スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

★赤髪メイジのキティ

「壁役は任せてくれ。この磨き上げられた剣と盾で、皆を守ってみせると胸を張る熟年ナイト。
「真っ先に倒したいヤツがいたら教えてくれ。百発百中の矢で射貫いてやるからさ」と豪語する青年アーチャー。
「怪我をしたらわたしにすぐおっしゃってください。でも、無理はしないでくださいね」とほほ笑む少女プリースト。
 
 仲間の三人が、あっという間に倒れた。
 無様に転がっている。無様としか言えない。何の抵抗もできずにやられてしまった彼らを見て、魔法使いのキティは思わず、
「あんたらバッカじゃないの!? あっちにはシーフがいるんだから、トラップ張ってるのは当たり前じゃん! なに真正面から突っ込んでんの! バカバカ! バーカ!」
 と声を荒げて罵倒した。
 すれ違う男性は思わず目で追ってしまうほど可愛らしい顔立ちで、背も低いから、まだ十代になったばかりと紹介されても納得するだろう。
 いかにも魔法使い然とした紺色のローブはミニスカタイプ。両足は同じく紺色のオーバーニーソックスに包まれていて、肌の露出はほとんどない。
 ショートヘアは燃えるように赤く、そして、先ほどの遠慮のない罵倒からして、性格はキツめだ。
「つーかアーチャーとプリースト! ナイトと肩並べて前進してどうすんの? ウオオオオとか叫んで、何がしたかったのあんた達!」
 どう見ても距離を取ってサポートするのが得意のはずなのに、気でも触れたように前へと突撃していった二人を見下ろす。いや、見下す。
「す、すまない。矢だけでも戦えるか試したくて……」
「ごめんなさい、新しく手に入った無駄に攻撃力の高い杖で殴りたかったのよ……」
「アホかマジで焼くわよ!?」
 幼い顔にはっきりと怒りを浮き上がらせている。同年代の少女でもこんな表情にはなるまい。
 また、すぐそばでくねくねしている甲冑姿の男がひとり。
「キ、キティたん! ボクも! ボクも罵ってほしいですゥ! ナイトのくせに守れなかったボクを、ハァ、汚い言葉で責めてぇ!」
「うわ気色わるっ! オッサンのくせに黄色いあげんな! 動くな! つーか最初の時とキャラ違いすぎでしょ!」
 今度はあきらかな嫌悪感で満ちた顔になる。キティは歯を噛みながら、杖をミシリと握りしめた。 本気でぶっ叩いてやろうかと思ったところ、がしゃり、と鎧がこすれる音が聞こえる。この気色悪い熟年ナイトのものではない。
 あー、とキティは心底面倒くさそうに、そちらに振り返った。
 十数歩先にいるのは、いかにもキザっぽいナイト、体つきがたくましい少年顔のファイター、やけに肌を露出しているセクシーなメイジ。あと一人シーフがいるはずだが、どこかに隠れているのだろう。
 キザナイトがやたら白い歯を見せて笑った。
「ハッハッハ。おやおや、もしやと思ったが、本当に罠に引っかかっていたとは。ナイトはまだ分かるが、なぜ後衛職の二人まで麻痺しているんだ?」
「聞かないであげて。バカなだけだから」
 キティは少し距離を離しつつ、キザナイトに答える。
「先輩、油断しちゃ駄目っすよ。あえて罠をくらっておいて、油断させるつもりかもしれないっす」
 と、真面目そうな少年ファイターは倒れている三人を注視した。。
「うふふふふふ」
 お姉さんメイジは謎の含み笑いを繰り返すだけで意味不明だ。このパーティも頭のネジがずれている印象がある。
 キティはロリ顔に苛立ちを貼り付けて、あからさまに大きな舌打ちをした。
「まったく、まともなヤツいないんかこのゲームは!」 
 
 近年のオンラインゲームの発展はめざましく、皆が思い描いていた未来はすでに実現されているといっても過言ではない。
 特に、つい先日発売された『シンクロファンタジーオンライン』はゲーマーのみならず、多くの人間を魅了した。
 値段こそ張るものの全ての周辺機器を揃えれば、自分の体がゲームと一体になることができる。バーチャルリアリティなんて言葉すら生ぬるいほどで、五感も思いのまま。まさに「異世界に召喚された」という昨今のライトノベルのような感覚が全身が味わえるのだ。
 キャッチコピーは「あなたがキャラクターになる」というシンプルなもので、まさにそのワードだけでこのゲームの醍醐味を表している。
 キティのプレイヤーも相当なゲーマーで、特にオンラインゲームには糸目がない。ただし言動から分かる通り性格に少々難ありなのでほとんどフレンドができず、ほぼ一人で遊び続けている生粋の“ぼっち”プレイヤーであった。
「これだからパーティはイヤなのよ。メンドくさいから!」
 ではなぜそんな彼女がパーティを組んだかというと、このバトルコンテンツで勝利すると限定報酬が貰えるからである。
 それはソロでは手に入らないレア装備なので、どうしても欲しかったのだが、パーティでしか参加できないコンテンツなので今まで敬遠していたのだ。
 しかし根っからのゲーマーである彼女はレア装備と聞くといつまでも放っておけず、こうして一億歩くらい譲歩して、メイジを求めているパーティに入ってやったのである。
 それがこの有様。
キティは三人の頭上に現れている『麻痺』というログを殴り飛ばしたくなった。実際は手が通り抜けるだけなのでやらないけど。
「ハッハッハ。いやいや、ハズレパーティを組んでしまうことはよくあることさ。今回は運がなかったと思って諦めるのが賢明だよ」
 喋り方がいちいちイラッとくるが、キザナイトの言うことはもっともだ。
 このバトルコンテンツは四対四の対人戦で、勝利する方法は二つある。
 相手パーティを全滅させるか、相手自陣に配置されているオブジェを破壊するか――後者は時間がかかって面倒だし、そもそもオブジェを破壊するということは相手パーティを突破しておく必要があるため、実質全滅させることが勝利条件といえる。
キティ側はすでに三人が一時的にダウンしている。だから一対四。麻痺や毒といった状態異常はある程度時間がたてば自然回復するが、パーティ戦においてそんな時間を与えてくれる相手がいるわけもない。
 さらにあちらは高火力を手軽に出せるメイジがいるし、どこから急所を狙ってくるか分からないシーフもいる。
「あーそうね、もう絶望を通り越して地獄って感じ。でもさー、あたしは諦めるって行為が大っ嫌いなのよ」
 悪い癖というか、キティはいつもそうだった。
 オンラインゲームは基本的に、複数人とコンテンツを楽しむことが醍醐味のゲームだ。
 だがキティは、ずっと、いつでも、いつまでも、一人でプレイしてきた。パーティじゃないと絶対倒せないようなボスモンスターでさえ、負けたとしてもそこで諦めずに、攻略するために挑戦し続けてきたのだ。
 表情を引き締めているキティに、キザナイトはさらに白い歯を見せつける。
「ハッハッハ。これはこれは、面白い冗談だね。メイジ一人だけで我々に勝てるとでも?」
「やってみないと分かんなくない? それともなによ、そっちこそ。あたしを諦めさせようとしてるのって、本当は勝つ自信がないからじゃないの?」
 あえて挑発するようにキティはにやりと笑う。
「ハッハッハ。なかなか、強気なお嬢さんだ。いいだろう。ここは譲歩して一人ずつ……」
「ちょっと、なに勝手に決めてんの? ていうか甘く見ないで。それに一人ずつとかメンドくさいでしょーが。あんたらまとめて相手してやる」
 杖をくるりと一回転させて、三人へ突きつける。
 はっ、と少年ファイターが目を見開いて、
「先輩先輩! こいつ絶対何か企んでる! 正々堂々なんか捨てて、ここはリンチでフルボッコにするのが賢明っす!」
「ハッハッハ。タイマンが得意なはずのファイターとは思えない発言だね。いやしかし僕も同意見だ。キミもそうだろう?」
「うふふふふふふふ」
「賛成って言ってるっす!」
「いやただ意味もなく笑ってるだけでしょそこのエロメイジ」
 やはりあちらのパーティも頭のネジが飛んでいる、とキティはため息を吐いた。
 とにかく、自らギブアップを宣言するのは御免だ。そんなことはプライドが許さない。
「だ、駄目だキティ……! お前ひとりでは……!」
「そうよ……! 後衛職が一人でパーティに挑むなんて無茶よ……!」
「んほぉぉぉ! キティた痛いっ! いたたたたた! つ、杖で叩くのはやめてぇッ!」
「開幕全力ダッシュしたあんたらに言われたくないっつーのよ! あとそこのキモナイトは口開くな!」
 もういい、関わらないでおこう。キティはいつも通りソロプレイの気分で、相手パーティを見据えた。
 壁役のナイト、攻撃役のファイター、範囲攻撃のメイジ、そして今ここにいないが俊敏性の高いシーフ。バランスの取れたパーティだ。ソロのメイジではどうあがいたって勝てる要素なしである。
 だが、だからこそキティは燃える。ソロで攻略不可能とされたダンジョンやボスをクリアしてきたのだ。
「ハッハッハ。では参ろうか!」
 キザナイトが抜刀した瞬間、キティは――――
全速力で逃げ出した。
「あっ! 逃げた! あいつ口だけっすよ!」
「ハッハッハ。ここはちょっと狭いからな。メイジが得意とする場所に移動するんだろう。しかしこちらにもメイジがいるからな。ともかく追いかけるとしよう」
 まだ床で麻痺し続けている三人を一瞥することもなく、彼らはキティの後を追い始めた。
 
 
 キザナイトの予想は正しく、フィールド内でも特に開けた場所でキティは足を止めていた。軽く息を弾ませながら、追いついてきた相手パーティに振り返る。
「いた! あそこっす!」
「ハッハッハ。もはや言葉はいらないだろう。このまま仕掛けるぞ! まずは退路を塞ぐのだ!」
「うふふふふふふ」
 目配せされたお姉さんメイジが、笑いながら杖を掲げた。広いフィールドであればメイジがまず行動する――キティ狙いはそれだった。
「かかった!」
 お姉さんメイジが呪文を唱える瞬間、彼女の足元でカチリ、とスイッチのような音。
 直後に爆発したように煙が吹き上がり、一瞬で彼女を包み込んだ。
「わっ!? な、なんだ!?」
 少年ファイターが驚愕していると、次第に煙が薄れていく。
 お姉さんメイジは立っておらず、床で寝息を立てていた。杖を抱き枕にして。
 彼女の頭上には、『睡眠』のログが表示されている。
「こ、これはマジックトラップ……! 先輩、あいつメイジなのにサブジョブにシーフ付けてやがるっす!」
 このゲームは、いわゆるメインジョブの他に、他プレイヤーとの差別化をはかるべくサブジョブというシステムが導入されている。
 性能はメインの半分以下になってしまうが、メインの欠点を補うかたちで設定するのが定石だ。
たとえばプリーストならメイジをサブにして、治療だけでなく攻撃魔法も扱えるようにするとか、そんな具合である。
 キティはというと、常にソロであるため、ダンジョンの攻略にはシーフのスキルがほぼ必須だったのだ。仮に性能半分でも、罠の解除や隠し宝箱の発見、はては敵モンスターの察知がソロで可能になる。
「いやー、こんな簡単に引っかかるなんてね。メイジから潰すのは基本でしょ。ソロ志向のあたしですらパーティの立ち回り分かるってーの」
「ハッハッハ。これはなんとも、異色なメイジだ。だがしかし、僕のサブはプリーストでね。状態異常はすぐに解除できるのだよ。さあ起きたまえ」
 キザナイトが治癒魔法を唱えようと口を開いた。が、今度は彼の足元から煙が吹き上がる。
 そして大きないびきをかいて爆睡する姿が現れる。
「アッー! 先輩ィ!」
「あ、あんたらホントにバカ? 攻撃魔法の罠を張ってたんだから警戒くらいしなさいよ」
 本当は何かしらでダメージを与えた後の治癒魔法で引っ掛けるつもりだったのだが、もう二人をダウンさせてしまった。
「くそっ、可愛い顔をして外道なやつ! けど俺は魔法使えないからカンケーないな!」
「あはっ、ただの脳筋がメイジに勝てると思ってんの? この距離で」
 ファイターは実装されてるジョブの中で極めて物理攻撃力が高い。見た目通り格闘で相手を打ち倒すのが得意だ。
その反面、魔法属性の防御面はからっきし。接近される前に攻撃魔法を一発当てれば終わりである。そしてこの少年ファイターは見るからにアホっぽいので、キティはもう勝利を確信していた。
「メンドくさいから広範囲魔法ぶちかましてあげる! 消し飛んじゃえ!」
 キティは杖を振り上げ、単体ではなく複数の敵を攻撃するための呪文を唱え――
「この瞬間を待っていたわよ……!」
「――ッ!?」
 囁くような声は真後ろから。しかし、すでに詠唱段階に入っているせいでただちに行動をキャンセルすることができず、何者かの攻撃を受け入れるしかなかった。
「あッ……!?」
 首にチクッ、と針に刺されたような痛み。
 マズった、とキティは瞬時に理解した――と同時に、即座に反撃の魔法詠唱を完了させていた。
「“ファイアボム”!」
 轟音が弾ける。
彼女とその背後にいる者、両者の間に小さな爆発が生じた。胸のあたりでモロに爆発を受けた襲撃者は、くぐもったうめき声と共に吹き飛ばされた。
「ちっくしょ、シーアサか……! 通りで探知できなかったわけね……!」
 がくりと膝を着きつつも、首元を押さえながらキティは吹き飛んでいった相手に視線を移す。
 十数歩ほど離れた場所で転がっているのは、相手パーティの最後の一人、シーフ職の少女だった。サブジョブはアサシンで間違いない。シーフが好む組み合わせジョブで、俗にシーアサと呼ばれる。
 吹き飛ばされた女シーフは、少し焦げた胸元を押さえながら立ち上がった。
「あいたたた……! ふふ、そうよ! 実は最初からのこのフィールドで待っていたの! アサシン初期スキルの“霧隠れ”は便利ね! さすがチートスキルと言われるだけあるわ!」
「おいッ! 最初から待ってたなら、先輩たちが眠らされる前になんで助けなかった!」
「…………ほら、敵をあざむくにはまず味方からと言うじゃない?」
「最初の間はなんだよ!? あとそれ使い方ちょっと違うと思うぞ!」
 こいつらよくパーティ組めたな……とキティはどうでもいい疑問を抱いたが、現状の危機に冷や汗をかいていた。
「うくっ、しびれる……!」
 アサシンは暗殺に長けたジョブだ。特にシーフのサブジョブとなれば、攻撃の厄介さに拍車がかかる。本来ならHPが瞬時にゼロになってもおかしくないのだが、キティの判断力の良さが功を奏した。
 が、おそらくシーフの武器に麻痺属性が付与されているのだろう。ダメージ自体は軽く済んだが、全身の筋肉がビリビリと突っ張ったようになっていて、うまく体が動かない。
 麻痺状態になると、治癒するか自然回復を待つしかない。キティたった一人の状況では――
「まあでも、グッジョブ。これで勝ったも同然だな」
 少年ファイターは屈託のない笑みを浮かべてサムズアップ。
 だがキティは、「は?」と煽るように彼を睨んだ。
「なに、言ってんの。まだバトルは終ってない。言ったでしょ。あたしは諦めるのが大っ嫌いだって」
「おいおい、こんな状態でもまだギブアップしたくないってか? 無駄なことやってないでさっさと――」
「そっちこそ、メイジ一人になに手こずってんの? あはっ、あたしが女キャラだからって遠慮してんの? 根性なしのガキ。ゲームなんかやめて寝とけっつーの」
 ゲームのキャラクターで見ればキティの方が年下だが、プレイヤーの年齢は判断がつかない。
 が、少年ファイターはどうもそれが気に障ったようだ。
「こ、このやろ、ガキって言ったかお前! もう俺はガキなんかじゃねーよ!」
「ああ、そう? じゃあ、随分と“ガキみたいな大人”ね。女一人ヤれないくせに大人ぶってんじゃねーわよ」
「て、てめぇ……!」
 この程度の煽りに分かりやすく反応するんだから、プレイヤーもはまだまだ子供で間違いないだろう――キティはあからさまにため息を吐いてやる。
「いいぜ、後悔すんなよ? もう許してやらねーから」
「いちいち前置きしなくていいって。おどおどしてんのバレバレ」
 ますます眉間をぴくぴくさせる少年ファイター。
 彼は動けないキティの胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせると、空いている拳をギリギリと握りしめた。
「こんのやろ! ……っらァ!!」
 一瞬ためらう素振りを見せたが、少年ファイターの拳はキティの腹部に飛んだ。ミニスカローブの中央に拳が埋まる。
 ぼふっ、と布団でも殴りつけたような音が響いた。
「ふッぐ……!」
 少女の目が見開かれ、体がくの字に折れる。
 メイジは軽装になりがちで、装備に物理耐久がほとんど無い。そもそも防御力に乏しいジョブだし、攻撃力がものをいうファイターに殴られてはひとたまりもない。
 胸倉が放されると、そのまま地面へと倒れ込んだ。
「ぅっ、げ、ぇほッ! げほっげほッ…………!」
 まだ麻痺状態が続いているため、手足が思うように動かせない。腹の痛みを押さえこむこともできず、彼女はだらりと弛緩した体をぴくぴくと痙攣させるしかなかった。
「どうだ、おい……! 俺だってな、女の腹を殴るくらいできんだよ!」
 胸を張って言えることではないと思うが、少年ファイターは興奮した様子で言い放つ。お仲間の女シーフはというと、肩をすくめて呆れていた。
「げほッ、ぁはっ、あっはははは」
 なんとか仰向けに転がったキティは、なぜだか笑い声を洩らした。
気味が悪いのか、少年ファイターは少し後ずさる。実際異様な光景だ。体が痺れ、思い切りボディブローをくらった少女の方が、笑っているのだ。
「なに、もう終わり? あたしのHPまだ残ってるんだけど?」
「なっ……お前、もう無駄なことするなよ……!」
「無駄ぁ? ふざけたこと言わないで。まだ負けてないでしょーが!」
 転がっている杖を掴んだ。ロリ顔魔法使いは麻痺という状態異常になりながらも、杖を支えにゆっくりと立ち上がろうとしている。
 オーバーニーソックスに包まれた細い脚がぷるぷると震えて今にも崩れ落ちそうだが、瞳の力強さはいまだ失われていない。
「やるだけ無駄? 往生際が悪い? ふん、上等よ。それをひっくり返すのが気持ち良いんだから……!」
 彼女はいつもそうやってゲームをプレイしてきた。
 一度は考えたことがないだろうか? RPGやアクションゲームのいわゆる『負けイベント』は、どうにかすれば勝てるんじゃないか、と。
 キティは常にそんな思考の持ち主で、そして自ら実行してきた。システムの穴を突いたり、時にはバグを利用してイベントをクリアすることだってあった。
 だがMMOというのはそうもいかない。確認された不具合は修正されるし、バグを利用した攻略は、不正利用としてアカウントを停止される可能性すらある。
 だから彼女は、真っ向からこのゲームに挑むしかなかった。パーティを組むことが推奨されるオンラインゲームにおいて、ソロでどこまでやれるのか。
「ソロはパーティに勝てないなんて、どこに書いてあんの? ねえ? できるわけないって、勝手に決めつけてんじゃないわよ……!」
 細々とした声量ながらも、心臓を突き刺すような声は少年ファイターと女シーフを動揺させていた。
 が、女シーフはジョブの基本能力で、キティの行動に素早く気づく。
「ッ……! 止めて! そいつ、杖の先で呪文を書いてるわ!」
 ちっ、とキティは舌打ちし、少年ファイターが即座に行動する。
「あっ……! やらせるか!」
 リーチの長い脚が、少女の杖を蹴り飛ばす。
 支えを失ったキティが倒れ込むより先に、少年ファイターの固い拳が、ボディアッパーとなって少女の腹部を突き上げた。
「ごぶッ…………!!」
 肉を打ち付ける音と、低い呻き声。同時に、キティの頭上に『クリティカルヒット!』のテキストが浮かび上がった。
 まだ十二、十三歳程度の体格でしかない彼女は、メイジゆえ物理的な防御力も薄い。少年とはいえたくましい腕から放たれる拳は、柔らかな腹筋に完全に埋まり込んでいた。
 くの字に折れた細身な体が、ボディアッパーで強引に宙へ持ち上げられる。メリメリとした音が体内から響き、キティは全身をびくりと痙攣させた。
「っ、ぁ、かはッ……ぁ゛っ……!」
 横隔膜が圧迫され呼吸が止まり、ひくひく悶えながら舌を突き出している。滴り落ちていく唾液の筋が、妙な色気を醸し出していた。
「よし……! クリ入った!」
 少年ファイターが言いながら拳を引き抜く。
支えを失ったキティはどさりと地に落ちる。ようやく麻痺が回復したため、なんとか腹部を抱えることはできたが、呼吸困難な状態が続く。
「終わりだろ! ファイターのデバフなしパンチなんだ……メイジならもうHPが……」
 少年ファイターはしかし、表情をさらに曇らせた。
 いまの攻撃は、確かに入った。クリティカルヒットした。少女はメイジで、物理的な耐性はほぼ皆無と言っていい。
 それなのに。
「げほッ……! かはッ……! はあ、はあ゛ッ……!」
 それなのにキティは、また立ち上がった。なんとか酸素を取り込み、荒い呼吸を繰り返している。
「なんでだ……! メイジが、ファイターの攻撃を食らって無事なはずが……! お、おい! なんか分かるか!?」
 優位に立っているはずの少年ファイターは女シーフに視線を飛ばす。
「ダメージは入ってるわよ! でも、まだゼロじゃない!」
「んなバカなことがあるか! 直接攻撃が二回入ってんだぞ? しかもこいつは防御バフもかけてないのに……!」
「……いや、まさか。ちょっと待って、“調べる”!」
 女シーフの両目が、わずかに青い色を帯びた。これはシーフ特有のスキルで、相手の具体的なステータスを可視化することができる。すでにバトルは終盤に差し掛かっているからほとんど無駄ではあるのだが、今回だけはあまりにも状況が異常だった。
 ぜえぜえと肩を上下させるキティの周囲に、いくつかのウィンドウが展開された。彼女のステータスが数値となって表示されている画面である。
 それを見た少年ファイターと女シーフは、あんぐりと口を開いた。
 HPが一、二、三……五桁ある。
「……は? おい、表示バグってんぞ」
「違うわよ! 正真正銘こいつの基本ステだってば!」
「いや、いやいやいやおかしいだろ! なんでHPがナイトより高いんだよ!? 先輩の二倍近く――――」
 動揺の最中、何かに気づいたように言葉が止まる。少年ファイターの視線はステータス画面から仲間の方へ移り、女シーフは驚愕の表情で何度もうなずく。
「こいつ、成長ポイントをHPにガン振りしてるのよ! 信じらんない……!」
 察しの良いプレイヤーなら分かるだろう。『成長ポイント』はレベルが上がるごとに獲得できるポイントで、筋力や魔力などに振り分け、好みのステータスに成長させることができるシステムだ。
 普通、長所となるステータスを上げることが基本である。ファイターで魔力をアップさせても無意味だし、クレリックで敏捷性をアップさせても前に出ないのだから宝の持ち腐れ。
 だがキティは、不可能といわれたものを強引になんとかするタイプの人間。常識というもの捨て去るスタイルのプレイヤーなのだった。
 にやり、と彼女は口元を吊り上げる。
「あはっ、気付いた? すごいっしょ? げほッ、メイジでも、HPこんなになるのよ、けほっ」
 HPがゼロにならない限り、キャラクターが倒れたという判定にはならない。だから、彼女が倒れない限り、キティ側のパーティは『敗北』にならないのだ。
「ほら、どうしたの。二発くらい、げほっ、全然余裕なんだけど?」
 先ほどの攻撃は、普通ならメイジくらい戦闘不能になっている。しかしキティのHPが尋常ではないため、まだ五分の一も削れていなかった。
 制限時間はまだまだ残っている。彼女が倒れない限り、このバトルはいつまで経っても終了しない。
「それとも、もうこんな可愛い女の子は殴れない? くふふっ、意気地なし。男なら暴力で女を屈服させてみろっつーの」
「てんめぇ……! ”発勁”!」
 少年ファイターがスキルを発動する。頭上に現れるのは『攻撃力増加』のログ。わずかの時間だが二倍近い数値になっているはずだ。
 さらに、
「”経穴”!」
 続けて彼はキティのこめかみを、両サイドから人差し指で突く。
「んッはぁ!?」
 電流でも流れたかのようにロリ顔少女の肢体が震える。瞳孔がキュッと狭まり、顎を上げてぴくぴくと痙攣した。
 頭上に表示されるのは『防御力低下』。成長ポイントをすべてHPに振り分けているキティにしてみれば、もはや防御力がゼロに等しい状態だ。
「”四連突き”、一! うおらああああああああああッッ!!」
 激しく叫びながら、少年ファイターは再び拳を打ち放った。
 威力の上がった拳が、防御力の下がった少女の腹へと、遠慮なくぶち込まれる。
「グッ……! ぐぷッ!?」
 ズンッとめり込んだのは腹部の中央。
 拳がすぐに引き抜かれると、くの字に折れ曲がるキティの口から、唾液の飛沫が飛び出す。
「二!」
 次に狙われたのは脇腹。左拳が右脇腹を壮絶に抉る。
 メギッ――という音を、キティは体内で聞いた。
「ぃぎッッ!? っがァ……!」
 弓のように体が曲がった少女の頭上に『右肋骨(九番 十番)骨折』のログ。体内から全身に行き渡る激痛に、キティの瞳が一瞬裏返る。
「三!」
 続けて臍の辺りに、拳が振り下ろされる軌道で着弾した。防御力皆無な腹筋はバンッと風船が割れるような音をたて、猛打を受け入れる。
 拳がズブリと下腹部まで侵入すると、少年ファイターは駄目押しとばかりに拳をひねり込んだ。
 折れた肋骨の一部が、体内を泳ぎ回る。
「ふぎゅッ!? くぶッッ……!! ぇ゛お゛ぉぉぉッ!」
 キティは紫色に変色した唇から、赤みがかった胃酸がこぼれた。『大腸 小腸 一部断裂』。
「四! とどめだああああああああああ!」
 ミニスカローブの上からでも分かるほど、ボコボコに変形している少女の腹部。”四連突き”最後の一打は、鳩尾めがけて放たれる。
 掬い上げるような軌道の拳が、ローブを巻き込みながら鳩尾にめり込んだ。
「ッ……!? ッぐ……!」
 一瞬で手首まで沈みこんだ拳は、胃袋まで一気に抉り込まれた。ずっしりと埋まった拳を、少年ファイターは再び強引にねじり上げる。
 ――なにか、破れる音がした。
「ぉ゛ッ……ォ゛……!?」
 腹腔内から喉にかけてゴボッと生々しい音が上っていく。ロリ顔少女の瞳がむき出しになり、喉が大きく脈動したかと思うと、桃色に上気した頬が膨らんだ。
「ぶぷッ、ごええぇ゛ぇ゛ッ! ぇえ゛っ、ぐぇ゛ぇ゛ぇっぇぇぇ!!」
 濁り切った吐瀉液が溢れた。びちゃびちゃと地面を叩き、足元を一気に汚していく。
 わずかに混じる固形物は、一時的なステータスアップのために食べた食事アイテムだった。二人の足元には、キティが吐きだした唾液、胃液、血液、吐瀉物でまみれている。
「どうだ、おらぁ!」
 少年ファイターは拳で持ち上げたキティを、地面へ投げつけるように振り払った。
「ぎゃうっ! ぁッ、がはッ……! げぼッ、ごほッ……!」
 背中から打ち付けられ、再度口から吐瀉液が吹き出る。ようやく猛撃から解放されたキティはすぐに腹部を抱え、小さくなるようにうずくまった。
 彼女の頭上に表れているステータスは、蒼然たるものだった。

『右肋骨(九番 十番)骨折』
『大腸 小腸 一部断裂』
『肝臓 陥没』
『胃袋 破裂』

 内臓器官に属する状態異常がほぼすべて、小さな体をがんじがらめにしている。
 胃が空っぽになるまで嘔吐した少女は、口の端に小さな泡を吹かし、中途半端に潰された虫のように悶えた。
「カハッ、く、ごっぽ……! げぼッ! んくッ……ぇ゛っ……」
肋骨で傷つけられた腸の血が腹腔内に広がり、咳き込むたびに腹からぐちょぐちょと、血と内臓が絡み合う音が聞こえる。
「ちょっと、あんたやりすぎ……!」
 さすがに顔を引きつらせている女シーフ。見ているだけで内臓が痛くなってくる光景に、無意識のうち手を腹部に添えていた。
「はぁ……はぁ……! まだ、削り切れてねえ……! むちゃくちゃだこいつ……!」
 むちゃくちゃに少女の腹を殴り潰した本人が言うセリフではないが、これだけの殴打を受けてもキティのHPはまだギリギリで二桁を保っていた。
ただ、今も内臓から出血しているため、HPが毒状態のように減り続けている。こうなれば後は放っておいても、ゼロになって再起不能だ。
 そこでようやくというか、残り二人の役立たずが目を覚ました。目をこすりながら状況を確認すると、
「ハッハッハ。どうやら寝ている間に終わったようだね」
「うふふふふふ」
 と、まるで反省の色もない様子だった。
「あはっ、あっは、げぽっ、あはははははッ」
 腹を抱えながら仰向けに転がったキティは、吐瀉液で汚れきった唇を歪ませる。
「かはッ、あんた、やるじゃん。女の子の胃も、腸も、ほとんど、げほっ、破けるまで、お腹を殴りまくるなんて、あははっ、見直しちゃったよ」
内臓を全てぐちゃぐちゃにされたせいで気でも狂ったか、というような笑い声だった。かなり異様な光景で、お姉さんメイジすら口をつぐんでいる。
「でもさ、ちょっと、時間かけすぎじゃない? いくら可愛いからって、けほッ、あたし一人夢中になって、いいの?」
 む、とキザナイトが初めて表情を曇らせる。
「どうしたんスか、先輩?」
「……ハッハッハ。これはしてやられたようだ。我々は最初から彼女に釣られていたということだね」
 キザナイトが宙で指を踊らせると、彼自身のログ画面が展開された。
 そのウィンドウに表示されているのは、パーティの拠点となるオブジェ周辺。そこには、
「アッー! あいつらは!」
 キティとパーティを組んで、最初からいきなり突っ込んで罠に引っかかったあの三人が、オブジェを攻撃している。その残り数値も、あとわずか。
 キティは、囮だった。
 全員が悟った瞬間、オブジェの防衛力数値がゼロになる。
『Bチームの拠点が破壊されました。Aチームの勝利です』
 フィールド全体に女声のアナウンスが流れると同時、満身創痍の少女は仰向けのまま拳を掲げた。
 HPは、残り「1」で止まっている。彼女のパーティは最終的に、全員生存の状態。文句なしの勝利だった。
 
「はーーーーーマジ疲れた。もう二度とやんないわ」
 報酬受取所の前。治療を受けたキティは、限定報酬である金色の首飾りを弄んでいた。レア装備を手に入れたので、瞳には喜びの色が満ちている。
 そこへ、背後からおずおずとした声がかかる。
「あ、あの……」
「んあ?」
 キティはだるそうに、座ったまま首だけそらして後ろを見た。
 熟年ナイト、青年アーチャー、少女プリースト。先ほどまでパーティを組んでいた面々が並んでいる。
「なに?」
「いえ、あの、すみませんでした」
 プリーストの少女がぺこりと頭を下げると、あとの二人も彼女に続いた。三人ともどこか窮屈そうな表情である。
 あー、とキティは立ち上がり、お尻をぽんぽんはたきながら告げる。
「あれが勝つための最適解よ。あたしが言い出したことだし、あんた達は謝る必要ない」
 ほぼ全て、キティが考えた作戦である。あえて三人が突っ込んで罠に引っかかるのも、それに激怒するキティも、その後の行動も。
 三人はお世辞にもレベルの高い装備を持っているとは言い難かった。だから彼女は、どうすれば勝てるかを考え、そして自分を犠牲にするような作戦を提案したのである。
「……では、改めてお礼を。ありがとうございました」
 再度、三人が深く頭を下げる。
 ん、とキティは恥ずかしそうに目をそらす。
いつもソロで遊んでいた彼女にとって、パーティを組むことはほぼ初めてのこと。だからお礼を言われることに慣れておらず、頬をぽりぽりとかいた。
「あー、はいはい、どうもね。そんじゃあたし行くから」
「ああっ、待ってくださいっ。狩りですか? それなら一緒に行きましょう!」
「え? いや、最初に言ったっしょあたしはソロプレイヤーだって。パーティは組まない主義なの!」
「じゃあ、せめてフレンド! 相互フレンドだけでもお願い! せっかく一緒に遊んだのに、このままさようならなんて寂しい! こっちから申請送っちゃいます!」
「ちょ、ちょっと待っ……」
 静止する暇もなく、少女プリーストからのフレンド申請がメッセージBOXに届いた。続けて、あとの二人の申請まで送られてくる。
 会話することすらなかった彼女のオンラインゲーム人生に、初めてのフレンド申請が届いたのである。
「えっ、いや、あのっ」
 バトルでの強気な姿勢はどこへやら。思いもよらぬ出来事にあたふたしている様子は、まさに年齢相応の少女そのものだった。あくまで、キャラクターの年齢ではあるが。
「許可! 許可だけでもいいのでお願いします! そんなしょっちゅう声かけたりしませんからー!」
「わわっ、な、涙目でしがみつかないでよ! 分かった、分かったから!」
 一刻も早くこの場から離れたかったので、キティはマイコンソールを表示し、フレンド申請の【許可】ボタンを急いでタップした。
 今までたった一人でプレイしてきた彼女のフレンド一覧に、少女プリーストのキャラネームが追加される。
 すると、間髪置かずに新たなフレンド申請が届いた。残り二人と、そして、さきほどバトルした相手パーティ四人からも申請が届いている。
「あ?」
 見れば、施設の入り口に立っている彼らが見えた。白い歯を光らせるキザナイトが、そっぽを向いているが目がこちらに向いている少年ファイターが、意味不明な含み笑いをこぼしているお姉さんメイジが、手を振りながらウィンクしている女シーフが。
「ああ? なによもう! バッカじゃないのあんた達……! こんな、一人でずっと生きてきたあたしに……ほんと、なんなのよ……!」
 
 別に、一人でも全然平気だ。
 リアルでも同じ。キティは――キティのプレイヤーは、一人でいることが多かった。
 友達がいないわけじゃない。かといって多くもない。親友と呼べる人もいない。
 親はいつも遅くて、家では一人でいることがほとんど。だからオンラインゲームに手を出した。
 ちょっとアレな性格は自分でも分かっている。ここでもやっぱり一人だったが、全然平気だ。だって慣れているから。
 でも、いまはなんだか、悪い気はしない。
 
 キティはとっさに、目元を腕で隠す。そうしながら、少し震えた声で言う。
「しょーがないわね、ほんと。フレンドになってやるわよ。でも言っとくけどね、ソロ志向なのは変わらないから、絶対に」
 その点だけは譲れないところだった。実際、ソロで攻略し続けることに快感を覚えているし、これからもそうしてこのゲームを遊ぶつもりだ。ゲームのサービスが終了するまで。
「まあでも、あたしが必要なら呼べばいいんじゃない? そんとき暇だったら、なんか手伝ってやんないこともない、かもね」
 ぐすっ、とキティは鼻を鳴らして、口元に笑みを浮かべた。
スポンサーサイト

★設定屋さん

 西野綾香は、以前から気になっていた飲食店のポップにある『レディースデー』という文字に顔をしかめた。
「なによこれ……帰ろ」
 ヒールが強くアスファルトを踏み鳴らす音。その音で、彼女がイラついているのは傍から見ても分かるだろう。
 綾香は、一言でいえば「デキる女」である。
 高校を卒業してすぐにデザイン会社へ就職し、二十歳でチームをまとめるリーダーになった。そして二十五歳の今では、複数のチームを管理する立場にまで出世した。そのうち、拠点を統括するポジションにまで登りつめるだろうと言われている。
 上司やクライアントの期待には十分応えてきたし、綾香自身も自分の能力に自信を持っている。
 学生の頃から陸上部で身体を鍛えていて、今でも運動や筋トレは継続中だ。次第に「可愛い」といったものを表すにはキツい年齢になってきたが、鍛えているおかげか若々しいエネルギーに満ち溢れている。
 同性からは憧れの存在である彼女は、人間の本質的なところに不満を持っているのだった。
「女って理由で特別扱いされて、何が嬉しいっていうのよ」
 思わず独り言を漏らすくらいに、綾香にとっては大きな問題といえた。
 身近なところでいえば、先ほどの『レディースデー』である。
 女性であれば料理が安い、映画が安い、何かしらおまけが付いてくる――
 性別に左右されず、一人の人間として積みあがってきた綾香には、この手のやり口を強く嫌悪していた。
 女も男も同じ人間だ。子供と大人での違いこそあっても、性別によって優遇されたりする理由が見当たらない。
――西野さん、女性なんだからもっと愛想よくできないの?
 忘れかけていた上司の言葉が思い起こされて、綾香はさらにイラついた。これは、職場環境の問題について抗議したときに言われたことだ。
「女だからなに? おしとやかにしろって? ふざけんな」
 街灯がともり始めた道で、彼女は不満の思いを口から吐き出し続ける。
 いつも通っている道。こうして文句を垂らしながら歩いている道。それなのに綾香はどこか違和感を抱いた。
「……あれ、こんなのあったっけ」
 本屋がある。いや、それ自体は別におかしくないが、いつも通っている道なのに今まで気づかなかったのが不思議だ。まるで初めて訪れた土地であるかのような感覚。
 表札みたいな看板には『設定屋』と彫られている。
 無意識のうちに、綾香は『設定屋』の扉を引いた。木の扉が軋みながら開き、内部の光が視界に差し込む。
 古本屋だ、と綾香は印象づけた。くすんだ色の本棚。収まりきらずに平積みされた本。乾いた紙の匂い。それら一つ一つが、綾香の苛立っていた心の色を洗い流していく。
 視界の奥。カウンターらしき大きなテーブルを隔てて、一人の少女が視線を返してきた。
「こんばんは」
 少女の声は小さいのだが、妙に鼓膜へ響いた。脳に直接話しかけられたかと思って、綾香は肩を少し震わせた。
 店番をしているアルバイトなのだろうか――真っ黒な長髪は肩よりも下まで伸びており、肌は対照的に白くて透明感がある。
 これまた古風というか、紺のセーラー服を着ている。いわゆる『文学少女』といった様相を呈している少女は、じっと綾香を見つめている。
「あ、えっと……」
 どうしよう、と綾香は焦りつつも、本棚を見回す。彼女自身、特に小説などを好んで読むわけではない。こういった古本屋はサブカルな雑誌なんて置いてなさそうだし――
「ついここに入ってしまったのでしょう。構いませんよ」
 少女はつり目気味の瞼をゆっくり閉じてから続ける。
「あなたはこの世界に不満を持っていますね」
 ぎくり、と綾香は少女を凝視してしまった。
 どうしてだろう。少女は目を閉じているのに、心を見透かされている気がする――よく本を読んでいるから、洞察力が高いのだろうか。
「別に驚くことではありませんよ。むしろ不満を持っていない人間なんていません。わたしも例外なく」
 少女は瞼を開き、天井を軽く仰いだ。
「この世界は気に入らない設定が多すぎる。そう思いませんか?」
「――あの、なんの話なのかさっぱり……」
 なんだか――宗教的な、怪しいお店に入ってしまったのかもしれない。綾香はそう感じたが、不思議とこの少女に嫌悪感を抱かなかった。
つらつらと間を置かない話し方だが、読み聞かせるような声に聞き入ってしまう。
 そして次の言葉に、綾香の胸はどきりとした。
「女と男の違いとか知ったことじゃないって考えていますよね?」
「え……? なんで知って…?」
 思わず一、二歩後ずさるくらいに動揺した。
「あなたがそういう人だからです。よくある設定なので珍しくもありません」
 少女はゆっくりと立ち上がった。読んでいた本を閉じてから、
「この本には世界の設定が全て書かれています。この意味が分かりますか」
 と、さらりとした口調で伝えられた。あまりにも普通のトーンで話すものだから、綾香もその意味をよく拾いきれなかったというか、単純に理解できなかった。
「無理もないですね。ではこちらへ来てください。直接お見せします」
 少女は再度本を開いてぱらぱらとページをめくる。
「は、はぁ……」
 ちんぷんかんぷんな綾香は、なんでこんな店に入ったのだろう、と改めて自問した。しかし、少女は悪い人ではなさそうだし、ちょっと興味も湧いてきたのも事実だった。
 すぐ目の前まで寄っていくと、少女は本の半分くらいのページのところで指を当てた。
「ここがあなたの設定ページです」
「……え?」
 西野綾香――大きく印字された文字と顔写真。ぞくりと綾香の背筋が震える。さらに、横書きで羅列されている文章に目を剥いた。
 生年月日、年齢、正確、出身、学歴、職歴、家族構成、はてはスリーサイズまで。そのほかにもたくさん、個人情報といってもいい事項が所狭しと書かれている。
「な、な、なんでわたしが本に載ってるの? しかもこんな、誰も知らないことまで!」
「言ったでしょうあなたの設定ページだと。ここに年表もあっておそらくこの先――」
「待って待ってやめて! 言わないで!」
 目をそらしながらとっさに手で制す綾香は、胸の鼓動が早まっていることを自覚した。
 信じたわけじゃない。突然とんでもないことを突きつけられたものだから、理解がほとんど追いついていなかった。
 ただ、このページの全てを読んではいけない気がする。それだけは分かるのだった。
 でも少女はそんな綾香の動揺など気にも留めない。
「それでは手っ取り早く髪にしましょう。ここに『黒のショートヘア』とありますね? ここに――」
 テーブルに転がっている鉛筆を手にすると、【髪】という項目に、
『茶色のポニーテール』
 と書き加えた。そして印字されていた『黒のショートヘア』には二重線を引く。
 小説などはほとんど読まない綾香でも、少女がいま何をしたのか、なんとなく察しはついていた。が、そんな馬鹿なことがあり得るのかと、まだ半信半疑の状態だった。
 それでも、心臓の早い鼓動は鳴りやまない。文字から視線を外せない。
「あちらの鏡を見てください」
 テーブルのすぐそばに設置されている姿鏡。少女の声に促されるまま、おそるおそる視線をそちらへ向けた。
「うわっ……」
思わず声がもれる。
髪型が、そっくり変わっていた。『茶色のポニーテール』に。
「こうして設定を変えることもできるのです。もうお分かりですよね」
「し、信じられない……! 魔法みたい!」
 綾香は髪の尾を手で触れた。引っ張ると頭皮が痛いし、手触りもいつもと同じ。間違いなく自分の髪だ。
 ここでようやく、綾香にも一つの可能性に気づいた。
「あの、それって、人じゃなくてもいいの?」
「ある程度は自由に設定できますがあくまでも地球ベースの本ですので。たとえば『宇宙で呼吸ができる』は無理ですが『地球は呼吸ができない』は可能です」
 あまりにも極端な例だったが、綾香の理解を得るには十分だった。
 自分が望むような世界に変えることだって、できるということなのだ。しかし、そんなとんでもない本をどうしてこの少女が持っているのか。
 この店はいったい、何なのか。
「試してみますか?」
「え? い、いいの?」
 正直なところ、綾香が期待していた言葉だ。だが、こうもあっさりかけられると逆に不安になってくる。
「ほら、その、お金とかは……」
「必要ありません」
「それじゃ、他に何か取られるとか」
「いりません。寿命とか魂を取るのは悪魔や死神のやることですし私は違います」
 じゃああなたは何者なんだ、と綾香は率直な疑問を抱くものの、それを尋ねるのはどうもためらわれる。深入りするのは危ない――と直感的に思ったからだ。
 そう簡単に安心はできない。が、少女が嘘を言っているようにも見えないのだった。
「本の所有者である私が書かなければ変わらないのでその点はあらかじめご了承を。それではご希望の設定を教えてください」
 ページをいくつかめくって、鉛筆で止める。
 そのページには何が書かれているのか――綾香は好奇心をそそられたが、心のどこかでストップをかけていた。
 知ってはいけないことまで書かれている気がする。だから彼女は好奇心を今は振り払って、一つの心情を吐露した。


 翌日。
 綾香はそわそわしながら自分のデスクへ腰を下ろした。
 もう、彼女自身はあの店で出会った少女のことを信じて疑っていない。朝起きて、駅まで歩いて、電車に乗って、会社に着くまでに確信を得ていた。
「西野さん、これ十五時までにまとめといて」
 年下の女にへらへら鼻の下を伸ばす上司も、
「先にお昼失礼しまーす」
 女性社員をいつも食事に誘うはずの同僚も――どの男性も、まるで異性に興味を失ったかのように淡々としている。
 あの少女に告げたのは、『性別で態度を変えない』という言葉だ。本にどう書かれたのかは分からないが、とにかく、綾香が想像していたとおりの世界になったことは間違いない。
 男や女の態度でもうイライラすることがない――そう思うと、妙にうきうきとしたテンションになってくる。だって、自分の理想と感じる世界がもう訪れたのだから。
 
「ふふっ」
仕事を終えた綾香は上機嫌で通りを歩く。
 今日はイラつくこともなかったから効率的に業務を進めることができたし、男から下心丸見えの言葉もかけられなかったし、社内でもそんな光景を見ることもなかった。みんな自分のことに専念していて、とても心地よかったのだ。
そして、再びあの店に行こうと思っていた。お礼を言いたいし、なにより、もっと自分の思い通りにできると考えたからだ。
 あの曲がり角の先に『設定屋』がある。綾香は無意識にスキップでもしそうなほど浮かれた気持ちで店を目指した。
 曲がった瞬間に、ドンッ、と肩に衝撃を受けた。ほとんど周りを意識していない状態だったから、反対側から歩いてくる人物に気づかずぶつかってしまったのである。
「いってえな。おい」
 若いのに、無理やりドスを効かせようとした感じの声。
 見れば、髪を薄く金色に染めた青年だった。綾香は同年代の女性と比べて若干背が高いし、青年と同じくらいだ。
「あ、すみません」
「いてえっつんだよコラ。折れてるかもしれねえだろ、大人なら誠意見せろや」
 うわ、と綾香は顔をしかめる。面倒くさいヤツに絡まれた。設定屋はすぐそこにあるのに。
 せっかく今日は良い気分だったのに、こいつのせいでまた苛立ちが帰ってきた。
「だから、謝ってるじゃないの。ていうかそれくらいで折れるわけないでしょ」
「あぁ? ぶつかっといて何だよその態度。おい、ちょっとツラ貸せや」
「はい? 何なのあなた、初対面で――」
 失礼なヤツだ、と思いをぶつけようとする前に、頬に衝撃を受けた。
「ぶっ……!?」
 ――痛い。
頬が、痛い。
「おら、こっち来い」
 折れかけた膝では満足に抵抗できず、腕を引っ張られるままに路地の裏へと連れていかれる。
 ひりひりとした刺激で、綾香はようやく殴られたことに気づいた。平手ではなく、握り込んだ拳で。
「な、なにするの! 放して!」
「うっせーな、お前からぶつかってきたんだろうが! 土下座すりゃ勘弁してやるよ!」
「ふざけないでよ! 誰が土下座なんか……!」
 普段から、男に負けたくないと考えている綾香だ。素直に謝るはずもなく、こんなくだらないことで土下座なんてしたくない。
男の言いなりになんか、なりたくない。
 その意思を持ちながら生きてきたし、精神だけでなく肉体的にも彼女は鍛えてきたのだ。
 幸い、青年はそこまで大柄ではない。綾香は彼の腕を強引に振りほどいて、一瞬驚いたそいつの顔に、思い切り平手打ちをくらわせた。
 小気味良い音が路地裏に響き、瞬時に静まり返る。
 少しだけたたらを踏んだ青年は、頬を押さえながら綾香を睨み返した。
「何だ、やんのか」
「う……相手が女だからって、強がらないでよね!」
「あ? 何言ってんのお前、意味分かんねーよ」
 明らかに苛立っている青年が右手を伸ばしてくる――その手首あたりを綾香は手の甲で弾き、わずかに膝を曲げて重心を置き、青年の腹部めがけてストレートパンチを放った。
 唯一習っていた、護身術である。今回が初実践であるが、何度も練習してきたこともあってほぼ確実に対応できた。
「――ぃたっ!?」
 しかし、呻いたのは綾香の方だった。思い切り打ち放った拳は確かに青年の上腹部をとらえたが、乾いた音を立てて弾かれてしまったのだ。
 仮にも筋力トレーニングを積んできた綾香だ。薄く張った筋肉は並の男よりパンチ力はあるはずだったのに、青年にはまるで通じなかったのである。
 へえ、と青年は少し関心したようだった。
「結構やるじゃん。腹に力入れてなきゃダウンしてたぜ」
 力を入れていた、というのは何の気休めにもならなかった。綾香は自分のほぼ最大限の力がほとんど通じなかったことにショックを受けていて、動揺を隠しきれない。
「そっちは二発殴ったんだからな。まだ殴らせろよ」
「はあ? 本当にどうしようもないわね……!」
 苛立ちの火がさらに強まり、綾香は負けじと青年を睨み返した。
 先に手を出してきたのはそっちなのに。ちょっとぶつかったくらいで、いい歳してキレちゃってカッコ悪い。
 なによりも、声を大にして言いたいことがある。
「それに、女を殴るなんて最低! みっともない……!」
 見知らぬ相手に暴力を働くなんて当然おかしいし、女を殴る男なんてどうかしている。常識の欠片さえ持っていないのか。
 青年は、「は?」と眉をひそめる。
「あのさ、さっきからなに言ってんの? 女だから何だよ」
 理解不能、といった表情だった。本当に。
 綾香はそこで、胸の内がざわりとする感覚に陥った。その正体が何なのか気づく前に、
「ぅぐっ……!」
 青年の拳が、腹部に入っていた。
「っ、ぇ……!? げほッ!」
 目を白黒させた綾香は大きく咳き込み、体をくの字に折って苦悶する。
 体を鍛えて護身術を習っていたといっても、別に格闘技ができるわけでもない。対して青年は慣れた様子で殴ってきた。何の躊躇もないボディブローだった。
「女だからってカンケーねーだろ。おい」
「う、ぅぅ……!」
 ようやく、綾香は自分の矛盾点に気が付いた。
 今まで自分はどんな思いで生きてきた?
 優遇されているのが嫌いで、女という理由で人格まで注意されて、女に媚びを売る男がみっともなくて。
『女を殴るなんて最低』
 だったら、どうしてこんな言葉が出てきた?
 性別で扱いを変えない世界を望んだのは、誰だ?
 綾香は自分の意思を取り戻そうとする。しかし、殴られたという事実、加えて、腹の痛みがそれを邪魔し、心がふらふら揺れるばかりだった。
「あー、最初にぶつかってんだから、全部で三発だな。じゃあと一発殴るわ」
 青年の口調は、“相手が女でも”容赦がないようだった。
この世界では男女の区別がないのだから、当たり前なのだ。
「い、いやぁっ……!」
「なよなよした声出すな、むかつくんだよ!」
 青年は右腕を大きく振りかぶった。まっすぐ顔面を狙う構えだ。
「ひッ……!」
 とっさに腕で覆い隠す。
 だが、鈍い音は再び腹部から聞こえた。
「ぅっぶ……!?」
 顔を守ろうと両腕を上げた瞬間、無防備になった腹を狙われた。
 体を持ち上げるようかという拳は、ブラウスに隠された綾香の腹へと沈み込む。鍛えているはずの腹筋が、めりめりと音をたててへこんでいく。
「ぐっ、ぶぁ……ッ……むぐっ!」
 肺を圧迫されたことで、押し出されるようにして空気と唾液が口からこぼれた。見開いた目には涙が浮かび、視界が滲む。
 ガクガクと膝が震え始めると同時に、喉の奥から何かがこみ上げてきた。腹に突き刺さっている腕から手を離し、反射的に口を押さえる。
「へっ」
 綾香の悶絶ぶりにほくそ笑んだ青年は、彼女の腹に拳をさらに深く押し込んだ。
 ぐりっ、とブラウスに反時計のねじれが生じる。
「ぅう゛っ」
 音をたてて軋む内臓。綾香は濁った呻き声を洩らし、目を白黒させた。
「ッ、ぇっ、ぐぷっ!」
 喉の奥からのぼってきた酸味に身体が震え、綾香は耐えきれずに胃液を吐き出した。
 ある程度鍛えていたおかげなのか、もろに胃の中のものを嘔吐することはなかった。しかし、勢いよく吐いた胃液は青年の腕にかかり、彼をまたしても逆上させる。
「おいおい! きたねえだろ!」
 青年は拳を引き抜くと、びくんと痙攣する綾香を突き飛ばした。
「いっ……! かはっ、けふっ」
 塀に背中を強打し、残り少なかった酸素が全部飛び出した。
 綾香は塀を支えにしながらずるずると尻もちをつく。そのまま、腹部を抱えるようにしてアスファルトに横たわった。
「ぅぅっ、ふっ、う゛え゛ぇぇぇっ、けほっ」
 痛い。お腹痛い。気持ち悪い。
 いまだに痛みの引かない腹部と、視界がぐるぐる回るような嘔吐感。粘ついた唾液が溢れて止まらない。
 悶え続ける綾香は、次に起きることを予感していた。
 ここは人気のない路地裏で、もう夜になろうとしている時刻。力の強い男が、女を殴りつけて抵抗できないようにしている。
 こいつは他人を躊躇なく殴るような男だ。これだけで済むはずがない。
 綾香の下腹部の奥で、何かがうずいた。防衛本能が働いて、そちらも一緒に抱えてうずくまる。
「けふっ、や、やだぁ……! ぜったい、いや……!」
 涙もぼろぼろと流れてくる。無様とかそんなこと言ってられない。なんとか脱出する方法を考えなければ――
「ったく、冷めたわ。もういいよお前」
 心底興味なさそうな声だった。
 え、と綾香はうずくまったまま、遠のいていく足音を聞いている。痛みをこらえながらおそるおそる顔をあげると、青年の姿はすっかり消えてしまっていた。
 助かった、と言えるのか。
「うぅ……」
 だが、綾香の心にはなぜだか引っかかるものがあった。海の底にあるような感じ。
 そして、それを掬い上げると、涙がさらに溢れてきた。殴られた腹部が痛いとか、吐きそうだからじゃない。
 自惚れだと思われたっていい。だ女として襲われなかったことが、悔しい。
 女を人気のないところに連れ込んで、ぼこぼこにして、逃げられなくして、それで終わりって――
 いや、今この世界は、どういう常識なんだっけ。
 それを考えると同時に、綾香は自分の愚かさも自覚するのだった。
 誰よりも女としての意志を持っているのは、他でもない自分だということに。

 生気を失った表情で、綾香は『設定屋』の扉を開いた。
 なぜだか懐かしい感じがする紙の匂いと淡い電灯。黒髪の少女は、昨日といつもの恰好で椅子に座っていた。
「こんばんは。随分とお疲れですね」
 やはり無表情で少女は言った。何があったか知らないはずなのに、少女にはすべてが御見通しのような気さえする。
「自分の望んだ世界にはなりませんでしたか?」
「あ……」
 どう答えたらいいのか分からない。
 確かに綾香の願いは叶えられた。女だからって優遇されない世界。女だからってちやほやされない世界。女だからって色目を使われない世界。
 でも、さっき分かった。
 自分自身が、女であることを盾にしていたこと。
――女だから、なんだっていうんだ。
簡単なことだった。“そういうことを言える女”であることに悦になっていただけ。有り体にいえば、自分に酔っていたのだ。
 なんて情けない。なんてみっともない。世間や他人のことをあれこれ突っ込むくせに、肝心の自分は――
「……戻して」
 自然とそう口にしていた。
「よろしいのですか?」
「いい。自分のこと、よく分かったから」
「なるほど。それではあなたが変更する前の世界に戻しますね」
 淡々の少女は答える。その表情からはやはり何も読み取れない。
戻すよりも、また別の設定で世界を変えることだってできる。しかし、精神的にも肉体的にも疲弊した綾香には、もうどうでもよかった。
「人は何かに直面して初めて自分自身を知るのです。あえて偉そうに言わせていただきますがあなたにはいい経験になったことでしょう」
 まるで、昔から知っているかのような口ぶりだった。
 ぞくりと綾香の心臓が震える。
 目の前にいる少女は、単なる書店の店員ではない。世界の常識を変えることができる本なんて、そんなおかしな本を持っていること自体、疑問が浮かんでくる。
 だって、この少女だって自分の好きなように変えることだってできるはずだ。それをどうして、他人である綾香に試させたのか。
 そもそも――今の世界はどうやってつくられたのか。
 あっ、と綾香は声をあげた。その時にはもう遅くて、少女は本へと鉛筆を走らせていた。

★金と黄の交差

「わあっ、すごいっ」
 駅から一歩外に出た途端、彼女は好奇の視線をあちこちに巡らせた。
 この地域はT都の代名詞ともいえる場所で、観光客は必ずといっていいほど訪れる名所である。
 背の高いビルにはアニメの看板だったり、映像だったり、それはもういわゆる”聖地”めいた雰囲気があった。平日の夜だというのに人通りも多く、初めてこの地に足を踏み入れれば、とにかくあらゆる店へ入りたくなってしまうだろう。
「あ、いけないいけない。遊びにきたわけじゃないんですから」
 表情を引き締めながら、彼女は――如月シオンは緑色の瞳で夜空を仰ぎ見た。
 雑誌等で興味はあったが、実際にこの目で町の景色を見るのは初めてだ。かといって彼女は観光目的ではなく、仕事で訪れている。いや、任務、といった方がしっくり来るだろうか。
『人妖』と呼ばれる、人間社会の脅威となっている怪異が存在する。見た目は人間だが、本質は妖怪のそれである。人間との粘膜接触によってエネルギーを摂取するという、まさに人類の天敵といえた。
 シオンはそれを半ば実力行使でもって退治する戦闘集団、”アンチレジスト”の構成員である。しかも、彼女は上級戦闘員という肩書きを持っており、その実力は折り紙つきだった。
「えっと、C地区……でしたね」
 今回彼女に与えられた任務は、C地区で探知されたという人妖と思われる生態反応の調査である。
 判然としないのは、今までに確認されたことのないタイプの反応だったからだ。だからこそ、シオンが派遣されてきたともいえる。
 彼女は頭に叩き込んでいる地図を思い浮かべながら、目的の場所へと歩み出した。夜ということもあってか、ブロンドの髪が絵のように映えている。
 トレンチコートを着ているものの、彼女の美貌や真っ直ぐな足取りからして、スタイルも相当レベルが高いであろうことは想像に難くない。この街では外国人がいること自体はそれほど珍しくないが、シオンの存在感はどんな人間よりも一際目立っている。
 当の本人は気づいているのかいないのか、周囲の視線を気にすることなく歩き続けた。目的地は意外にも近かったため、すでに精神を引き締めている。
 しかし、
「はわっ、か、かわいい……!」
 視線の先には、彼女の憧れともいえる存在がいた。
 フリルの付いた真っ白なエプロンドレスにカチューシャを着こなしている若い少女たち。道行く人たちへ声をかけたり、店のチラシを配っていたりする。
 彼女たちはメイドだ。かといって職業がまさにメイドというわけでもない。この街ならその姿はそこかしこで見かけるし、アルバイトが多いだろう。中にはちょっと危ない店もあるかもしれないが、シオンは深く知らない。
「あぁ、こっちにもメイドさん、あっちにもメイドさん……!」
 シオンはいわゆる名門家の生まれで、言うなればお嬢様であった。ご多分に漏れずそれ相応の教育を受けてきたが、彼女自身の心にはほんの少し疑問が浮かんでいた。
 なぜ人は平等ではないのか。
 およそ上の立つ人間の思考とはいえない。しかしシオンにとっては素朴な疑問として常にあり、それは「メイド」という存在を知ったことで、世界丸ごと価値観がひっくり返った。
 ただ映画で見ただけだ。たったそれだけのきっかけで、シオンは「誰かの役に立とうとする」その姿に魅了され、以来メイドに憧れを抱くようになったのだった。
「お話したい……! 写真を一緒に撮るだけでも……!」
 通行人に声かけしているメイド姿の少女へ、ふらふらと吸い寄せられていく。
 しかし、仮にも彼女たちは仕事中だ。それを邪魔するわけには……
「仕事……、い、いけない。私も任務中なのでした――いやでも、ちょっとくらいなら……」
 一瞬だけ我に返ったのも束の間、笑顔を振りまいているメイドの姿が視界に入ると、どうにも頬が緩んでしまう。
 そうだ、通りがかって声をかけられたというシチュエーションでいこう。決して任務を忘れているわけではない。たまたまメイドさんの前を通りかかったら、話しかけられたということなら、別に何も不自然ではない。そこから会話に発展して写真を撮ることになったっておかしくないはずだ。多分。
「よし……!」
 シオンは妙に緊張した面持ちで、金髪のツインテールを整えた。いざ行かんとメイドの方へと歩み寄ろうとした矢先、
『シオンさん!』
「ひゃいっ!?」
 びくりと肩を引きつらせて硬直する。通行人の視線が集まってきて、シオンは顔を伏せながら早足でメイドの前を通り過ぎた。今の声はイヤホン型インカムから流れてきたオペレーターだ。
 自動販売機の陰に隠れながら彼女は弁解の言葉をまくしたてる。
「す、すすすみませんメイドさんが目の前にいたのでつい魔が刺したというか決してサボろうとしたわけではなくて――」
『な、なんのことですか? いえ、それより、異様な反応――気を――』
 オペレーターの声は唐突に聞こえなくなってしまう。若干のノイズが走っていて、耳障りな音と状況の異変に、シオンは眉をひそめた。
「なんですか、放してください!」
 悲鳴に近い声に、シオンはすかさず振り返った。
 先ほど声をかけそびれた黒髪のメイド。なにやら見るからにやんちゃそうな青年が彼女の腕を掴んでいる。
「いいじゃんほら、ちょっとだけだって。あっち行こうぜ」
「や、やめて……! 誰か……!」
 周りは見て見ぬフリをしていることが、シオンには分かった。疑問と苛立ちを覚えるが、あのメイドを困らせているのはシオン自身が見過ごせるはずもない。力強い足取りで二人に迫っていく。
 突然目の前にやってきた金髪少女に、青年は面食らっていた。
「な、なんだよ。あんた」
 彼の身長は若干低めで、線も細い。茶色に染めた髪は若干ボサボサで、目つきは悪いがあまり頼りになさそうな印象がある。
 しかしそんなことは関係ない。例え相手が体格のいいボクサーみたいな男だったとしても、シオンはこうしていただろう。
「彼女は嫌がっています。その手を放しなさい」
「は? カンケーないだろ。それともなに、あんたが代わりに相手してくれんの?」
 逆に男は、相手が女であるということに余裕を\感じているようだった。
 はあ、とシオンはため息を吐く。彼女は羽織ったロングコートの、肩から太ももあたりまである長いファスナーを下ろした。
 コートの下から表れたのは、この場では非常に馴染み深い「メイド服」だった。ただし一般的なそれと比べると露出度が高い。トップスはブラジャー型だし、エプロンのついたスカートも短い。白くて滑らかな腹部を惜しげなく晒しつつも、長くてしなやかな両脚は白のオーバーニーソックスに包まれている。
 今まさに守ろうとしているメイド少女が頬を赤くするくらい、挑発的な恰好である。しかしこの姿は、同時に任務中であることを示している。アンチレジストの上級戦闘員、如月シオンのれっきとした戦闘コスチュームだ。
「わ、あのメイドさん、めっちゃえろい」
「でもすごく綺麗だよね……!」
 事実、シオンは年齢の割に童顔だが画に描いたようなスタイルの持ち主であった。男性は下心の入った好奇も目もあるが、女性は羨望ともいえる視線をシオンに注いでいる。
 青年も呆気に取られたようだったが、どうも自分の都合が良い方向に物事を考える性格らしく、
「お、なに、マジで相手してくれんの?」
 と、にやついた顔で言うのだった。彼の興味は完全にシオンに向けられていて、小柄なメイドの手をすでに解放していた。
 そんな青年をシオンは冷ややかな目で見返す。
「ええ、お相手しましょう。ただし――」
 彼女はおもむろにコートを青年へと投げつけた。動揺している声の主へと向かって、白いオーバーニーソックスに覆われた右脚が振り上げられる。
 長くしなやかな脚が、コートで視界を奪われた青年の頭へと正確にヒットした。ごっ、という鈍い音に、メイド少女がびくりと肩を震わせる。
 漫画みたいな動きでもって、青年は身体ごと吹っ飛んでアスファルトの上にどさりと倒れ込んだ。
「あなたの思っているような――もう聞こえていませんか」
 ハイキックをの態勢から微動だにしないまま、シオンは静かに呟いた。
 おおっ、と周りの人々が歓声をあげ、スマートフォンやら何やらで写真を撮り始める。シャッターの音にシオンはどきりとして、慌ててスカートを押さえながら足を下ろした。
(い、いけない。目立ってしまったら任務に支障が……)
 メイド少女を助けたいあまりに我を忘れていた――しかしある意味彼女らしい一面でもあった。
 ふう、と軽く息を吐くシオンのそばで、メイド少女が恍惚とした表情で口をぽかんと開けている。
 シオンは気づいた。これはチャンスなのでは。今なら少女とお近づきになれるはず――
「おー、いてえ、結構やるじゃん」
 背後からやけに陽気な声。シオンは再びメイド少女をかばうように位置取りながら振り向いた。
 たった今ハイキックでダウンしたはずの青年が、首を回しながらニヤついている。コートは足元へ無造作に投げされていた。
(確実に入ったはず……!)
 動揺してはいるが、シオンは心理的な優位を相手に与えないために、表情を崩さず凛とした目つきで睨み返す。
 彼女が得意とする蹴りは、並大抵の格闘家が放てるものではない。
 筋肉で覆われた腕や足ならともかく、頭部を鍛えることは不可能。しかも彼女のハイキックは直接脳を揺らすほどの威力だし、かろうじて失神しなかったとしても、この青年のように笑った顔で立ち上がれるはずがない。
 こいつは、普通じゃない。
「お? なんだか知ってるって顔してるな――あ、分かったぞ? お前がアレか、果汁系戦士ってやつだな?」
「かじゅう……なんです? 人違いではありませんか?」
 聞きなれない言葉にシオンは気を取られそうになるが、ほんの一瞬だけだった。余計な事に意識を逸らさず、目の前の青年に集中する。
 この街に訪れた目的は、レジスタンスがキャッチした不審な生体反応を調べること――おそらく彼だ。
 短く息を吸ったシオンは戦闘態勢に入る。対して青年は、
「ふん、そうか、正義の味方ってのは正体を明かさないらしいからな。だけど俺は違うぜ?」
 彼は大袈裟に息を吸い込むと、ぐっ、と背中を丸める。
 全身に力を込めているようだ。握った両拳をぶるぶると震わせ、顔も紅潮していき、首元も血管が浮き上がっていた。
「ゴゥアアアアアアアアアアアアア―――――――――――!」
 溜め込んでいた酸素を一気に爆発させ、叫ぶ。
 人間の口から発せられるような声ではなかった。もっと獰猛で、激しい。咆哮と言ってもいい。
「う……!」
 シオンはびりびりとした威圧感を肌で感じ取った。ほとんど迫力のなかった青年が、突如として驚異的な存在感を放っている。
 すぐに、彼女はその美しい瞳に捉えた。青年が『変身』していく様を。
(なんですか、これは……!?)
 目の前で起きていることが、すぐには信じられなかった。
 青年が着ていたシャツが、内側から破れていく。それは彼の肉体が文字通り膨れ上がったからだ。細身だったはずの身体はもう見る影もなく、現れた肉体は人間離れしているほど大きい。
 妙に赤黒い肌には血管が浮き出ており、胴体は大木を思わせる。筋肉がぎっしりと詰まった両腕はシオンの太ももほどの太さはあろうかというほどだ。
「ふしゅううぅぅぅぅ」
 青年だったはずの男は、水蒸気のような白い息を吐いた。
 その口からのぞいているのは薄汚れた牙。彼の瞳はぎらぎらと猛獣を思わせる色を帯びていて、額から突起物が生えている。
 上半身だけは恐ろしく変貌したものの、下半身だけはジーンズのままでほとんど変わっていないのがアンバランスであった。
 周りの人々は明らかな異形を目の当たりにし、我先にと一目散ひ逃げ始めた。好奇心を持つ者はほぼゼロで、シオンはすぐ背後にいるメイド少女に、振り向かないまま声をかける。
「今すぐここから離れてください」
「ぁ、え……」
「早く!」
 ほんの少し躊躇の呼吸。その後すぐに、メイド少女が逃げていく足音をシオンは聞いた。
 自身の精神を尖らせながら、変貌を遂げた青年――怪物を睨む。
「鬼……!」
 そうシオンは感じる。彼の見た目は、昔話などに出てくる鬼そのものと言える。そして、おそらく『人妖』ではない。もっと別の何かであると確信した。
 チッチッ、と『鬼』は分厚い舌を鳴らして指を振る。
「オレの名はオニラスだ。お前は?」
「……答える気はありません」
 あくまで主導権は握らせない。シオンは異様な威圧感を受け止めながら、鋭い瞳でもってオニラスを睨み返した。
「チッ。まあいい。果汁系戦士ってのが分かっていれば十分だ!」
 人違いなのだが反論している暇はない。
 オニラスはその筋肉質な体で駆け出してきた。両脚は人間のままだからか、妙に俊敏に感じられる。
「――――ッ!」
 シオンとてアンチレジストの上級戦闘員である。数多くの戦闘を経験してきた彼女は、もとより『人間』以外を相手にしてきた。オニラスという怪物の存在を目の当たりにしつつも、戦闘スキルが鈍ることはなかった。
 太い腕から放たれる拳を寸前で避け、逆に懐へと潜り込む。
「はッ――!」
 オニラスの脇腹めがけて、薙ぐような蹴りを放つ。シオンが履いている黒のストラップシューズには、鉄板が仕込まれていて、相手が人間であれば肋骨の一本や二本は折れるだろう。しかしオニラスは確実に人間ではない。だからシオンも最初から本気だ。
 ストラップシューズの爪先が、オニラスの赤黒い皮膚へ音をたててめり込んだ。
「ぐっ……!?」
 呻いたのはシオンの方だった。
 間違いなくヒットしたが、オニラスの上半身はやはり人間のそれではあり得なかった。筋肉はもちろん皮膚ですら堅く、まるで地面を蹴りこんだかのようだった。
(一旦離れて――!)
 シオンは即座に状況を理解し、判断する。危険を承知で飛び込んだオニラスの懐は、あちらも得意な間合いだ。
 だからシオンは左足で相手の腹部を蹴りこみ、反動で後方へと跳躍する。映画のワイヤーアクションを思わせる動きは、軽やかで華麗だ。
「グハハッ、どうしたんだ。いきなり距離を取るなんて」
 完璧な蹴りが入った脇腹を、ぽんぽんとオニラスが叩く。やはりダメージはほとんど入っていないと見ていい。
 シオンの表情に若干の焦りが差す。これまでにもおよそ『人間』とはいえないモノを相手にしてきた。危機に陥ることもあったし、その都度でどうすべきか考えてきた。
 しかし、オニラスは異常だ。まだ人妖であった方が、幾分納得もいく。だがこんな常識外れが相手では――
「焦っているな? いいぞその顔。どうだ? 今からでも俺の”相手”をしてくれても構わないぞ」
 へらへらと余裕を露わにしている怪物。
 自分以外の戦闘員であったらどう判断するだろう――アンチレジストは『人妖』の討伐を目的としており、当然一般人が知る由もない極秘組織だ。下手に目立てば組織の存在が知られてしまうかもしれないし、『ファーザー』はそれを望まないだろう。
 しかし、だからといって目の前に存在する怪物を放置することは、シオンにはできなかった。
(きっと、綾ちゃんだって戦うはず)
 同じ上級戦闘員である少女の顔が思い浮かんだ。任務だとか、アンチレジストだとか関係ない。
 究極的な任務は、”人を守る”ことなのだ。
(体は頑丈すぎてまともに通じない……それなら)
 オニラスの体つきは、上半身は完全に怪物と化している。しかしジーンズを履いた下半身は人間のままだ。シオンは自分が相手より小さいことも利用する。
 足を狙うのだ。
「ああん? 焦っていたかと思ったらなんだよその目は。いきなりキリッとしやがって」
 シオンの戦う意志を帯びた目が気に入らないのか、オニラスは大きく舌打ちをした。
「逃げると思いましたか? そんなつもりは毛頭ありません。あいにくですが、私はしつこいですよ」
「チッ、そうかよ。ぜってえ、俺の”相手”をしなかったことを後悔させてやる!」
 吠えながら突進してくる怪物。シオンは冷静な思考でもって相手の動きを読む。
 オニラスは体が大きい分、攻撃の振り幅も広い。それはリーチが長いという厄介さもあるが、攻撃箇所の予測がしやすいという点があった。そこがこの怪物に勝つために攻めるべき弱点だ。
(右のストレートを受け流して――!)
 顔面を狙ってきた真っ直ぐなパンチを、左手で軽く弾く。筋肉の動きなど、戦闘経験豊富なシオンだからこそできる芸当だった。
 オニラスの腕は斜めに逸れて、体の前面を開くようなかたちになる。
「――――ふッ!」
 薙ぐようなローキック。体ごと半回転しながら放ったそれは、空気を切り裂く音を響かせた。
「うおぉッ!?」
 怪物は動揺していたが、対応しようとする動きはやはり人間の領域を超えていた。
 彼は迫ってくるシオンの長い脚を視線にとらえつつ、体をねじって回避行動に移っている。体重を乗せた拳を放っていたから、ジャンプなどして避けることは無理だと即座に判断したのだろう。
(速い! でもこのまま!)
 シオンは自分の蹴りがヒットすることを確信していた。直撃はできなくとも、足にダメージを与えれば勝機も見えるはず。彼女は迷いを捨てて、しなやかな脚を振りぬいた。
 鉄板が入ったシューズのつま先は――オニラスの股間に突き刺さった。
「あ」
 思わずそんな声をこぼすくらいに、シオンは色んな意味で動揺した。だが反撃を懸念して、初撃と同じようにすぐ後方へと跳び退る――追撃は来ない。
「――――」
 停止ボタンを押されたみたいに敵は硬直していた。
 シオンは構えを維持しながらも、蹴り込んだときの感触がどうしてもフラッシュバックしてきていた。男性にとっては地獄かそれ以上、死んだ方がマシという声を聞いたことがある……なんだか、とてつもなく悪いことをしてしまったような気分だった。
(き、効いたの? 人間ではないし、もしかしたら効果は……)
 つぶさにオニラスの状態を凝視していると、彼はものすごく小さく「ぉ」と声を洩らした。そして、
「ぐおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉくぁwせdrftgyふじこlp!!」
 この世のものとは思えない呻き声を発して、オニラスは股間を押さえながら転げまわった。それはもう見るのも気の毒になるくらいに痛そうで、
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 思わず声をかけてしまうくらい、シオンは妙な罪悪感を覚えていた。
 ただの人間みたくのたうち回っているオニラスは、体を小刻みに震わせながらもゆっくりと立ち上がる。
「くそっ、男のアイデンティティを容赦なく蹴りつけるような女だなんて……!」
「あの、さっきのは不可抗力です……! あなたの動きが予想外にも……」
「ええいうるさい! お前は男の敵だ! 全世界の男を代表して仕返ししてやる……!」
 怒り心頭といった様子でオニラスは睨みつけてきた。
 ともかく、効果があることは分かった。あの部分を集中的に狙うのは少々気が引けるが、効果がある部位にダメージを与えなければ勝ち目はない。
 それに、敵の攻撃はただ乱暴なだけで、言うなれば喧嘩スタイルだ。訓練と実戦の経験値が高いシオンにとって大した脅威では――
「――おい、まさか、俺が最初っから全力で戦っていると思っていたか?」
 相手を惑わすハッタリ――ではなかった。ぞくっ、とシオンは全身に氷をあてられたような寒気を感じ、 咄嗟に防御寄りの構えを取る――
 もう、遅かった。
 ズン、と腹部に衝撃が来て、視界が妙な位置にズレた。
「ぁ゛っ……」
 何が起きたのか、シオンの脳はまだ理解が追いついていなかった。
 体が動かない。足がなぜかアスファルトを離れている。
 目の前にオニラスの顔がある。体格差があるはずなのに、目の高さが同じ。
 理解するより先に、腹からこみ上げてきたものをゴボッと吐き出した。
「ぇっ……ごぷっ!?」
 びちゃりとアスファルトに広がったのは、自分の胃液だと分かった。喉が熱く、ひりひりと痛む。口内にまとわりついて、舌から糸を引いている。
「フン、結構鍛えてあるな。まあ、ただの人間じゃ受けきれねえか」
 オニラスの声が妙に大きく響く。鼓膜を直接叩いているみたいに。
 彼の右腕が自分の身体へ伸びていることにようやく気付いた。辿るようにして視線を泳がせる。
 筋肉の塊から繰り出された拳が、身体を強引に持ち上げていた。
「ぅぐっ……! ぇ゛っ……!」
 かなりの時間差で痛みが呼び起された。およそ人間が受け止められる攻撃ではなかったため、脳が理解するまで時間を要したのだった。
 滑らかに引き締まった腹筋は強引に突き破られて、体内の内臓器官にまで拳が抉り込まれている――そう気づいた瞬間だった。
 突き刺さっている腕が、ぐるりと半回転した。
 ぐちゅ、という生々しい音。
「う゛ッえぇぇぇぇぇ゛ぇ゛ぇ゛!」
 大きく身体が跳ね、少し白く濁った胃液が溢れた。抉られていた胃袋が、まるで雑巾を絞るみたいに捩じり回されたのだ。
 ビクビクと痙攣する肢体。ズボリと音を立てて拳が引き抜かれる。彼女は受け身を取ることができないままアスファルトへと転がった。痛々しく陥没した腹部を押さえながら、海老のように背中を丸めてうずくまる。
「ッ、か――はッ――ぁ゛っ――」
 呼吸困難に陥ったシオンは、犬のように浅い呼吸を繰り返した。
 穴が開いたかと思うほどの鈍痛が腹の中で蠢く。激しい嘔吐感はまったく引かず、だらしなく開いたままの口から粘ついた胃液が垂れ流されるばかりだった。
 腹を殴られることはある。訓練もそうだが、実戦で腹部を狙われることは当然ある。が、
(一撃で――胃が、潰れ――!)
 この戦いで初めて受けた攻撃。たった一撃だ。それだけで、すでに再起不能状態だった。
 悶絶しているシオンの頭が、がっしりと鷲掴みにされる。抵抗することもできず、彼女は人形のように持ち上げられた。
 それから手を離されて、倒れ込む前に首元を掴まれる。そのままは背後にあるビルの壁に勢いよく押し付けられた。
「ぅぎっ……! かぁっ……!」
 背中を強かに打ち付けられ、全身に痺れが走る。
 先ほどのボディアッパーですでに酸素がほとんど叩き出されていた。そのうえ首を鷲掴みにされ、シオンは酸素をまともに取り込めなくなる。
 首を絞めている腕を殴りつけるが、細腕には力がほとんど入っていない。これでは、たとえ子供の腕だって振り払えないだろう。
「クハハッ、胃を潰されただけでこのザマか」
 完全に勝利を確信しているオニラスは、空いている片方の手を再び握り込んだ。シオンの瞳に、恐怖の色が宿る。
「安心しな、人間の痛めつけ方は慣れてんだ。すぐにゃ死なないよう殴り潰してやるよ!」
 殴られた箇所へと、再び猛打が埋まる。
 わずかな気力で腹筋を固めたものの、何の効果もなかった。ごつごつとして硬い拳は滑らかな腹筋を押し潰し、再び胃を抉る。
「ぅごお゛っ――!」
 元の形に戻りかけていた胃が、背骨にまで押し付けられる。壁を背にしているから、衝撃はほとんど抜けずに腹の中で暴れまわった。
 新たな嘔吐感がこみ上げるが、首を絞められているせいでせき止められている。吐き出したくても吐き出せない。
「今度はこっちだオラァ!」
 狙われたのは脇腹だ。太い腕がフック気味にしなり、シオンの右脇腹に突入する。
「げえぁっ――!?」
 ミシッ……べキッ……
 シオンは肋骨の数本が折れたことを自覚した。衝撃は肝臓にまで届き、シオンの顔色が青白くなっていく。
「ぐぎっ、ぃ、げふッ……!?」
「ハッ、簡単に折れたな。肝臓も使い物にならないだろ。次はここだ!」
 続いて狙われたのは臍の辺り。やや下方へ付き下ろすような拳が臍へと沈み込む。
 柔らかな下腹部に潜り込んだ拳が、さら右へ左へと捻られた。
「ぅぐふっ!? ぉ゛ぁ、ッ、ごぇ゛――!」
 小腸が大きくかき回される。
 ぐちゅぐちゅ――腸のひしゃげる音が体内を通って、シオンの鼓膜で鳴り響く。
 肋骨を砕かれて、立て続けに臓器を抉られ、ねじ回され、潰され。シオンの内臓器官はほとんど原型を留めていない。
(ぁ――おなか、ぐちゃぐちゃ――)
 涙が溢れている瞳からは、やや光が薄れていた。常人ならとっくに失神しているか、最悪の場合死んでいる。
 まだ意識を保っているのは、彼女自身が人並み外れた訓練で身体を鍛えていること、これまで潜り抜けてきた死地での経験が発揮されているからだった。さっさと気を失ってしまった方が、楽だったかもしれない。
 散々内臓を弄んだオニラスは、手首近くまでめり込んでいる拳を引き抜いた。
 引き締まった腹部には陥没が残され、ぐぼぐぼと臓器が蠢く音が聞こえる。
「もう使い物にならないな、お前の内臓は」
「か……はっぁ゛……ッ」
 汗ばんだ顔に、美しいブロンドの髪が張り付いている。全身も汗で濡れているシオンは、内臓の痛みで失神寸前にまで陥った。焦点の合わない瞳が、時折瞼の裏に隠れるほど行ったり来たりしていた。
「次が最後だ。女の大事なモン――子宮を潰してやる」
 シオンの身体は、痛みとは別の反応を示した。びくっ、と子供が肩を震わせたような動き。なによりもまず女としての防衛本能が働いたのである。
 ただ、それは単なる反応に過ぎず、肋骨や内臓を潰されて満足に呼吸もできない状態では、腕はおろか指先さえ動かすこともできないのだった。
 そのくせ視界だけは妙にはっきりしていて、怪物が拳を固く握りしめているのが見える。大きく後ろに引き絞りながら、彼の視線は下腹部のあたりに向けられていた。
 (ぁ――やだ――ッ――)
 内臓をあっさりと潰す拳。下腹部に付きこまれたら、子宮なんて簡単に破裂してしまう。
 シオンは殴り潰される痛みより、それが怖くて仕方なかった。子宮どころではなく、死ぬかもしれないのに、彼女は『女としての死』にひどく恐怖した。
 だけど、力は全然入らない。腹部を守ることができない。怪物から目を逸らせない。
「ハッ、いい泣き顔だな。なに、一発で粉砕して――」

「そこのあんた、こっち向け」

 その声は、シオンの鼓膜を優しく叩いた。
 ああ? とオニラスは鬱陶しそうに、シオンから見て右を向いた。
 と同時に凄まじい衝撃音が響き、怪物の姿が一瞬でどこかへ飛んでいく。
 首の圧迫が唐突に消えた。シオンは壁に背をずるずると押し付けながら尻もちをつく。
「ぅ、かはっ、げぼ、ぅぅええぇぇぇ……!」
 首を絞められていたことでせき止められていたものが、圧迫感と一緒に解放された。口から黄色く濁った胃液が溢れ出て、時折喉が詰まって重い咳を繰り返す。
 涙で滲んだ視界に、目が覚めるような黄色の髪をした少女が立っていた。
 その少女は右の拳を突き出している。信じ難いことに、一回り以上は体格差のあるオニラスを、拳一つで殴り飛ばしたのだった。
 そして、その姿も非常に印象深い。
(コスプレ……?)
 シオンがそう感じるのも無理はない。最近欠かさず追いかけているアニメに出てくる、魔法少女に似ていた。
 真っ白なブラウスは汚れ一つなく、胸元に黄色い宝石をあしらったリボンが付いている。
 丈の短い黄色のショートパンツから伸びる太ももは健康的に張っていて、肉感的な色気があった。膝下までのブーツだけがやけに重そうである。
 少女は「ふう」と軽く息を吐くと、拳を下ろしてシオンの方を一瞥する。途端に、その瞳が軽い動揺に揺れた。
「わっ、外国の人? えと、だ、大丈夫? あーゆーおーけー? どんうぉーりー? あー、英語ぜんぜん勉強してないもんなー」
 あどけないが、力強さが感じ取れる声だった。黄色の少女はさらに目を見開いて、
「ていうかその服エロすぎ! あ、そ、そういう仕事の人か……!」
「ぁ、ち、ちがい、ます……!」
 その点だけはどうしても否定したくて、シオンはか細い呼吸で答えた。
 おお、と黄色い少女が感嘆する。
「おねーさん、日本語分かるの? あーよかった」
「あ、あなたは……?」
 その時、瓦礫を吹っ飛ばしながらオニラスが起き上がった。彼は意識を保たせようとしているのか、頭を横にぶんぶん振っている。
「ぬあ、くっそ……! なんなんだ、お前は!」
「あ? あんたこそなんだこのクソ怪人。人間相手にみっともないっつーの」
 オニラスを見下すような視線をぶつけている。あの怪物をあっさり殴り飛ばしたのだから、この少女も普通ではあり得ないし、何より本人もそれを自覚している節があった。
「チッ、果汁系戦士に仲間がいるとは聞いていないぞ。お前は何系戦士なんだ」
「は? ああ――もしかしてそうなの?」
 と、少女は疑問の視線を投げかけてくる。
「い、いえ、なんのことだかさっぱり……」
「あー、違うっぽいね。本人は分かってるはずだし。ていうか、もうあの二人で十分だわ……」
 黄色い少女は呆れたような表情をしていたが、何か心地よいものを思い浮かべているのか、口元は薄く緩んでいた。
「おい、このおねーさんは全然カンケーないから」
「ふふん、そいつだけは逃がそうという魂胆か? 無関係なフリをしても無駄だぞ」
「だーから違うっつってんでしょ。人の話聞いてる? 言葉通じないの? バカですかー?」
「ハッ、えらくガキみたいな正義の味方もいるんだな。で、お前は何系戦士なんだって聞いてんだよ」
「あたしだよ! あたしがその果汁系戦士! レモンハート! 分かったかこのバカ」
 レモンハートというのが、少女の名前らしい。シオンはなんとなくではあるが、『果汁係戦士』の意味を理解した。
 小さな口から次々放たれる言葉は、まるで中学生の少女のようだった。それくらいの年齢だろうと、シオンは持ち前の観察力で判断した。小柄で顔つきはまだまだ幼いし、声色もあどけなさを残している。
 しかし、少女の振る舞いはオニラスにも劣らぬ存在感を誇示している。決してただのコスプレイヤーではない。あの怪物とはまた別方向の、『人間』を超えた存在であるとシオンは直感した。
「ていうかおねーさん凄いね。変身できなくても怪人と戦えるとか」
「へん、しん?」
「あー、うん。後で話すよ。まずあのバカ倒すから」
 ひどく呑気な口調でレモンハートはそう言った。いとも簡単に。ちょっと寄り道してくる、みたいな軽さで。
 シオンが呆気に取られていると、怪物は鼻で大きく笑った。
「フン、人助けってか? 俺には理解できねえな。他人なんか助けて何になるってんだ。見返りに何か貰えるわけでもなし、それこそバカってもんじゃねえのか?」
 その表情も声の調子も、明らかに見下している様子だ。
「そこの女だって、別に人を助けようなんて思わなけりゃ、俺にやられることはなかった。本当は後悔してんだろ?」
 腹部の鈍痛はまだ収まっていなかったが、シオンは頭に血が上っていく感覚をはっきりと覚えた。痛みなんか気にならなくなるほどに。
 何なんだあの怪物は。そんなこと言える権利でもあるのか。
(見返り? そんなの……)
 返りを求めてなんかいない。人を守ることに理由なんか必要ない。そんな薄っぺらい思いで戦ってなんか――!
「……そうだよね。あんたの言う通り」
 呟くような言葉は、レモンハートのものだ。黄色い少女はうつむき加減で頭をぽりぽり掻いている。
「赤の他人なんか構ってられないっつーかさ、そんな暇あるんだったら自分のこと優先しろって思うよねマジで」
 それは呆れた声色であることに間違いはなかった。だがシオンはレモンハートに対して、怒りが沸いてこないのだった。
 声の奥に、確固たる『芯』のようなものを感じ取ったから。
「いやほんと、世の中そんなお人好しいるんだよ。下心とかそんなもん無いの。なんつーのかな、使命っていうの? しかも、誰かに認めてもらおうとか思ってないっていうね。ほんとバカみたい」
 はー、と少女はため息をたっぷり吐いてから、オニラスを睨みつける。

「そんなバカなことに命かけてるヤツもいるんだよ。それをバカにすんな。マジでぶっ殺すよ?」

 射貫くような瞳。心臓が跳ねるかと思うほど、思いの満ちた言葉。シオンはオニラスが反論せずに若干後ずさりするのを確かに見た。
 この少女にはきっと、そういった友達がいるんだろうと思った。友達を侮辱されたのだから”キレる”のは当たり前だ。少女はそれだけその友達が好きなのだ。
 対してオニラスは、自分が気圧されていることを誤魔化そうとしていた。
「ハ、ハハハ、調子に乗るな。いくらガキでも遠慮しねえぞ!」
 怪物は再び怒号をあげて態勢を低くした。
 あ、とシオンの背筋に冷たいものが走る。あの構えはまずい。一瞬で懐まで飛び込まれてしまう――!
 目の前で空気の破裂音が轟く。
 シオンはやはり、オニラスの動きを目で追い切れなかった。
 だが、避けようのないボディブローをレモンハートが片手で受け止めていることが、理解不能だった。
「なんだと……!?」
「え、なに今の。おっそ。あたしの腹を潰せると思ったの? 今ので?」
 あえて強気な態度を示しているとか、そんな雰囲気ではなかった。表情でわかる。黄色い少女は本心から、今の攻撃が”しょぼい”と感じているのだ。
「なーんだ。ただのモブ怪人か。じゃあさっさと、死ね!」
 レモンハートは語尾を強めると、あろうことか、オニラスの股間を思い切り蹴り上げた。生き物の身体から発してはならないような音が響き、シオンは思わず両手で視界を覆ってしまった。
 目を見開きながら大事なところを押さえ、怪物はのたうち回った。
「ゴアアアアアアアアアアアアァアアァァァ二回目えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええぇぇぇぇ!!」
 今の蹴りは、シオンよりも当然強烈なものだろう。その痛みなど想像できるはずもない。
「二回目? へえー、おねーさん、こいつのあそこヤッたの? すごいじゃん」
 そう言って視線を向けてきたレモンハートの表情は、関心しているような色を表していた。
 そしてすぐに、悶絶しているオニラスへと目を戻す。少女の右手が何かを握っていることに気づいたシオンの口内に、唾液が湧き出てくる。
 それは熟したレモンだった。どこから取り出したのか全然分からないし、何よりこの状況でレモンを手にしている意味も謎すぎた。
 レモンハートは黄色い果実を、痙攣しているオニラスの口の中へと強引に押し込む。
「はい、もうあんた終わり。ヒーロー番組だったら今ここエンディングかかってるから」
 うまく吐き出せないのか、レモンを丸ごと口に含んだオニラスはもごもごしながら転げまわっている。
 ふーっ、とレモンハートは大きな深呼吸をした。
「飛、ん、で、けぇ!」
 少女の肉感的な太ももがしなる。抵抗できないオニラスの顔面を、問答無用で蹴りつけた。
 ぶぎゅえ、とかよく分からない呻き声と、口に入っていたレモンの果汁が飛び出す。オニラスはサッカーボールよろしく斜め上へと吹き飛んでいった。ゆうに五十メートルは飛んでいる。
 そして、背の高いビルの屋上を越えたとき――爆発した。
「え……?」
 文字通りの意味だ。オニラスの身体はダイナマイトだったかのように、爆散して消え失せたのである。
 一連の流れが全くもって飲み込めないシオン。これはドラマか何かの撮影ではないかと感じるほどに現実離れしていた。
「はー、あたしもバカみたい。あんなモブにマジギレしちゃった」
 目を白黒させるシオンをよそに、レモンハートは腰に手を当てて首を回している。
 騒動は終息した――シオンはそう理解した。途端に、安堵したせいか身体的な疲労と内臓の痛みが再び襲ってくる。
「ぅぐっ……げほっ……!」
 潰れた胃でわずかに残っていた胃液をゴポリと吐き出した。腹部でぐるぐると渦巻く痛みと嘔吐間で意識がぐらついたとき、肩に手が添えられる。
「おねーさん、これ食べて。かじるだけでもいいから」
 視界には黄色い果実が映っていた。小さく、薄く切られたレモン。はっきりと聞こえた声に言われるがまま、シオンはそのレモンを口に含んだ。
「んんっ……すっぱい……!」
「そりゃレモンだし」
 突っ込みを返されたシオンは、されるがままにレモンをそのまま飲み込む。
 すると、身体の重さがわずかに和らいでいることに気づいた。腹部の痛みまで次第に引いていくようだった。
 呆然としていると、レモンハートがいきなりシオンのむき出しの腹を撫でまわした。
「ぅひゃっ!?」
 少しひんやりとした手だったので、シオンはくすぐったくて変な悲鳴をあげてしまう。
「うわっ、あばら二本折れてるじゃん。ていうか胃とかもグチャってたっぽいんだけど。あたしならともかく……おねーさんってホントに普通の人?」
 疑いの目を向けてきたので、シオンは思わず目を逸らしてしまった。
 口をつぐんだ彼女の腹部から手を放したレモンハートは、その場に座り込んだ。片膝を立てた態勢でちょっと行儀悪いが、彼女の風格だととても似合っている。
「まー、詳しくは聞かないけど。いろいろあるだろうし、お互い」
 へへ、とレモンハートは微笑んだ。なんてことはない、女の子らしい表情だった。
「あ、あの……レモンハートさん?」
「なに?」
「……果汁系戦士って、なんですか?」
「分かんない」
 即答である。
「いや、ほんと分かんないの。急にこんな力を持っちゃってさ。意味不明」
「分からないまま戦っているの?」
「あいつらマジうざいんだよね。悪さしていると分かっちゃうんだわ。なんかこう、頭にキーンって来るの。ほんとやめてほしい」
 どうやら、この少女は正義感というものをほとんど持ち合わせていないらしい。それでも助けられたのは事実だ。
 シオンは背中を預けた状態から背筋を伸ばし、頭を下げる。まず、言うべきことがあった。
「……ありがとうございました」
「えっ? いや、いやいや、別にいいって。あたしが勝手にやったことだから」
 礼を言われることに慣れていないのだろう。 手をぱたぱたと振って慌てているレモンハートは、頬を赤くしていた。
 あー、と少女は頬を掻きながら、
「多分そろそろ人が戻ってくるかも。おねーさんも離れた方がいいんじゃないの」
「そう、ですね……」
「さっきレモン食べたでしょ? さすがに一日で骨までは治らないけど、二、三日すれば全快すると思うから」
 少女のレモンは、劇的な治療薬であるらしい。実際、腹部の鈍痛や吐き気がかなり軽くなっていた。怪物に食べさせた後に爆発していたのは気になるのだが――
 さて、と呟きながらレモンハートが立ち上がる。シオンはぴくり、と肩を震わせた。
「もしかして、記憶を消すんですか?」
「……へ?」
 首をかしげるレモンハート。
 アンチレジストは当然、一般人には知られていない組織だ。人妖の存在もそうである。もし知ってしまったとしたら、どうなるか。
 シオンは詳しく知らないが、力になる人物なら招き入れるし、役に立たないと判断されれば記憶を操作する――と噂されている。 
「あなたからすれば私は一般人のはずです。秘密を知ったからにはそれ相応の――」
「あ、あは、あっはははははははははははは!」
 突然、レモンハートは腹を抱えて爆笑し始めた。
 真剣に聞いていたのに、とシオンは少しむっとする。
「どうして笑うんですか!」
「いや、いやゴメン。だって、あいつと同じこと言うから」
 レモンハートは目じりに浮かんだ涙をぬぐっている。
「それなんの作品? アニメとか映画で見た? あはっ、それフィクションだから。んなめんどいことやんないって――でもあいつならやってそう。無意味に」
 めんどい、の一言で片づけられてしまった。あまりにもざっくりとした返答だったので、シオンも言い返せなくなってしまう。
「それにさ、今日みたいなこと話したって、誰も信じないっしょ」
 あっけらかんとしているレモンハートは、遠くで鳴っているサイレンに反応した。
「あ、マジでそろそろ行かなきゃ」
 背中を向けかけた黄色い少女に、シオンは慌てて声を張り上げる。
「ま、待って!」
「ええー? 今度は何?」
「また、会えますか?」
 思わずそう尋ねていた。
 もう少し少女と話をしたかった。こんな数分だけの関係にしたくない――シオンは純粋に、レモンハートと繋がりを持ちたいと感じているのだった。
 目をぱちくりさせていたレモンハートは、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「えーっと、あたしが出てくるってことはさ。あんま良くないんだよね。怪人が暴れてるってことだから」
 んー、と少女はわずかに考えてから、
「じゃあさ、ピンチになったら名前呼んでくれる? あたしの顔を思い浮かべながら。そしたら飛んでいくよ」
 自信に満ち溢れた声と、屈託のない笑顔。
 安心させるための見栄とか、嘘とか、そんなものじゃなかった。レモンハートは紛れもない事実を語っている。
 すぐに駆けつけられるだけの力を持っているのだ。だって彼女は、果汁系戦士なのだから。
「あ、ほんっとーにどうしようもない時じゃないとダメだから。掃除を手伝って~、とかはナシ」
「あははっ、私の恰好、何に見えます?」
 シオンは、足を少し震わせながらも立ち上がった。そこまで回復していることに驚きつつも、腕を広げる。
 別にメイドという職業についているわけではないのだが、レモンハートは納得したようだった。
「そっか、掃除得意そう。それに、おねーさんすっごい強いみたいだし、心配ないか」
「あと、私の名前はシオンです。如月シオン」
 名乗りながら手を差し伸べると、レモンハートはひんやりとした手で握り返してきた。
「ん。なんか楽しかったよ、おねーさん」
 名前を知っても、少女の呼び方は変わらなかった。その呼び方がなんだか気に入っているようにさえ見える。
 サイレンの音が次第に大きくなってきた。その音は別れを告げる報せのようにも聞こえて、シオンは胸の奥にちくりとした痛みを覚える。
「それじゃあね、バイバイ」
 手を解いたレモンハートは、背中を向けて駆け出して行った。途中、ぐっと両膝を曲げたかと思うと、トランポリンでも踏んだかのように驚異的なジャンプを行った。
 電柱やらビルの窓の淵やらで器用に足をかけ、どんどん上へと登っていく。
「わぁ……」
 それこそ、映画で見るような光景だった。シオンはどこか恍惚とした表情でそれを見送っている。
 やがて黄色い少女の姿が見えなくなると、耳元で雑音が鳴り始めた。
『――さん? シオンさん!』
 オペレーターの声だ。今のままで、本部との交信がストップしていたのだった。
「あ、は、はい!」
『ああ、よかった、無事なのですね。急にシオンさんの声が聞こえなくなってしまって。それに、いつのまにか不審な反応も消えています。何があったのですか?』
 インカムを押さえつつ、シオンはレモンハートが去っていった方角を見上げる。
 実際に調査を行うという任務に就いている以上、経緯を報告するのは義務だ。起きたこと、出会ったもの――隅々までをボスであるファーザーに共有しなければならない。
 組織の一員として判断を問われるべき事項であるが、シオンの心情はどこか余裕さえ見せていた。
「いえ、人妖関係のものは見つかっていません。ここは電気街ですし、そういったものが反応しただけけではないでしょうか」
 隠す、などという考えは持っていない。命を助けてくれた少女を『売る』なんて、するわけがない。
『なるほど、確かにその可能性も否定できませんね。念のためもう少しだけ調査をお願いします。今後については改めて連絡しますので』
「了解です」
 頷いてから、インカムの通信を一時的にオフにする。
 再び、黄色い少女が去った先に視線を向けた。
『怪人』と呼ばれていた存在、アンチレジストが処理している『人妖』。世界には、自分たちの知らないところで何かが蔓延っている。組織だけでは解決できないようなこと、いや、人間だけではどうにもならないことが起きるかもしれない。
 そんなとき、黄色い少女は――果汁係戦士は来てくれるだろうか。
 今日はいろんなことがありすぎた。あまりにも怒涛だったので無理やり付いていくしかなかったし、とにかく喉が渇いている。
「ん……レモンって、紅茶の香りが消えちゃうんですよね……」
 サイレンはすぐそこまでやってきている。シオンは自分のコートを拾おうと、そちらへ歩を進めた。


 C地区で何やら騒ぎがあった日の翌週。
 別に大きなニュースでもなかった。酔っぱらいが喧嘩したとか、電子機器が誤作動で一斉に緊急地震速報と流したとか、あまり気にならない程度の出来事だったらしい。
 今日は休日ということもあって、そんな騒ぎなど遥か過去であるかのように、人でごった返していた。
「あ、ほらほらあの看板! 仮面マスクナイトの新作映画!」
「あー、あれね」
 同年代であろう少女二人が肩を並べて歩いている。一人は見るからにうきうきとした足取りで、もう一人はそれに付き添っているという雰囲気だった。
「来月よ来月! ずっと楽しみにしてたの! もう予告編だって百回くらい見た! 劇場版だけの変身ポーズがあって、それがこう、右手がこの辺りから」
「だーーー! こんなところで変身ポーズ取らないでよ、恥ずかしいでしょ!」
「わたしは恥ずかしくないわ!」
「あたしが恥ずかしいんだよ! 横にいるあたしの身になってみろっつーの――」
 ふと、一人の少女は周囲の視線が、自分たちではない別のところへ集中していることに気づいた。

 パシャパシャとシャッター音が響いていた。一般的なスマートフォンや、明らかにその筋の人間であろうカメラを持った人たち。
 たくさんのカメラが向けられている先には、二人のメイドが立っている。それぞれ、細部が違うメイド服を着ていた。
 左にいる黒髪のメイドは慣れているのか、向けられたカメラに笑顔を振りまいていた。手にチラシを持っているから、この辺りでバイトでもしているのだろう。
 対して右にいる金髪のメイドは、あたふたしているものの、隣にいる黒髪メイドと写真を撮られて嬉しそうだ。
 ツインテールが煌びやかで、スタイルも見惚れてしまうほど洗練されている。黒髪のメイドよりも視線を集めているようだった。

「なんだ、普通のメイド服もあるんじゃん」
 彼女たちを眺めている少女は、ぽつりと小さく呟いた。
「どしたの? 知ってる人でもいた?」
「――ん? あー、うん」
「声かけてきたら? 約束までにはまだ時間あるし」
「いや、いいよ」
「いいの?」
「いいの。ほら、さっさと行くよ」
 友人の肩を押しながら、少女は歩みを再開する。
 そうしながらもう一度だけ金髪のメイドへと視線を向けた。あちらも視線に気づいたようだったが、すぐに周りのカメラへと顔を戻す。
「ま、そりゃ気づかないよね」
 少女は微笑みながら、その場を歩き去っていった。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。