を絞るみたいに捩じり回されたのだ。
 ビクビクと痙攣する肢体。ズボリと音を立てて拳が引き抜かれる。彼女は受け身を取ることができないままアスファルトへと転がった。痛々しく陥没した腹部を押さえながら、海老のように背中を丸めてうずくまる。
「ッ、か――はッ――ぁ゛っ――」
 呼吸困難に陥ったシオンは、犬のように浅い呼吸を繰り返した。
 穴が開いたかと思うほどの鈍痛が腹の中で蠢く。激しい嘔吐感はまったく引かず、だらしなく開いたままの口から粘ついた胃液が垂れ流されるばかりだった。
 腹を殴られることはある。訓練もそうだが、実戦で腹部を狙われることは当然ある。が、
(一撃で――胃が、潰れ――!)
 この戦いで初めて受けた攻撃。たった一撃だ。それだけで、すでに再起不能状態だった。
 悶絶しているシオンの頭が、がっしりと鷲掴みにされる。抵抗することもできず、彼女は人形のように持ち上げられた。
 それから手を離されて、倒れ込む前に首元を掴まれる。そのままは背後にあるビルの壁に勢いよく押し付けられた。
「ぅぎっ……! かぁっ……!」
 背中を強かに打ち付けられ、全身に痺れが走る。
 先ほどのボディアッパーですでに酸素がほとんど叩き出されていた。そのうえ首を鷲掴みにされ、シオンは酸素をまともに取り込めなくなる。
 首を絞めている腕を殴りつけるが、細腕には力がほとんど入っていない。これでは、たとえ子供の腕だって振り払えないだろう。
「クハハッ、胃を潰されただけでこのザマか」
 完全に勝利を確信しているオニラスは、空いている片方の手を再び握り込んだ。シオンの瞳に、恐怖の色が宿る。
「安心しな、人間の痛めつけ方は慣れてんだ。すぐにゃ死なないよう殴り潰してやるよ!」
 殴られた箇所へと、再び猛打が埋まる。
 わずかな気力で腹筋を固めたものの、何の効果もなかった。ごつごつとして硬い拳は滑らかな腹筋を押し潰し、再び胃を抉る。
「ぅごお゛っ――!」
 元の形に戻りかけていた胃が、背骨にまで押し付けられる。壁を背にしているから、衝撃はほとんど抜けずに腹の中で暴れまわった。
 新たな嘔吐感がこみ上げるが、首を絞められているせいでせき止められている。吐き出したくても吐き出せない。
「今度はこっちだオラァ!」
 狙われたのは脇腹だ。太い腕がフック気味にしなり、シオンの右脇腹に突入する。
「げえぁっ――!?」
 ミシッ……べキッ……
 シオンは肋骨の数本が折れたことを自覚した。衝撃は肝臓にまで届き、シオンの顔色が青白くなっていく。
「ぐぎっ、ぃ、げふッ……!?」
「ハッ、簡単に折れたな。肝臓も使い物にならないだろ。次はここだ!」
 続いて狙われたのは臍の辺り。やや下方へ付き下ろすような拳が臍へと沈み込む。
 柔らかな下腹部に潜り込んだ拳が、さら右へ左へと捻られた。
「ぅぐふっ!? ぉ゛ぁ、ッ、ごぇ゛――!」
 小腸が大きくかき回される。
 ぐちゅぐちゅ――腸のひしゃげる音が体内を通って、シオンの鼓膜で鳴り響く。
 肋骨を砕かれて、立て続けに臓器を抉られ、ねじ回され、潰され。シオンの内臓器官はほとんど原型を留めていない。
(ぁ――おなか、ぐちゃぐちゃ――)
 涙が溢れている瞳からは、やや光が薄れていた。常人ならとっくに失神しているか、最悪の場合死んでいる。
 まだ意識を保っているのは、彼女自身が人並み外れた訓練で身体を鍛えていること、これまで潜り抜けてきた死地での経験が発揮されているからだった。さっさと気を失ってしまった方が、楽だったかもしれない。
 散々内臓を弄んだオニラスは、手首近くまでめり込んでいる拳を引き抜いた。
 引き締まった腹部には陥没が残され、ぐぼぐぼと臓器が蠢く音が聞こえる。
「もう使い物にならないな、お前の内臓は」
「か……はっぁ゛……ッ」
 汗ばんだ顔に、美しいブロンドの髪が張り付いている。全身も汗で濡れているシオンは、内臓の痛みで失神寸前にまで陥った。焦点の合わない瞳が、時折瞼の裏に隠れるほど行ったり来たりしていた。
「次が最後だ。女の大事なモン――子宮を潰してやる」
 シオンの身体は、痛みとは別の反応を示した。びくっ、と子供が肩を震わせたような動き。なによりもまず女としての防衛本能が働いたのである。
 ただ、それは単なる反応に過ぎず、肋骨や内臓を潰されて満足に呼吸もできない状態では、腕はおろか指先さえ動かすこともできないのだった。
 そのくせ視界だけは妙にはっきりしていて、怪物が拳を固く握りしめているのが見える。大きく後ろに引き絞りながら、彼の視線は下腹部のあたりに向けられていた。
 (ぁ――やだ――ッ――)
 内臓をあっさりと潰す拳。下腹部に付きこまれたら、子宮なんて簡単に破裂してしまう。
 シオンは殴り潰される痛みより、それが怖くて仕方なかった。子宮どころではなく、死ぬかもしれないのに、彼女は『女としての死』にひどく恐怖した。
 だけど、力は全然入らない。腹部を守ることができない。怪物から目を逸らせない。
「ハッ、いい泣き顔だな。なに、一発で粉砕して――」

「そこのあんた、こっち向け」

 その声は、シオンの鼓膜を優しく叩いた。
 ああ? とオニラスは鬱陶しそうに、シオンから見て右を向いた。
 と同時に凄まじい衝撃音が響き、怪物の姿が一瞬でどこかへ飛んでいく。
 首の圧迫が唐突に消えた。シオンは壁に背をずるずると押し付けながら尻もちをつく。
「ぅ、かはっ、げぼ、ぅぅええぇぇぇ……!」
 首を絞められていたことでせき止められていたものが、圧迫感と一緒に解放された。口から黄色く濁った胃液が溢れ出て、時折喉が詰まって重い咳を繰り返す。
 涙で滲んだ視界に、目が覚めるような黄色の髪をした少女が立っていた。
 その少女は右の拳を突き出している。信じ難いことに、一回り以上は体格差のあるオニラスを、拳一つで殴り飛ばしたのだった。
 そして、その姿も非常に印象深い。
(コスプレ……?)
 シオンがそう感じるのも無理はない。最近欠かさず追いかけているアニメに出てくる、魔法少女に似ていた。
 真っ白なブラウスは汚れ一つなく、胸元に黄色い宝石をあしらったリボンが付いている。
 丈の短い黄色のショートパンツから伸びる太ももは健康的に張っていて、肉感的な色気があった。膝下までのブーツだけがやけに重そうである。
 少女は「ふう」と軽く息を吐くと、拳を下ろしてシオンの方を一瞥する。途端に、その瞳が軽い動揺に揺れた。
「わっ、外国の人? えと、だ、大丈夫? あーゆーおーけー? どんうぉーりー? あー、英語ぜんぜん勉強してないもんなー」
 あどけないが、力強さが感じ取れる声だった。黄色の少女はさらに目を見開いて、
「ていうかその服エロすぎ! あ、そ、そういう仕事の人か……!」
「ぁ、ち、ちがい、ます……!」
 その点だけはどうしても否定したくて、シオンはか細い呼吸で答えた。
 おお、と黄色い少女が感嘆する。
「おねーさん、日本語分かるの? あーよかった」
「あ、あなたは……?」
 その時、瓦礫を吹っ飛ばしながらオニラスが起き上がった。彼は意識を保たせようとしているのか、頭を横にぶんぶん振っている。
「ぬあ、くっそ……! なんなんだ、お前は!」
「あ? あんたこそなんだこのクソ怪人。人間相手にみっともないっつーの」
 オニラスを見下すような視線をぶつけている。あの怪物をあっさり殴り飛ばしたのだから、この少女も普通ではあり得ないし、何より本人もそれを自覚している節があった。
「チッ、果汁系戦士に仲間がいるとは聞いていないぞ。お前は何系戦士なんだ」
「は? ああ――もしかしてそうなの?」
 と、少女は疑問の視線を投げかけてくる。
「い、いえ、なんのことだかさっぱり……」
「あー、違うっぽいね。本人は分かってるはずだし。ていうか、もうあの二人で十分だわ……」
 黄色い少女は呆れたような表情をしていたが、何か心地よいものを思い浮かべているのか、口元は薄く緩んでいた。
「おい、このおねーさんは全然カンケーないから」
「ふふん、そいつだけは逃がそうという魂胆か? 無関係なフリをしても無駄だぞ」
「だーから違うっつってんでしょ。人の話聞いてる? 言葉通じないの? バカですかー?」
「ハッ、えらくガキみたいな正義の味方もいるんだな。で、お前は何系戦士なんだって聞いてんだよ」
「あたしだよ! あたしがその果汁系戦士! レモンハート! 分かったかこのバカ」
 レモンハートというのが、少女の名前らしい。シオンはなんとなくではあるが、『果汁係戦士』の意味を理解した。
 小さな口から次々放たれる言葉は、まるで中学生の少女のようだった。それくらいの年齢だろうと、シオンは持ち前の観察力で判断した。小柄で顔つきはまだまだ幼いし、声色もあどけなさを残している。
 しかし、少女の振る舞いはオニラスにも劣らぬ存在感を誇示している。決してただのコスプレイヤーではない。あの怪物とはまた別方向の、『人間』を超えた存在であるとシオンは直感した。
「ていうかおねーさん凄いね。変身できなくても怪人と戦えるとか」
「へん、しん?」
「あー、うん。後で話すよ。まずあのバカ倒すから」
 ひどく呑気な口調でレモンハートはそう言った。いとも簡単に。ちょっと寄り道してくる、みたいな軽さで。
 シオンが呆気に取られていると、怪物は鼻で大きく笑った。
「フン、人助けってか? 俺には理解できねえな。他人なんか助けて何になるってんだ。見返りに何か貰えるわけでもなし、それこそバカってもんじゃねえのか?」
 その表情も声の調子も、明らかに見下している様子だ。
「そこの女だって、別に人を助けようなんて思わなけりゃ、俺にやられることはなかった。本当は後悔してんだろ?」
 腹部の鈍痛はまだ収まっていなかったが、シオンは頭に血が上っていく感覚をはっきりと覚えた。痛みなんか気にならなくなるほどに。
 何なんだあの怪物は。そんなこと言える権利でもあるのか。
(見返り? そんなの……)
 返りを求めてなんかいない。人を守ることに理由なんか必要ない。そんな薄っぺらい思いで戦ってなんか――!
「……そうだよね。あんたの言う通り」
 呟くような言葉は、レモンハートのものだ。黄色い少女はうつむき加減で頭をぽりぽり掻いている。
「赤の他人なんか構ってられないっつーかさ、そんな暇あるんだったら自分のこと優先しろって思うよねマジで」
 それは呆れた声色であることに間違いはなかった。だがシオンはレモンハートに対して、怒りが沸いてこないのだった。
 声の奥に、確固たる『芯』のようなものを感じ取ったから。
「いやほんと、世の中そんなお人好しいるんだよ。下心とかそんなもん無いの。なんつーのかな、使命っていうの? しかも、誰かに認めてもらおうとか思ってないっていうね。ほんとバカみたい」
 はー、と少女はため息をたっぷり吐いてから、オニラスを睨みつける。

「そんなバカなことに命かけてるヤツもいるんだよ。それをバカにすんな。マジでぶっ殺すよ?」

 射貫くような瞳。心臓が跳ねるかと思うほど、思いの満ちた言葉。シオンはオニラスが反論せずに若干後ずさりするのを確かに見た。
 この少女にはきっと、そういった友達がいるんだろうと思った。友達を侮辱されたのだから”キレる”のは当たり前だ。少女はそれだけその友達が好きなのだ。
 対してオニラスは、自分が気圧されていることを誤魔化そうとしていた。
「ハ、ハハハ、調子に乗るな。いくらガキでも遠慮しねえぞ!」
 怪物は再び怒号をあげて態勢を低くした。
 あ、とシオンの背筋に冷たいものが走る。あの構えはまずい。一瞬で懐まで飛び込まれてしまう――!
 目の前で空気の破裂音が轟く。
 シオンはやはり、オニラスの動きを目で追い切れなかった。
 だが、避けようのないボディブローをレモンハートが片手で受け止めていることが、理解不能だった。
「なんだと……!?」
「え、なに今の。おっそ。あたしの腹を潰せると思ったの? 今ので?」
 あえて強気な態度を示しているとか、そんな雰囲気ではなかった。表情でわかる。黄色い少女は本心から、今の攻撃が”しょぼい”と感じているのだ。
「なーんだ。ただのモブ怪人か。じゃあさっさと、死ね!」
 レモンハートは語尾を強めると、あろうことか、オニラスの股間を思い切り蹴り上げた。生き物の身体から発してはならないような音が響き、シオンは思わず両手で視界を覆ってしまった。
 目を見開きながら大事なところを押さえ、怪物はのたうち回った。
「ゴアアアアアアアアアアアアァアアァァァ二回目えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええぇぇぇぇ!!」
 今の蹴りは、シオンよりも当然強烈なものだろう。その痛みなど想像できるはずもない。
「二回目? へえー、おねーさん、こいつのあそこヤッたの? すごいじゃん」
 そう言って視線を向けてきたレモンハートの表情は、関心しているような色を表していた。
 そしてすぐに、悶絶しているオニラスへと目を戻す。少女の右手が何かを握っていることに気づいたシオンの口内に、唾液が湧き出てくる。
 それは熟したレモンだった。どこから取り出したのか全然分からないし、何よりこの状況でレモンを手にしている意味も謎すぎた。
 レモンハートは黄色い果実を、痙攣しているオニラスの口の中へと強引に押し込む。
「はい、もうあんた終わり。ヒーロー番組だったら今ここエンディングかかってるから」
 うまく吐き出せないのか、レモンを丸ごと口に含んだオニラスはもごもごしながら転げまわっている。
 ふーっ、とレモンハートは大きな深呼吸をした。
「飛、ん、で、けぇ!」
 少女の肉感的な太ももがしなる。抵抗できないオニラスの顔面を、問答無用で蹴りつけた。
 ぶぎゅえ、とかよく分からない呻き声と、口に入っていたレモンの果汁が飛び出す。オニラスはサッカーボールよろしく斜め上へと吹き飛んでいった。ゆうに五十メートルは飛んでいる。
 そして、背の高いビルの屋上を越えたとき――爆発した。
「え……?」
 文字通りの意味だ。オニラスの身体はダイナマイトだったかのように、爆散して消え失せたのである。
 一連の流れが全くもって飲み込めないシオン。これはドラマか何かの撮影ではないかと感じるほどに現実離れしていた。
「はー、あたしもバカみたい。あんなモブにマジギレしちゃった」
 目を白黒させるシオンをよそに、レモンハートは腰に手を当てて首を回している。
 騒動は終息した――シオンはそう理解した。途端に、安堵したせいか身体的な疲労と内臓の痛みが再び襲ってくる。
「ぅぐっ……げほっ……!」
 潰れた胃でわずかに残っていた胃液をゴポリと吐き出した。腹部でぐるぐると渦巻く痛みと嘔吐間で意識がぐらついたとき、肩に手が添えられる。
「おねーさん、これ食べて。かじるだけでもいいから」
 視界には黄色い果実が映っていた。小さく、薄く切られたレモン。はっきりと聞こえた声に言われるがまま、シオンはそのレモンを口に含んだ。
「んんっ……すっぱい……!」
「そりゃレモンだし」
 突っ込みを返されたシオンは、されるがままにレモンをそのまま飲み込む。
 すると、身体の重さがわずかに和らいでいることに気づいた。腹部の痛みまで次第に引いていくようだった。
 呆然としていると、レモンハートがいきなりシオンのむき出しの腹を撫でまわした。
「ぅひゃっ!?」
 少しひんやりとした手だったので、シオンはくすぐったくて変な悲鳴をあげてしまう。
「うわっ、あばら二本折れてるじゃん。ていうか胃とかもグチャってたっぽいんだけど。あたしならともかく……おねーさんってホントに普通の人?」
 疑いの目を向けてきたので、シオンは思わず目を逸らしてしまった。
 口をつぐんだ彼女の腹部から手を放したレモンハートは、その場に座り込んだ。片膝を立てた態勢でちょっと行儀悪いが、彼女の風格だととても似合っている。
「まー、詳しくは聞かないけど。いろいろあるだろうし、お互い」
 へへ、とレモンハートは微笑んだ。なんてことはない、女の子らしい表情だった。
「あ、あの……レモンハートさん?」
「なに?」
「……果汁系戦士って、なんですか?」
「分かんない」
 即答である。
「いや、ほんと分かんないの。急にこんな力を持っちゃってさ。意味不明」
「分からないまま戦っているの?」
「あいつらマジうざいんだよね。悪さしていると分かっちゃうんだわ。なんかこう、頭にキーンって来るの。ほんとやめてほしい」
 どうやら、この少女は正義感というものをほとんど持ち合わせていないらしい。それでも助けられたのは事実だ。
 シオンは背中を預けた状態から背筋を伸ばし、頭を下げる。まず、言うべきことがあった。
「……ありがとうございました」
「えっ? いや、いやいや、別にいいって。あたしが勝手にやったことだから」
 礼を言われることに慣れていないのだろう。 手をぱたぱたと振って慌てているレモンハートは、頬を赤くしていた。
 あー、と少女は頬を掻きながら、
「多分そろそろ人が戻ってくるかも。おねーさんも離れた方がいいんじゃないの」
「そう、ですね……」
「さっきレモン食べたでしょ? さすがに一日で骨までは治らないけど、二、三日すれば全快すると思うから」
 少女のレモンは、劇的な治療薬であるらしい。実際、腹部の鈍痛や吐き気がかなり軽くなっていた。怪物に食べさせた後に爆発していたのは気になるのだが――
 さて、と呟きながらレモンハートが立ち上がる。シオンはぴくり、と肩を震わせた。
「もしかして、記憶を消すんですか?」
「……へ?」
 首をかしげるレモンハート。
 アンチレジストは当然、一般人には知られていない組織だ。人妖の存在もそうである。もし知ってしまったとしたら、どうなるか。
 シオンは詳しく知らないが、力になる人物なら招き入れるし、役に立たないと判断されれば記憶を操作する――と噂されている。 
「あなたからすれば私は一般人のはずです。秘密を知ったからにはそれ相応の――」
「あ、あは、あっはははははははははははは!」
 突然、レモンハートは腹を抱えて爆笑し始めた。
 真剣に聞いていたのに、とシオンは少しむっとする。
「どうして笑うんですか!」
「いや、いやゴメン。だって、あいつと同じこと言うから」
 レモンハートは目じりに浮かんだ涙をぬぐっている。
「それなんの作品? アニメとか映画で見た? あはっ、それフィクションだから。んなめんどいことやんないって――でもあいつならやってそう。無意味に」
 めんどい、の一言で片づけられてしまった。あまりにもざっくりとした返答だったので、シオンも言い返せなくなってしまう。
「それにさ、今日みたいなこと話したって、誰も信じないっしょ」
 あっけらかんとしているレモンハートは、遠くで鳴っているサイレンに反応した。
「あ、マジでそろそろ行かなきゃ」
 背中を向けかけた黄色い少女に、シオンは慌てて声を張り上げる。
「ま、待って!」
「ええー? 今度は何?」
「また、会えますか?」
 思わずそう尋ねていた。
 もう少し少女と話をしたかった。こんな数分だけの関係にしたくない――シオンは純粋に、レモンハートと繋がりを持ちたいと感じているのだった。
 目をぱちくりさせていたレモンハートは、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「えーっと、あたしが出てくるってことはさ。あんま良くないんだよね。怪人が暴れてるってことだから」
 んー、と少女はわずかに考えてから、
「じゃあさ、ピンチになったら名前呼んでくれる? あたしの顔を思い浮かべながら。そしたら飛んでいくよ」
 自信に満ち溢れた声と、屈託のない笑顔。
 安心させるための見栄とか、嘘とか、そんなものじゃなかった。レモンハートは紛れもない事実を語っている。
 すぐに駆けつけられるだけの力を持っているのだ。だって彼女は、果汁系戦士なのだから。
「あ、ほんっとーにどうしようもない時じゃないとダメだから。掃除を手伝って~、とかはナシ」
「あははっ、私の恰好、何に見えます?」
 シオンは、足を少し震わせながらも立ち上がった。そこまで回復していることに驚きつつも、腕を広げる。
 別にメイドという職業についているわけではないのだが、レモンハートは納得したようだった。
「そっか、掃除得意そう。それに、おねーさんすっごい強いみたいだし、心配ないか」
「あと、私の名前はシオンです。如月シオン」
 名乗りながら手を差し伸べると、レモンハートはひんやりとした手で握り返してきた。
「ん。なんか楽しかったよ、おねーさん」
 名前を知っても、少女の呼び方は変わらなかった。その呼び方がなんだか気に入っているようにさえ見える。
 サイレンの音が次第に大きくなってきた。その音は別れを告げる報せのようにも聞こえて、シオンは胸の奥にちくりとした痛みを覚える。
「それじゃあね、バイバイ」
 手を解いたレモンハートは、背中を向けて駆け出して行った。途中、ぐっと両膝を曲げたかと思うと、トランポリンでも踏んだかのように驚異的なジャンプを行った。
 電柱やらビルの窓の淵やらで器用に足をかけ、どんどん上へと登っていく。
「わぁ……」
 それこそ、映画で見るような光景だった。シオンはどこか恍惚とした表情でそれを見送っている。
 やがて黄色い少女の姿が見えなくなると、耳元で雑音が鳴り始めた。
『――さん? シオンさん!』
 オペレーターの声だ。今のままで、本部との交信がストップしていたのだった。
「あ、は、はい!」
『ああ、よかった、無事なのですね。急にシオンさんの声が聞こえなくなってしまって。それに、いつのまにか不審な反応も消えています。何があったのですか?』
 インカムを押さえつつ、シオンはレモンハートが去っていった方角を見上げる。
 実際に調査を行うという任務に就いている以上、経緯を報告するのは義務だ。起きたこと、出会ったもの――隅々までをボスであるファーザーに共有しなければならない。
 組織の一員として判断を問われるべき事項であるが、シオンの心情はどこか余裕さえ見せていた。
「いえ、人妖関係のものは見つかっていません。ここは電気街ですし、そういったものが反応しただけけではないでしょうか」
 隠す、などという考えは持っていない。命を助けてくれた少女を『売る』なんて、するわけがない。
『なるほど、確かにその可能性も否定できませんね。念のためもう少しだけ調査をお願いします。今後については改めて連絡しますので』
「了解です」
 頷いてから、インカムの通信を一時的にオフにする。
 再び、黄色い少女が去った先に視線を向けた。
『怪人』と呼ばれていた存在、アンチレジストが処理している『人妖』。世界には、自分たちの知らないところで何かが蔓延っている。組織だけでは解決できないようなこと、いや、人間だけではどうにもならないことが起きるかもしれない。
 そんなとき、黄色い少女は――果汁係戦士は来てくれるだろうか。
 今日はいろんなことがありすぎた。あまりにも怒涛だったので無理やり付いていくしかなかったし、とにかく喉が渇いている。
「ん……レモンって、紅茶の香りが消えちゃうんですよね……」
 サイレンはすぐそこまでやってきている。シオンは自分のコートを拾おうと、そちらへ歩を進めた。


 C地区で何やら騒ぎがあった日の翌週。
 別に大きなニュースでもなかった。酔っぱらいが喧嘩したとか、電子機器が誤作動で一斉に緊急地震速報と流したとか、あまり気にならない程度の出来事だったらしい。
 今日は休日ということもあって、そんな騒ぎなど遥か過去であるかのように、人でごった返していた。
「あ、ほらほらあの看板! 仮面マスクナイトの新作映画!」
「あー、あれね」
 同年代であろう少女二人が肩を並べて歩いている。一人は見るからにうきうきとした足取りで、もう一人はそれに付き添っているという雰囲気だった。
「来月よ来月! ずっと楽しみにしてたの! もう予告編だって百回くらい見た! 劇場版だけの変身ポーズがあって、それがこう、右手がこの辺りから」
「だーーー! こんなところで変身ポーズ取らないでよ、恥ずかしいでしょ!」
「わたしは恥ずかしくないわ!」
「あたしが恥ずかしいんだよ! 横にいるあたしの身になってみろっつーの――」
 ふと、一人の少女は周囲の視線が、自分たちではない別のところへ集中していることに気づいた。

 パシャパシャとシャッター音が響いていた。一般的なスマートフォンや、明らかにその筋の人間であろうカメラを持った人たち。
 たくさんのカメラが向けられている先には、二人のメイドが立っている。それぞれ、細部が違うメイド服を着ていた。
 左にいる黒髪のメイドは慣れているのか、向けられたカメラに笑顔を振りまいていた。手にチラシを持っているから、この辺りでバイトでもしているのだろう。
 対して右にいる金髪のメイドは、あたふたしているものの、隣にいる黒髪メイドと写真を撮られて嬉しそうだ。
 ツインテールが煌びやかで、スタイルも見惚れてしまうほど洗練されている。黒髪のメイドよりも視線を集めているようだった。

「なんだ、普通のメイド服もあるんじゃん」
 彼女たちを眺めている少女は、ぽつりと小さく呟いた。
「どしたの? 知ってる人でもいた?」
「――ん? あー、うん」
「声かけてきたら? 約束までにはまだ時間あるし」
「いや、いいよ」
「いいの?」
「いいの。ほら、さっさと行くよ」
 友人の肩を押しながら、少女は歩みを再開する。
 そうしながらもう一度だけ金髪のメイドへと視線を向けた。あちらも視線に気づいたようだったが、すぐに周りのカメラへと顔を戻す。
「ま、そりゃ気づかないよね」
 少女は微笑みながら、その場を歩き去っていった。