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花びらたち 4-2

 午後の暖かい陽射しの下、山道を馬車がゆっくりと進んでいる。二頭の馬が引いている大きな客室の中には四人の女性が、二人ずつ向かい合うように座っている。
 赤い髪の少女――チューリップが銀髪の女性に尋ねる。
「コスモス様、もっとこう、豪華な感じにしないんですか?」
「パレードならともかく、遠征で目立つのはちょっとね」
 リーフガーデン国の王妃コスモスは柔らかい笑みをたたえながら答えた。彼女は城で常に身に着けているようなドレスではなく、さりとて法衣でもない普段着のような格好をしていた。
「考えてもみなさいな。コスモス様が城を離れているということが知られたらどうなります?」
 チューリップの隣に座っている真っ白い法衣を着たマーガレットがため息を吐いた。大きな帽子は膝の上に置かれている。
「ああそっかー。サインとかいっぱい求められちゃうし、移動しづらいね」
「あなたは王妃をスターか何かと勘違いしていません? まあいいですわ。国を信用していない人たちなら何をしてきます?」
 あら、とコスモスが割って入る。
「遠慮しなくていいのよ? 私を嫌いでどうにかしてやりたいって考えてる人がいるって言えばいいのに」
 そう言われましても、とマーガレットは窮屈そうに苦笑いを浮かべた。どことなく体も固い。目の前に王妃が座っているのだから無理もないだろう。
 周知の事実ではあるがコスモスの性格は気さくで、まるで友人同士のように接してくる。それは国の魔法使いだろうが民だろうが、性別や人種さえ関係ない。
「どうしてみんなすぐに仲良くできないのかな」
「生きる者が全てチューリップさんのようであれば、統一は簡単なのですが」
 瞑想するように目を閉じている黒髪の少女がぽつりと呟く。黒い鞘に納められた刀を抱いている。
「カトレアさん、チューリップは単純すぎるだけですわ。見知らぬ他人に一つしかないパンを半分に分けてあげるタイプです」
「丸ごと与えるよりそちらの方が理想的です。共に生きるという意思表示になりますから」
「本人はきっとそこまで深く考えていませんわよ」
「え? 一人で食べるよりみんなで食べた方がおいしいでしょ?」
「ほら」
 くすり、とカトレアが口元をほころばせた。普段無表情である彼女がこうして感情を表すこと自体珍しいことであったが、共に過ごすことによって幾分柔らかくなってきたようである。
 その様子を眺めていた王妃が口を開く。
「こんなときに突然だけど、あなた達を一つのチームとして固定しようと考えてるの」
 注目が集まる。カトレアも目を開いていた。
 国の魔法使いは訓練を始めた人間も含めれば百人を超えている。他の地域から依頼を受けると、所属する魔法使いの属性を適材適所としてそれぞれに任務を与えていく。鉱山などで大きな事故が起きたのであれば治療士を、植物型の魔獣が現れたのなら炎属性を、といった具合だ。
「これはまだ先の話だけど、能力の高い子たちをそれぞれチーム編成しようと思って。サクラとも相談したのだけど、あなたたち三人がその指針になってくれれば」
 恩師の名前が出たとき、チューリップの背筋が自然と伸びた。
 極端な話、部隊編成の簡略化を狙ったものだった。実力をつけた者も増えてきたため、依頼を受けてから派遣する人物を選定していたのでは時間がかかる。であれば、前衛や後衛などのバランスも考慮したメンバーをあらかじめ構成しておけば手間も省ける。複数の人数を一つとして扱うのだ。
「マーガレットが両属性だし、カトレアも特殊でちょっと偏ってるけど、相性は悪くないと思うわ。仲が良いし。ねえ?」
 顔を窺うようにして隣のカトレアに頷きかけると、黒き戦器士は表情を隠すようにしてわずかに俯いた。
「あら、照れちゃって」
「それって、任務のときはいつも一緒ってことですか?」
 チューリップの問いに頷きが返ってくる。
「そうよ。魔力の属性はもとより、『絆』に勝る強さというものはなかなかないわね」
 もちろん人間関係についても留意すべきだが、その点はコスモスもほぼ問題ないだろうという信頼を置いているようだった。
「ゴーレム事件や前回の魔獣討伐での一件はよく聞いているわ。だから今回、あなた達を直接見てみることにしたの」
 なるほど、とマーガレットが頷いている。言うなればこれはテストのようなもので、三人が護衛役に直接指名された理由にも納得がいく。自分たちの行動如何で魔法使いたちの体制が決定付けるとなると、責任重大だ。
「そんなに身構えなくてもいいのよ? 今回はあくまで私のお供だから」
 とはいえ現在向かっている場所は国の影響をあまり受けていない地域だ。リーフガーデン自体が異様な成長速度で頭角を現した国だし、どこからどこまでが領地なのかまだはっきりしていない部分がある。
 むしろ、コスモス王妃が地位を獲得する以前は人間と亜人の二種類で分け隔てられていたといっても過言ではない。今でこそ城や町の中では亜人も暮らしているが、それもほんの一部だ。
「犬族って頑固者が多いって、ルルが言ってました」
 次第に木々が生い茂っていく景色を一瞥して、チューリップが言った。
 これから、コスモスは犬族の族長と対話をすることになっている。犬族を傘下に入れるための重要な話し合いだ。こちらから申し出たことなので、犬族側の条件を全て呑んだうえでのこの旅路であった。
「コスモス様、今回限りでわたくしたちを見定めるのですか?」
「何も起きなければそれでいいの。でも、魔獣を倒すことだけが魔法使いのお仕事じゃないのよ?」
 この護衛任務の一環で彼女は何を見ようとしているのか。にこりした笑みを崩さない王妃の真意を、マーガレットは図りかねているようで眉をひそめている。
 ふと、カトレアが閉じていた目を開いた。ほぼ同時に二頭の馬がけたたましい鳴き声をあげ、客車がつんのめるようにして停止した。
「――ッ!」
 チューリップが真っ先に外へ飛び出す。
 視界の先では目的地である集落へと続く林道が続いているが、行く手を遮るようにして幾人かの亜人が身構えていた。姿は人間そのものだが、犬の耳や尻尾が生えている。男も女も、合わせて十人前後。畑仕事で使う鎌や鍬を手にしていた。
 馬の足が矢で射られていることに気付き、チューリップは思わず叫ぶ。
「なにするの!」
「チューリップ! 上です!」
 幼なじみの声が鼓膜を叩き、とっさに拳に魔力を込めた。
 やや斜め上から殺気が飛んでくる。矢だった。並の動体視力では避けることさえ難しいであろうその攻撃を、赤髪の拳士は腕を振るだけで弾き飛ばす。刃同士がぶつかるような音の後、一本の矢が地面へと落下した。
 背の高い木の上に、弓を構えた犬族の女性。矢筒に手を伸ばしながら、地上の同胞たちに声を飛ばす。
「ひるむな! 仇をとるんだ!」
 突き動かされるようにして犬族の集団が突撃を開始する。こちらの言い分を聞かせる余裕もない。
 マーガレットとカトレアも外に出たが、前線には出ない。
「二人は馬車を守って。チューリップ、あまり傷つけないように無力化してくれる?」
「……はい!」
 王妃の命を受けて拳士は駆け出す。
 先頭に踊り出てきた男は鍬を持っていた。ただがむしゃらに振り下ろそうとする彼に足払いをかける。手から離れた得物を掴み取りつつ、続いて向かってくる亜人たちを視界に捉える。
 左右から草刈鎌を持った若い女が二人。表情に若干恐怖の色が見えるが、それよりも目の前にいる敵対者を倒さねばという使命感が窺えた。
 右の女の足元へと鍬を投げつける。小さく悲鳴をあげて動きを止めた彼女の至近距離まで一息で接近し、ほっそりとした胴体へと拳を打ち込んだ。
「かはっ!?」
 両目が見開かれて瞳孔が縮小していく。
 やわらかな鳩尾にめり込んだ拳は横隔膜を押し上げて一瞬だけ呼吸を停止させた。女の体から力が抜けていき、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
「この……!」
 もう一人の女は、それこそ草を刈るようにして鎌を横に薙いだ。なんの戦闘技術もない素人同然の攻撃。チューリップはわずかに体を反らすだけで回避すると、すぐさま懐に飛び込んで肘を打ち込む。
「ぐっ……!」
 体をくの字に折り曲げながら鎌を落とし、地面に倒れ伏す。
 視線を上へと向ける。弓矢を装備していた女は馬車めがけて矢を放っているが、黒髪の戦器士が刀を振って弾き飛ばしていた。すでにいくつもの矢が転がっている。
 しかし解せないのはこの襲撃である。あちらが裏切った? 自分たちの土地へ誘い込んで仕留めるつもりだった?
 不自然な状況にチューリップは声を張り上げる。
「族長さんから聞いてないの?」
「話し合いなど罠だろう! 騙されるか!」
 弓矢の女が答えた。今日行われるはずの会合は知っているようだが、まるで信用されていない。
「仇をとるってどういうこと! あたしたちは何もしてない!」
「黙れ! 魔法使いなんてどいつも同じだ!」
 聞く耳さえ持とうとしない。
 詳しい事情は知る由も無いが、同胞が魔法使いに殺されたという事実だけがはっきりと呑みこめた。
 チューリップは歯を噛んだ。いわれのない罪を着させられたからではない。いまだに人間と亜人の溝が深いことが何よりも悔しかった。同じ生を受けたものであるはずなのにどうしてこうも分かり合えないのか。差し伸べた手を振り払われてしまうのでは見も蓋もない。
 仕方ない。今この場には王妃であるコスモスがいるし、危険はなんとしても無力化しなければ。行動が再開された犬族たちを見据えて――
「やめんか!」
 心臓が飛び上がりそうなほどの怒号。思わずびくりと動きを止めてしまったチューリップは、その声の元を視線で辿る。犬族の住人たちもそちらへ顔を向けていた。
 林の奥から現れたのは、体格の大きい男性だった。ぴんと上に伸びた犬の耳と尻尾。周りの若い亜人たちより一回りほど年齢が上のように見えた。
「族長……!」
 弓矢の女が慌てたように地上へと飛び降り、彼の元へ駆け寄っていく。
「ポメラ、お前の独断か」
「は、はい」
「馬鹿者っ!」
 小気味良い音とともに、女――ポメラの体が倒れこむ。族長が彼女の頬を思い切り張り飛ばしたのだ。
「客人になんたる無礼か! 恥を知れ!」
「し、しかし、テリアの……!」
「……お前の無念はよく分かるが、冷静になれ。我々だけではどうにもならんこともある」
 ぐっ、とポメラは口をつぐんで力なく俯く。
 族長は頭を下げている同胞たちの間を進み、見計らったかのようにコスモスが馬車を降りた。カトレアが傍に付こうとしたがそれを手で制している。
 二人はお互い一礼する。
「無礼をお許しください。長のスパニエルと申します」
「リーフガーデンのコスモスです。慌しいようですけど、なにか不都合が?」
 王妃の表情は柔らかいようだったが、チューリップにはどことなく相手にプレッシャーを与えているようにも感じられた。
「申し訳ない。皆、まだ魔法使いの存在に不安を抱いているようで」
「女性の方は『仇をとる』と豪語していましたけど……何が起きました?」
 あくまでこちらのペースを譲らない。
 魔法使いが絡んでいることは間違いない。この地上全土で暮らす人間たちが国と同調しているわけではないから、当然与り知らぬところで事件が発生していることもあるだろう。
 スパニエルは一旦押し黙った後、重々しく口を開いた。
「一人が殺された。耳と尻尾を切り取られている」
 思わず鳥肌が立った。チューリップは己の体を抱く。
「亜人狩りですか」
「ご存知か」
「ええ、耳に入っています。となると犠牲者が増える可能性もあるわけですね」
 亜人狩り。最近亜人たちの間で広まっている、不気味な噂。
 信じたくない話ではあるが、亜人の耳などを高値で買い取る商いが陰で存在する。普通の獣よりも何倍も高く、亜人を狩ることを生業としている者さえいるのだ。
 小さな集落などが被害を受けているが、それでも二人以上は殺されていることが多い。しかもこの先にあるのは犬族の根城とも言うべき場所だ。警戒するのも無理はない。
「心中お察しします。相手が魔法使いであるという確信は?」
「死体を見た。全身が焼け焦げているようだった」
「なるほど。そちらとしては私たちを追い返したいかもしれませんが、このまま見過ごせません」
「……」
 犬族の状況からすればコスモスたちを受け入れられるはずはなかったが、族長はじっと王妃の視線から瞳を逸らさなかった。見定めているような、心の奥を見ようとしているような表情。
 やがて、スパニエルは頭を下げた。
「よろしく頼む」
「族長! 信用するのですか!」
 先ほど張り手を受けたポメラなる女性が駆け寄ってきた。こうして堂々と異を唱えるところからして、彼女自身も犬族の中では地位が高いのかもしれない。
「ポメラ、この者たちは魔法を使ったか?」
「……いえ」
「そういうことだ」
 その言葉だけで弓矢の女は一歩引いた。
 厳密には初手の攻撃で魔法を行使したが、チューリップは自己強化を行わずに応戦していた。魔力を持っていなければ魔法に対して抵抗力が働かない。人間の男性はもちろん、亜人に対して魔法を使うというのは丸腰の相手に剣で戦うも同然だ。
 殺された犬族の住人は体が焼け焦げていたという話だから、正々堂々と応戦したチューリップたちを族長スパニエルは危険ではないと判断したのだろう。よい観察力を持った人物である。
「魔王使いの相手は、魔法使いがします」
 コスモスは振り返って三人の魔法使いたちにそれぞれ視線を送った。答えるようにして頷き返す。
 ふと、馬車での会話をチューリップは思い返した。魔獣を倒すことだけじゃない。時には同じ人間とも戦わなければならない。コスモスはそう言いたかったのではないか。
 とはいえ亜人の体の一部を切断するという残虐な行為を生きる術としているような奴らだ。魔法使いである前に、同じ人間として――命あるものとして許せない。
 赤髪の拳士は拳を握り締め、陽が高く昇っている天を仰いだ。
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花びらたち ★4-1

 どうしてわたしは亜人なのだろう。
 亜人として生まれたことを、犬族の少女テリアは常に不幸だと感じてきた。人間として見られず、純粋な獣としても認められない中途半端な種族。
 コスモスなる人物はリーフガーデンという一つの国をつくりあげ、共存主義とか何とか――難しい言葉は分からないが、とにかくみんな一緒に仲良く暮らすという方針を掲げている。テリアはそれに賛成で今すぐにでも国へ移り住みたいと考えていたが、犬族というのは数が多くてその分派閥も様々。できるだけ関わりあいたくない、と今までどおりの生活を望む声の方が大きい。
「今までどおりったって、人間に避けられてばっかりじゃん」
 彼女自身は直接罵倒されたわけではないが、亜人は時折魔獣と同じような目で見られてきた。魔獣なんて化け物そのものだ。自分たちはちゃんと心を持ってるし、人間と同じように感情を表現する。それなのにどうして差別など受けなければならないのか。
「なんでわたしは亜人なのよ」
 両親を恨んだことがないといえば嘘になる。たとえ性別が女でも人間でなければ魔力を持たない。この世界において魔法が使えない女なんて何の役にも立たない。亜人であればなおさらだ。
 その問題を、国は解決してくれるっていうのに。
 テリアは舌打ちしながら、木の実などを探しつつ森を歩き回った。夕暮れ時で薄暗いが、集落を囲むようにして木々が佇むこの辺りは庭のようなもの。動きやすい服装だから店頭することなんてないし、当然迷うこともない。
 しかし、今日はどうも匂いが気になる。彼女は持ち前の嗅覚でその微妙な違和感を嗅ぎ取っていたが、その時点で既に手遅れだった。
 ばちっ、と弾けるような音。
「あぎッ――!?」
 視界いっぱいに火花が散った。体中に走る痺れるような激痛。木の枝が刺さったとか、そんな生易しいものじゃない。これは物理的な痛みとは違っていた。
 全身が硬直してしまったかのように、テリアは仰向けに倒れこんだ。
「かかった、かかった!」
 少女の声が鼓膜を叩いた。聞き覚えがないし、嗅いだことのない匂い。その事実だけでもテリアには恐怖で満たされた。この辺り一帯は犬族の縄張りで、知らない誰かがいたとすればそれは犬族以外の存在しかあり得ない。
「あっはは、痙攣しちゃってるし口から泡吹いてる」
 背の高い木々と夕暮れの空が映っていた視界に、その知らない存在が顔を覗きこんできた。体は言うことを聞かないものの目だけはしっかりと機能している。
 金髪の少女だった。亜人の特徴である獣の耳もない。これから太陽が強く照り始める季節にふさわしく肌を露出した衣服を纏っている。年頃の娘らしい印象を受けた。
「あっ、い――はっ――」
「あっれー? そんなに痛かった? きゃはっ」
 何が面白いのか、少女は満面の笑みを貼り付けていた。
 彼女が何をしたのか分からない。だがテリアにとって重要な点はそこではなく、なぜこんなことをしたのか、だった。
「にしても結構可愛い顔してるなぁ。やりがいありそう」
 金髪の少女は笑みを一層深くすると、右手に持っていたものを見せつけるようにかざした。
 背筋が凍る。それは見たことがあるし、自宅にも一つ置いてある。剣山のようにギザギザな刃が一直線にならんだ鋸だった。少女には似つかわしくない組み合わせである。
 刃渡りや刃幅はちょうど腕と同じくらいで、大木よりも細い板を切断する際に使うような代物だった。なにか違う点があるとすれば、刃が全体的に赤黒く塗られていることだった。テリアは自慢の嗅覚でその匂いを敏感に嗅ぎ取ってしまい、心臓が止まりそうなほどの恐怖を感じた。
「え、な、なに」
「さーて、どんな声で鳴くのかなー」
 少女は腰を下ろすとおもむろにテリアの髪を掴んで頭を引っ張り上げ、手にしている凶器を耳に近づけた。
 何の躊躇もなく、耳の根元に刃を侵入させる。
「ひゃっ、ぁぎゃあああああぁぁぁ!」
「あはっ、いい声。綺麗に取ってあげるからね」
 肉が削がれる音をテリアは初めて聞いた。耳を切られるなんてことも初めてだった。
「ん~ん~」
 鼻歌さえ歌いながら鋸を動かしている少女は、時折吹き出てくる返り血も気にせず作業を続けた。
「ぃぎっ、あっ、ひぃっ」
 歯を食いしばろうとするものの、最初に雷を直接受けたような感覚のせいで手足の指さえ全く力が入らない。それでも耳をはがされる激痛という信号が脳に伝わってくる。意識さえはっきりしたままだ。
 ぷつりと左から音が消えた。涙に滲む視界には、金髪の少女が犬の耳を持ち上げて嬉しそうに眺めている光景が映っている。
「いい色だし、いい毛並みだね。きっと高く売れるよ」
「あ――あ――」
 手を真っ赤な血で染めた少女の言葉を理解する余裕はなかった。ただ「どうして?」という素朴な疑問だけが頭の中を駆け巡っている。
 なぜこんなことをするのか分からない。なぜそんなに喜びに満ちている顔をしているのか分からない。
「はい次右ね」
「や、やめっ――」
 制止しようとした言葉を甲高い悲鳴が追いかけた。右耳が熱い。直接炎を当てられているかのような。それに伴う痛みはテリアの思考をさらに霞ませていった。
 左耳のときよりも早く処理は終了した。血を浴びた鋸と犬型の耳を二つ手にした少女は満足げに頷いている。
 テリアにはもう何も聞こえない。少し垂れ気味だった特長的な耳が切り取られてしまったから。今自分が呻き声をあげているのかどうかさえ分からない。ただひたすらに痛みが存在するだけ。
「尻尾も貰うけどいいよね? 駄目? あ、もう耳ないから聞いても仕方ないか。あはっ」
 言葉はテリアにはもう届かない。顔を覗きこまれて何事か尋ねられているということだけは把握できた。
 少女は仰向けになっている犬族の少女を足蹴にし、ごろりとうつ伏せにさせた。
 音のない世界が動く。土や落ち葉しか見えない。少女の姿を捉えていないことが、逆に恐怖を募らせた。
 続いて尻尾に激痛。
「ふぎああああぉおおぉぉああぁぁ!?」
 聴覚が奪われているせいなのか、声は滅茶苦茶に歪んでいた。その雄たけびのような悲鳴を聞いて、金髪の少女は腹の底から笑い声をあげる。
「あっははは! なにその声、おっかしー! 尻尾が感じるとこなの?」
 既に血で塗られている鋸は細い尻尾を今にも切断しようとしていた。だがテリアの挙動が面白いと感じ、あえてゆっくりと、確かめるようにしながら刃を動かしていく。
「あっがああああいぃいぃあぁぁぁぁ!」
 尻尾から脳天まで突き抜けるような痛みの信号が、体を弓なりに曲げさせた。腕は一切動いていないにも関わらず、胸から上だけが直角に折れ曲がらんばかりに仰け反っている。
 がくがくと全身を痙攣させながら逆くの字になっているテリアに対し、少女は少しだけ残念そうに息を吐いた。
「んー、尻尾はそうでもないねー。もっと長い方がよかったんだけど」
 ふっ、と尻尾の感覚さえ途切れた。さらにまた脇腹の辺りを蹴られて仰向けに戻される。すると少女は吹き出した。
「ひっどい顔! 涙と涎でぐちゃぐちゃ!」
 もう嫌だ。痛い。痛い。ものすごく痛い。何もかもが痛い。聞こえない。何も聞こえない。
「ほぉ、いへ……!」
「え、なに?」
「ほろ、しへぇ……!」
「……殺してって言ってんの?」
 周りの空気がわずかに冷えた気がした。体がぼろぼろになっていてもその異変をテリアは感じ取っていた。
 いつの間にか、少女は狂気に満ちた笑顔を完全に消している。
「はぁ? なに勝手に殺されたがってんの?」
 怒りを顔に滲ませながらテリアの薄い肌着一枚で守られている腹部を踏みつけた。
「ごほっ! えぐっ――」
 鈍い音をたてて固いブーツの底が突き刺さる。呻き声とともに肺の酸素が叩き出されたうえ、捻るようにして埋められている少女の足がさらに深く沈みこんできた。
 内臓をぐりぐりと軋ませながら押し潰され、こみ上げてきた酸味のある熱い液体が口内を満たす。
「げぼっ! はがっ――はっ――はっ――」
 一切の音が聞こえないテリアにはもはや何もかもが理解できない。なぜひとおもいに殺しくれないのか。どうしてこんな人とは思えない行為ができるのか。
「そんなのあたしが決めることじゃん。あー、聞こえないよね。片方の耳くらい残しとけばよかった」
 さも残念そうにため息を吐く。
 悟った。この少女はまともではない。今更なことではあるが、まともであるはずがない。きっとすぐに殺してはくれないだろう。
 ならば、と全身を力を総動員して口を大きく開く。そこへあろうことか鋸の刃が進入してきた。思わず顎を硬直させる。
 少女が咄嗟に凶器を口内へと差し込んだのである。舌の上へ乗せるように、喉奥に接しないギリギリのところで停止していた。口の周りに傷さえつけていない。
「舌噛んじゃダメだよ。自分から死ぬなんてそんなつまんないことさせないからね」
 にやりと笑う彼女はいつもの表情に戻っていた。この残虐行為をまるで人形と遊んでいるかのように楽しみ、耳と尻尾を手に入れて喜んでいたあの笑顔。
 せめて魔法が使えれば、抵抗なり何なりできたかもしれないのに。そもそも普通の人間であればこんな目に遭うこともなかっただろうに。
 駆け巡る激痛の嵐の中、テリアは再び己の境遇を呪った。
 どうしてわたしは亜人なのだろう。

★魔法少女リューコ その2

 いつもと同じだ。また侵略者が公園に現れた。
「イ、イカ……」
 セーラー服を着た女子中学生、伊野中流子が思わず後ずさる。
 間違いなくイカであった。パニック映画で見るような巨大なモンスター。ここは海でもなければ川でもないが、十本の足は陸の上でも問題なく蠢いている。
「イカとはまたパッとしないヤツが出てきたニャ。もっと敵っぽい敵は出てこないのか」
 隣にいるのは猫の耳と尻尾を生やした、流子とはそう歳の変わらない少女だった。黒のカットソーに太ももを惜しげもなくさらしたデニムパンツ。彼女も異次元の住人だ。
「聞こえてるぞそこの猫! イカを見た目で判断するな!」
 びしっと一本の足がミケに突きつけられる。若い男性の声だった。姿は微妙だが耳にすんなりと入ってくるような聞き取りやすい声だったので、そのギャップに流子はなんとなく好印象を持った。敵だけど。
「ふふん、お前なんかよりもっと怖そうで強そうなヤツを何匹も倒してきたニャ。悪いことは言わないから、さっさとその穴からそっちの世界に帰れニャ」
「ええイ調子に乗るな! お前たちが倒した中には俺の友達もイるんだよ。仇をとってやる!」
「なるほど復讐とはいかにもな理由。イカだけに」
「イイ加減にしろ絞め殺すぞ!」
「残念だけど相手はわたしじゃない。ここにいるリューコが戦うのニャ!」
「……はぁ」
 ため息。これもいつものことだった。ミケは襲来する侵略者を煽りに煽った挙句、自らは戦わず人任せにするのだ。実際まともに戦えるのは本来ミケの物であったはずの『力』を受け取った流子だけなのだから仕方ない。全然納得はできないが。
「貴様カ同胞を葬ったとイう魔法少女は。相手にとって不足なし。今こそ無念を晴らす時だ」
 巨大イカは白く透明感のある十本の足の内、四本で立っている。残り六本はうねうねと気持ち悪い動きを見せつけながら広げていた。触手と言った方がいいかもしれない。
「返り討ちにしてやるニャ。リューコ、変身ニャ!」
 むっ、と流子の表情が険しくなる。確かに何度も戦ってきたが変身だけはいまだに躊躇してしまう。漫画のように恥ずかしいセリフを言い放つわけでもないのだが……
 拳を握り締めているミケを前にして、流子は目を固く閉じた。すぐ近くで敵が立っているにも関わらず、両腕をだらりと下げて完全に無防備な状態を晒す。
「ニャァー!」
 気合が入った息を吐きながら、ミケが引き絞った腕を勢いよく突き出した。
 狙いは流子の腹。セーラー服の中央に小さな拳が叩き込まれる。
「うっ――!」
「……あれ?」
 今の一撃は躊躇もなにもないパンチだったはずが、流子は軽く呻いただけだった。これにはミケ本人も頭に疑問符を浮かべている。なにより拳に伝わってくる感触がいつもとは違っていた。
「こらリューコ、力を入れちゃダメニャ」
「入れてないよ!」
「嘘吐くニャ! じゃあニャんで一ミリもめり込まニャいの? まるで分厚い木の板を――まさか!」
 はっとしたミケは慌てて流子のセーラー服に手をかけ、がばっと捲り上げた。「ひゃっ」と小さな悲鳴。可愛らしいピンクのブラジャーが覗いているが、そんなところが重要ではない。
「こ、これは……!」
 流子のほっそりとした腹に――縦横に割れた腹筋が存在していた。ガチガチに鍛えたようなくっきりとしたものではないが、それでも他の女子中学生とは一線を画している。
「ちょっと、お腹冷えちゃうでしょ!」
「そうか、自然と腹筋が鍛えられてしまったということかニャ! これは盲点! 変身キーそのものが変身を阻害する要因になってしまうとは!」
 魔法少女に変身するためのプロセスには『嘔吐』が必要なのだ。汚物までいかず胃液だけでもセーフで、ミケに本気で殴られることによって変身していた。が、いつのまにか腹筋がとんでもなく丈夫になってしまっていたようだ。
「もぉ~! 恥ずかしいってば!」
 流子は頬を染めながら服を下ろした。こんなの同級生の友だちに見せられない。体育の時間なんかはびくびくしっぱなしだ。着替えないで済むよう最初から体操服を着てやり過ごしているが……
「これから夏になるっていうのに……プールとかどうしたらいいのよ」
「いやしかし、体はほっそいのに腹筋だけこうもたくましいというのは――エロいニャ」
「エロくないし!」
「でもこのままじゃまずいニャ。変身できなきゃ戦えニャい……これがお約束の変身不能ピンチってやつかニャー!」
「なんか違うと思うけど」
「さっきカら何をやってイるんだ貴様らぁ!」
 しびれを切らした巨大イカが触手を振るってきた。ミケが咄嗟に流子の体を抱きしめて転がるようにして横へ避けると、振り下ろされた白い触手が地面を抉った。軟体動物――と言っていいのかどうか分からないが、その触手は地面をへこませるほどの強度を持ち合わせているようだ。
「むむ……リューコ、こうニャったら仕方ニャい。イカの攻撃を利用するニャ」
「……それってもしかして」
 ミケは流子を支えながら立ち上がるや否や、彼女の体をどんと巨大イカへと突き飛ばす。
「イカ! お前の仲間を想う気持ちには感服したニャ! お詫びに一発殴らせてやるニャ!」
「ミ、ミケぇ……!」
 案の定だった。ミケは己の腕力で吐かせることができないと知ると、何倍も体が大きな巨大イカを頼ることにしたのである。とはいえ地面を抉りぬくほどの威力を見せつけられているのになんという非情さか。
「ほほう面白イ。では遠慮なく」
「待って待って待っ――」
 流子の太ももほどの太さがある触手が鞭にようにしなる。空気を切るような音が走ったかと思うと、流子の顔をへとビンタするように叩きつけられた。
「ぅぶっ!」
 視界が強制的にスライドした。脳みそがぐらりと揺れる。一瞬の浮遊感の後、地面へと無様に倒れこんだ。
「うぅ、く――」
 頬がびりびりと痛み、真っ赤に腫れていた。殴られたことで口の中を切ってしまったらしく、鉄の味が広がっている。
「って違ーう! 女の子の顔をぶっ叩くとかお前それでも男かニャ!?」
「何なんだ一体! 殴れと言っただろ!」
「顔じゃなくて腹ニャ! ボディボディ! もっかいやれニャ!」
 冗談じゃない。さっきの一撃でも視界が一瞬真っ暗になるほどの威力だったのに、腹部に受けたらそれこそ嘔吐どころじゃすまないかもしれない。
「もうやだぁ! 痛いのはもうやだ!」
「リューコ、変身しないと二人ともただ殺されるだけニャ。そうなったら誰が人類を守るニャ?」
「うぅ……そんなこと言ったって」
「わたしはもう故郷で起きた出来事を繰り返したくない。本来はわたしが持って戦うべき力だったけど……今はリューコにしかできないニャ!」
 ふと記憶が蘇る。初めて変身した日――ミケとその友だちが巨大なクラゲと戦っていたときのこと。二人ともボロボロになるまで抵抗して、挙句の果てに友だちの方は無残にも体を引きちぎられてしまった。
 もし、自分の友だちだったら? 家族だったら? 想像するだけでも怖気が走る。そんなこと絶対にあってはならない。
 頬に痛みを感じながらも、流子はゆっくりと立ち上がる。
「リューコ……」
 ミケの潤んだ声にぎゅっと拳を握り締める。そうだ、やるしかないのだ。確かに辛いと感じたこともあったが、何度も侵略者を撃退してきた。そう簡単に諦めてなるものか。
「話は済んだカ?」
 巨大イカがその巨体を近づけてくる。まるで大木のような敵を前にして、流子は小さく言葉を紡いだ。
「……殴って」
「何だって?」
「あたしのお腹、思いっきり殴って!」
 大きく叫びながらセーラー服を捲り上げ、見事に鍛えられた腹筋を見せつけるようにして晒した。恥ずかしいなどと言ってられない。とにかく変身しなくては。
「そうニャ! ゲロ吐くくらいの威力でよろしく頼むニャ!」
「どうしてそう殴られたがるんだ。怪しイぞ」
 まずい。巨大イカは『嘔吐』が変身キーであることを知らないわけだが、いくらなんでも露骨すぎたか。
「こんな可愛い女子中学生が腹を出して懇願してるのに……! 手を出さないとはお前それでも男かニャ!?」
 滅茶苦茶な言い草である。しかし最低胃液でも吐かないと変身すらできないから、流子としてもなりふり構ってはいられない。
「お願いだから……! 一回だけでいいの。げぇーってなるくらい、お腹殴ってぇ!」
「ぬ、ぬうう! 駄目だ! なんだか嫌な予感がするカら駄目だ!」
 誘惑に打ち勝った巨大イカは触手で殴るのではなく、流子の両足に絡みつかせて持ち上げた。
「わっ、きゃあああ!」
「代わりにこうしてくれる」
 逆さまにぶら下げられた状態でぶんぶんと揺さぶられ、視界がさらに激しく振動した。さながら絶叫マシンに突然乗せられたような感覚だった。
「ひああああっ! や、やめっ――むぐっ」
 こんなに全身を揺らされてはたらまない。腹の底からこみあげてくる感覚を覚え、思わず口元を押さえた。
「まずイ!」
 その様子を見て動揺したら巨大イカは流子の両足を解放し、すぐさま首を絞めつけた。
「ぐぇっ――?」
 流子の両目が大きく見開かれ、口から舌が突き出る。首を拘束されたことで逆さまから元の状態へと戻ったが、以前として触手にぶら下がったままだ。
 ぎりぎりと音をたてながら絞められている。すぐそこまで出かかっていたモノがせき止められてしまった。呼吸もできず、可愛らしい顔が次第に紅潮していく。
「やめろニャー! それだと吐けないだろー!」
 折れそうなほど絞めつけられているのにそちらを心配しているミケ。文句を飛ばす余裕はない。触手を外そうと試みるがビクともせず、両足がじたばたともがくように振り乱れるだけだった。
「げっ――ぅ――ぇ――」
 今にも意識が消え入りそうで視界もピンボケを起こしたように霞んでいく。今頃になって、自分が死と隣り合わせにある立場――魔法少女だったのだということを理解した。
 しかしもう遅い。このままここで、死ぬ。
 なにかが千切れる音が聞こえた。自分の首の音かと思ってぞっとしたが、そうではなかった。こうしてまだ目が見えているし生きている。
 何が起こったのか把握する前に、流子の体は地面に落下する寸前、何者かによって抱きかかえられていた。
「げほっげほっ――! あ――?」
 激しく咳き込みながら酸素を取り込む。少しずつ回復していく視界の中で、自分をお姫様抱っこの形で支えているその人物を見た。
 ミケではない。顔は真っ白な仮面で全て覆われているから表情などは一切分からない。両目の部分だけ大きめの赤いレンズが埋め込まれている。髪はやや茶色がかったショートで、バイク乗りのような革ツナギを全身に着込んでいる。背丈や抱えられている腕の感触からして男性であることがすぐに分かった。
 かなり異様な出で立ちだったが、流子は無条件に安堵していた。なんとなく懐かしい感覚に満たされていく気がしたのだ。
「ぐわあああ! お、俺の腕がぁぁ!」
 流子は呼吸を整えながら巨大イカへ視線を移す。さっきまで首を絞めていたはずの触手が半分ほどの長さになっていた。引きちぎられたような痕が残っていて、その先は地面に転がっている。
「だ、誰ニャお前は? 侵略者に傷を負わせるなんて普通の人間じゃないニャ!」
 元々は異次元の住人であるミケでさえも戸惑っていた。対して仮面の男は軽く彼女を一瞥しただけで何も答えない。
 仮面の男は手をそっと流子の首に添え、撫でるようにして指を走らせた。
 鈍く残っていたはずの痛みが消えていく。暖かい。よく見れば、彼の指が淡く光っていた。どこかで見たことあるようなその光。
「魔法ニャ……!」
 この場にいる誰もが唖然としていた。巨大イカでさえも。
 指は続けてセーラー服まで降りていき、胸の辺りを通過したとき思わず声をあげてしまった。今度は腹部を手の平で撫でた。すると嘔吐しかかっていた気持ち悪さがすぅっと収まっていく。
 治療が終わったのか、流子は地へと下ろされた。自分の足でしっかりと立つことができる。痛みなどはかけらも残っていない。
「あ、ありがとうございます」
 こくりと仮面が小さく頷く。
 よかった、言葉は通じる――と安心したのも束の間。鈍い音が鼓膜に響いたかと思うと、突然体が浮き上がる感覚に襲われた。
「え……?」
 上からではなく下から持ち上げられている。自分よりいくらか背が高いはずの仮面の男と、なぜか同じ目の高さで視線を交わしていた。
 体に何か埋まっている。おそるおそるそちらを見ると、胴体に――腹に黒くて太いものが突き刺さっていた。
 目の前にいる仮面の男の腕だった。それが流子の鳩尾を体ごと突き上げている。
「ご、ふっ……!」
 両目が見開かれ、瞳孔が針の先のように収縮した。
 深々と食い込んだ拳が内臓を抉り抜き、胃袋が奇妙な音をたてながらぐにゃりと歪む。ミケから受ける拳なんか比べ物にならない。硬く成長したはずの腹筋があっさりと打ち砕かれ、めり込んだ箇所を中心に全体へ激痛の信号が広がった。
「ぉ……ぉごえええぇぇぇ!」
 ようやく身に起こった事を理解した流子は、せきを切ったように胃液を吐き出した。黄色く濁った液体が溢れんばかりに垂れ落ち、仮面の腕と地面を汚していく。
 続いて流子の体がまばゆく光り輝き、呼吸一つの間に変身が完了していた。
 ピンクと白に彩られたコスチューム。ヘソが見えそうな白いシャツの胸元に大きなリボン。健康的な太ももが晒されたミニスカート。黒のハイソックス。チア部である彼女の『イメージ』を投影した魔法少女としての姿であった。
「変身したニャ! 間違いない、この人は味方ニャ!」
「がはっ、か、ぁはっ――」
 くの字のまま持ち上がり、腹に刺さった腕一本で支えられている流子の体が小刻みに痙攣した。いまだに口からは粘ついた液体が糸を引いている。
「こイつら一体どうなってイるんだ……」
 怒涛の展開についていけない巨大イカは若干引いていた。殴られることを望む少女、それを強要する猫人間、乱入して助けたはずの少女を躊躇いなく殴りつけた仮面の男。唖然とするのも無理はない。
「これで戦えるニャ! さあリューコ!」
 ミケの言葉に反応するようにして、仮面の男は流子の体を支えながら降ろした。とはいえ背中まで貫かんばかりの強烈な一撃を受けたため足に力が入らない。
「ぐぅぅ――かはっ、ぇほっ――」
 横たわった流子は腹を抱えて海老のように丸くなった。咳き込むたびに透明な液体が口から吹き出ている。呼吸もまだ満足に回復せず、顔を苦悶に歪めながら犬のように短く酸素を吸ったり吐いたりしていた。
「はっ。俺は何をぼーっとしてイるのだ。今のうち!」
 状況だけ見れば魔法少女を仕留めるチャンスだった。巨大イカは倒れている流子めがけて触手を振るうが、立ち塞がるようにして仮面の男が前に出てくる。
 太い触手をさも簡単そうに腕で掴み取った。両手を添えながら体をひねり、ジャイアントスイングのように巨大イカを投げ飛ばす。
「ぬわああああ!」
 公園の端まで飛ばされた侵略者がずしんと地面に叩きつけられた。
「すごい、すごすぎるニャ! しかしもう十分ニャよ? あとはリューコが!」
 あくまで流子に戦わせるつもりらしい。
 それが納得いかなかった。流子は腹部のやけつくような痛みに悶えながらも、どうしようもない苛立ちを覚えていた。
 どうしてこの仮面の人が戦わないの? わたしなんかよりずっと強いのに。なんで知らない人にお腹を殴られなきゃいけないの? 吐いてまでわたしが戦わなきゃいけないのはどうして? なんで?
「う、ううぅ――! ううう――!」
 ふつふつを湧き上がる感情に後押しされるように、流子はゆっくりと体を起こす。
「立ち上がったか。しかしそんな状態では満足に戦えまイ。悪イがここで終わりだ!」
 ほぼ同時に体勢を整えた巨大イカが、声を荒げながら突撃してきた。数多くの触手を使ってスピードアップを図っている。距離は一気に縮まってきた。

「うざい! 死ねッ!」
 
 それは八つ当たりだった。怒りは巨大イカではなくミケと仮面の男に対するものだったのだが、あまりに耳障りだったから流子は叫ぶように言い放った。
 視界が一瞬白く染まった。光に満ちたといった方が正しいかもしれない。ミケとおそらく仮面の男でさえも何が起きたのかすぐには把握できなかっただろう。
 力任せに叫んだことで無意識の内に魔力が解き放たれ、侵略者の存在を跡形もなく消し飛ばしてしまったのだ。流子本人としても、気付いたら巨大イカが消えていた――くらいにしか感じられなかった。
「さすがリューコ……叫ぶだけでこんな……恐ろしい潜在能力ニャ」
「なにが潜在能力よ。ふざけないで!」
 怒りをあらわにしながら振り向くと、さすがにミケもびくりと肩を震わせた。対して仮面の男は微動だにしない。
 それが気に入らなかった。彼に詰め寄ろうとしたが、腹部に再び激痛が走った。
「あぐっ……!」
 腹部を押さえながら膝をつくと同時、体が淡い光で覆われていく。水が弾けるような音が響くと光も飛び散り、元のセーラー服姿へと戻っていた。変身が解けたことで上昇していた能力も下がってしまい、鈍く残っていた痛みが強く蘇ってしまったのだ。
「リューコ!」
 横たわってしまった流子に駆け寄ったとき、ミケは異変に気付いた。倒れこむ際に少しだけセーラー服がめくれたのだが、何かが違っていた。
「あれ……? ちょっとごめんニャ」
「あっ……」
 鈍痛のせいで何の抵抗もできず、腹を押さえていた腕ごと制服を捲り上げられる。
「や、やっぱり! うっすら割れてた腹筋が消えてるニャ!」
 言葉通りだった。流子の腹部は歳相応というか――あの目も疑うような腹筋が異常だったのだが――白く滑らかな肌へと変化している。見間違えようがない。
「これはどういうことニャ! そこの変な仮面――あれ? いない?」
 いつの間にか仮面の男はその姿を忽然と消していた。なんの気配もなく。
 ミケは思案する。仮面が使ったのは間違いなく魔法だったが、彼女が知っている『治療魔法』とは少し質が違っていたように思う。
「むむ……あの人は“治した”んじゃなくて、“戻した”ニャ……?」
 聞いたことがある。たとえどんなに損壊した物でも元通りにするという魔法。生き物でも、機械でも、何でも。伝説とまで言われていた魔法だから、ミケ自身もあまり信じてはいなかった。
 つまり、仮面の男はたくましくなった流子の腹筋を突き破ったのではなく、魔法で元の状態に戻したうえで拳をめり込ませたのではないか。でなければボクサーの拳でさえ耐えそうだったあの見事な腹筋を打ち破れるはずがない。
「もぉ……! むかつく、むかつくぅ……!」
 まだ腹の奥底を刺激し続ける痛みを抑えこみながら、流子は毒づいた。
 苛々する。ミケも、仮面の男も、侵略者も、変身することも、腹を殴られたことも、なにもかも。
「素晴らしい。あの仮面さんは変身しやすいように腹筋を柔らかくしてくれたということニャ。なんだろう、いつの日かまた出会う気がする。わたしの第六感がそう囁くニャ」
 これからの変身については安泰だ、とミケは安心するのだった。
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