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花びらたち 5-2

 主人の動きが最近妙であることを、屋敷のメイドであるスミレは気付いていたようだ。マリーゴールドがリーフガーデン国に依頼を送る数日前、どこか妙な動きをしていたらしい。
 例えば日課である紅茶の時間を忘れていたり、雨でもないのに散歩を中止にするといったものだったが、それらは妙とかいうレベルではなく異常と呼んでも過言ではない。マーガレットにも十分理解できた。
「あの人が趣味や娯楽をないがしろにするはずがありません。まったく腹立たしいことですが、姉妹だからこそ分かります」
 この身に同じ血が流れていると思うと全身がむず痒くなるが、逆に確信を持てる。マリーゴールドは子供の頃からそうなのだ。家系の地位や経済力の豊かさも心の促進剤となり、周囲は自分を中心に回っていると思い込んでいる節さえある。
 だから、精霊を召喚するなどという夢物語も信じる信じないの話ではなく、面白そうだからやってみましょう、という遊び感覚で始めたに違いない。その真偽はどうだっていいのだ。
「ここです」
 スミレが足を止めたのは屋敷を囲うように広がっている庭の片隅だった。位置的には建物の裏側であり、美しい緑が広がっている芝生の一画。マーガレットはすぐに気付く。
「地下室ですの?」
「はい。最近お嬢さまが出入りしていて……」
「なるほど。隠れてなにか行うにはもってこいですわね」
 マーガレットは杖で芝生を二、三度軽く小突いた。すると岩がこすれるような音が鳴り響き、芝生の一画が落とし穴のごとく地中へと傾いた。地下への入り口である。
 真昼時であるにもかかわらずその奥は塗りつぶしたような闇が続いており、少し急斜面のようになっている階段もほとんど見えない。
「ありがとうスミレ。ここからはわたくしだけで」
「ダメですよ、危険です」
「もとより覚悟の上ですわ。原因解明のためにここへ来たのですから」
「いえ、そうじゃなくて。いくらなんでも一人は危ないですよ。わたしも行きます」
 最初からそのつもりだったらしい。マーガレットはどう諦めさせようかと考えた。自分は国に所属している魔法使いとして訪れているのに対し、スミレはこの町の住人、一般人なのである。
「あなたを巻き込むわけにはいきません。それに、主人へ反抗することになるのでは?」
「わたしがお仕えしているのはこの家ではなく、マーガレットさまただ一人ですから。今も変わりません」
 息を呑んで思わず周りを見渡す。にこりと微笑む同い年の少女は、屋敷の者に聞かれては大変まずい言葉であったが、微塵も気にしていないようだった。いや、彼女の性格上おそらく天然ゆえの発言だろう。
 二人しかいないことを改めて確認してから、マーガレットはため息をつく。
「……分かりましたわ。無理だけはなさらないように」
 地下の奥に何があるのかは不明だが、もし例の件が真実ならそ個人レベルでの問題にとどまらない。だが精霊召喚とは伝説上の魔法であり、マーガレット自身信じてはいない。
 いずれにせよ、マリーゴールドがメイドたちの目を盗んで何かしら行動しているのは確実なのだ。
 杖の先端に手をかざすと、取り付けられている魔結晶に淡い光が灯った。犬族の里で使用した周囲を照らす石である。
「わ、便利ですね。それ」
「魔法で光をつくらない分魔力の節約になります。わたくしが先に行きますので――そんな顔をしないで。あなたは国に所属していない一般人なのですよ?」
 もしスミレに危害が加わるようなことがあれば、それは国の魔法使いとして職務怠慢といわざるを得ない。これだけは譲るつもりはなかった。
 可愛らしい顔を不安の色で染めたメイドに微笑みを返しながら、マーガレットは地下への階段へと足を踏み入れる。足先が急に冷えたような気がした。
 杖の光で前を照らしつつ、壁に手を添えながら進んでいく。二人の足音が妙に高く響いている。この先には五十人ほどの大人や子供が収容できる広まったスペースがあるはずだ。
「マーガレットさまは、ここがつくられた理由をご存知ですか?」
「ええ。思い出すのも億劫な言い分でしたが」
 子供の頃に直接聞いたことがある。マリーゴールドいわく、
――星が落ちてきたら危ないじゃない?
 だそうだ。馬鹿馬鹿しい。
「面白いですよね。星って落ちてくるものなんでしょうか」
「あり得ません。星は膨大な魔力の塊とされています。落ちるより先に消えてなくなると考えるのが自然でしょうに」
 太陽の輝きが強すぎて日中では確認できないが、星の群れは常に空の彼方に浮遊している。魔力が枯れてしまえば消滅するだけ。実際、消える瞬間も確認されているのだ。
「でも、世界はまだまだ分からないことだらけですよ?」
「なにをカトレアさんみたいな――わたくしの友人もそのようなことを仰っていますわ。わたくしには理解不能です」
「もっとロマンを感じましょうよ。だから昔から、夢がない子だ、なんて言われるんです」
 むっ、と治療士は唇を尖らせた。気にしているのに。
「そんな話は後です。もうすぐ着きますわよ」
 ゆっくりと歩を進めていたので長く感じたが、実際それほどの時間は経っていない。屋敷の廊下よりも短かっただろう。
 杖の光が両端の壁を照らさなくなった。階段も終わりを告げており、足元は平らになっている。人が大勢入る空間が目の前に広がっているはずだが、ほぼ真っ暗のため何も分からない。
 まずは部屋全体を把握しなくては。マーガレットは中央辺りまで進んでから光を施そうと考え、再び歩を進めた。
 こつ、と靴が音をたてると同時に、地が白く発光し始めた。
「スミレ、下がって!」
 横から飛び出さないように腕で制しつつ、マーガレットは状況を素早く確認する。
 巨大な魔方陣が描いてあった。この広いスペースの床だけではない。壁面にも、天井にも。手に持つ杖よりも強く発光しており、それ自体が部屋全体を照らしている。
「なんですの、これは……」
 ただしこれほどの規模は見たことがない。魔方陣はそれこそ、マーガレットさえも及びがつかないようなを最上級魔法を行使するときに用いるものだ。一般的には使わない技術である。
「マーガレットさま!」
 スミレの叫ぶのような声に振り向くと同時、メイド服が体ごと飛び込んできた。押し倒されるような形で床に倒れ込む。頭を打たないように手が回されていた。
 倒れる視界の中でマーガレットは見た。スミレの背後、先ほどまで自分が立っていた地点に、なにか――『なにか』としか言いようがないものが滑り落ちてきたのだ。
 この場合、襲ってきたという言葉が正しいだろう。
「ゥ――ゥ――」
 それは鳴き声なのか、何なのか。
 体の小さな四足歩行。全身が熱を帯びているかのように赤く発光しており、生物だといわれても到底信じられないような姿をしていた。炎そのものが生きているかのよう。
「ァ――!」
 意味不明な奇声と共に炎の体が飛びかかってきた。
 覆いかぶさるように重なっていたスミレが素早く立ち上がる。振り向き様、左腕が横一線に振り抜かれる。
「――ッ!」
 悲鳴らしき音が聞こえた。発光体がどういうわけか真っ二つに切り裂かれ、床にどさりと落下する。
 マーガレットはすぐに気付いた。守ってくれた少女の手に、見慣れた刃物が握られている。包丁だ。
「あ、やった。効果はありますよ!」
 本人は場違いともいえる嬉々とした声色で飛び跳ねた。
 現れたのは明らかに魔力を帯びた炎だったし、それをまるで肉でも切り落とすかのように――魔法属性が付与でもされていない限り不可能だ。
 見れば、発光体の体から煙が、いや、水蒸気が立ち上っていた。これは蒸発している音か。斬られた断面がぶくぶくと泡立っているのが確認できる。
 スミレも女性だから当然魔力を持っている。属性は水だ。だからこそマーガレットは疑問を抱かずにはいられない。
「あなた、その技術は?」
 昔のスミレは、天然で、どちらかといえばドジで、戦いなんてこれっぽっちも似合わない少女だったはずだ。
「いつの日かこの街を出て、マーガレットさまに追いつこうと思って。ひそかに練習していました」
「……独学ですの? あなたもいろいろとぶっ飛んでますわね」
 もし国の魔法使いとして所属していたなら、スミレは『戦器士』の資格を得ることになるだろう。驚きなのはほぼ完璧に包丁を『戦器』として使いこなしているという点である。見よう見真似でできるようなスキルではない。
 無機物というのは案外デリケートなもので、魔力を注ぎ込むと簡単に壊れてしまう。マーガレットは石に魔力を込めて『魔結晶』を作り出すゆえ理解は深い。
「休んでいる暇はないみたいですよ」
 差し伸べられた手を握りして立ち上がる。
 帽子を被り直しながら注視する。部屋の中央、つまり魔方陣の中心付近から、先ほどと似たような炎の塊が出現した。床から生えるように。
 一つではない。その形や体長も様々で、それぞれ耳障りな鳴き声を放っていた。
「魔力の塊ですのね……」
 一体一体から放たれる魔力の波動を肌で感じる。それ自体が敵意となってこちら側に放たれていた。室温も上がっていることだろう。
 治療士は杖を抱くようにして気を引き締めた。同時に後悔の念が押し寄せてくる。こんな状況にスミレを巻き込んでしまったこと。
 さらに、彼女へ頼まなければならないことがある。
 相手は動物でもなんでもなく、魔力そのものなのだ。しかも炎属性であることは明白で、同じ炎の使い手であるマーガレットの魔法はほとんど効果が期待できない。
 だが、水属性である彼女ならば。
「お願いできますか?」
 短い言葉だったが、スミレは微笑みながら頷いてくれた。
「もちろんです。わたしはマーガレットさまに仕えるメイドですから」
「メイドは普通、ボディガードなんてやりませんわよ」
「あれ、そうなんですか? 練習したのに……」
 スミレの空いている手が宙を素早く振る。すると何も握っていなかったはずの右手に、手品のごとく新たな包丁が現れた。
「なっ……そもそも、普段から包丁を持ち歩いているというは物騒でしょう」
「携帯しておけばいざというとき、お肉やお野菜が切れます。どこでも食事が用意できますよ」
「アレを食べられると思いますの?」
 不思議なことに落ち着きを取り戻していることをマーガレットは自覚した。複数の謎の生命体を前にして、冗談なのか本気なのか分からないスミレの言葉が妙に心地良い。
「ああ……ごめんなさい。あんなの食べたら火傷しちゃいますよね」
「そういう問題ではありませんが――来ますわよ!」
 無駄話をしている場合ではない。炎の塊たちはそれぞれ己の体を形成すると、やはりあの聞きなれない鳴き声を発しながら襲い掛かってきた。 

★光の国のルナ

 目の前で起きていることが信じられなかった。
「お姉さま……!」
――私が負けると思うか?
 つい先ほどまで自信に満ち溢れていた姉の表情は苦悶の色に染まっている。
 妹であるルナが目をそらしたくなるほど、姉は殴打の嵐を受けた。頬を殴られてオレンジの長髪が振り乱れ、美しかったはずの顔立ちは醜く歪んでいる。さらに腹部へ幾度も拳を突き込まれて固形交じりの胃液を吐き出し、銀色に輝くミニドレスは吐瀉物で汚れきっていた。
「ぐっ……うっ……!」
 完膚なきまでに敗北した姉は腹を抱えながらうずくまっている。
 苦しげに呻く彼女を見下ろすのは、視界に映るだけで背筋が震え上がるほどの威圧感を放つ闇の戦士だった。
「拍子抜けだな、ライトニング・アイナ。光の国のリーダーである貴様がこの程度とは」
 若々しいが心臓に重く響いてくるような声で、その男は嘲笑した。
 闇の一族幹部、ナイトメア・フィスト。ルナはもちろん、光の一族側で彼を知らぬ者はいない。
 人間界で言うところの革つなぎを着た男で、それは全身にぴったり張り付くように纏われている。彼の肉体には無駄がなくかつ強靭であることが、服の上からでも窺えた。同じ素材の手甲やブーツは、つなぎと同じく紺一色である。
 顔にも紺色の面頬を装着していた。目の部分だけが細長く空いているが、その奥にあるはずの瞳は全く見えない。人間ならおそらく、侍か忍者どちらかを連想するだろう。
 膝をついて呻いているルナの姉、アイナの後頭部をフィストが踏みつけた。ぶっ、と呻きながら顔面が地に押しつけられる。
「まあそれでも長く持ったほうだな。他のザコよりかは遥かに楽しめた」
 ルナは腰を抜かして尻餅をついたまま、二人を呆然を眺めていた。彼女はまだ認めようとしなかった。姉が負けるなんて。
「で、そこでふぬけている貴様は何だ?」
「ひっ……」
 面頬で覆われた顔が向けられた。瞳は見えないのにぎらりとした鋭い視線を感じ、ルナは全身を震え上がらせる。
「い、妹には、手を出すな……!」
 足を払いのけたアイナは、敵を睨み上げた。
「なるほど。ふん、貴様と同じ戦装束のようだが腰抜けだな。どうでもいい。貴様たちの母はこの奥だな?」
 心臓が止まる思いだった。フィストがこうして神殿に乗り込んできたのは、ルナたちの母を抹殺するためである。母はアイナよりも強力な戦士だったが、長い戦いで疲弊し、傷つき、さらに病で倒れてしまった。
 母も正義感が強く、フィストを目の前にしたなら体の状態をいとわず戦うことだろう。万全の状態ならともかく、下手をすれば命まで……
「くっ……させるか……!」
 アイナが震える膝を無理矢理に伸ばして立ち上がった。母への想いが彼女の体を突き動かし、神殿へ行かせまいとフィストへ飛びかかる。
 ズン、と音をたてて姉の肢体がくの字に曲がった。
「ぐふっ……!」
 背後からの奇襲にも関わらず、フィストの拳は振り向き様、正確に鳩尾へと叩き込まれていた。鍛えられた腹筋はすでに崩壊し、彼の一撃を丸々飲み込むかのように柔らかく陥没している。
「ごばっ、ぉぐっ……!」
 何度目かの胃液を迸らせたアイナは腹を抱えるようにしながら再び倒れ込んだ。小刻みに痙攣するその姿は痛々しく、ルナの目尻に涙を浮かばせる。
「もう貴様に用はない。そこで寝ていろ」
 鼻で笑いながら闇の戦士は歩を進める。へたり込んでいるルナに一瞥さえくれず、すぐそばを通過していった。
「あ、あっ――」
 駄目だ。母のもとへ到達させるわけにはいかない。だがルナはまだまだ未熟で成長段階。アイナと同じ光の戦士とはいえ、その姉ですら手も足も出ずに敗北したのだ。自分が立ち向かったところで勝てるわけがない。
「うううぅぅぅ!」
 しかしルナは勇気を奮い起こした。鼓舞するように歯を食いしばる。
 おそらく女王の間では異常を悟り、母を逃がすために侍従たちが逃走の準備をはかっているだろう。ならば今自分にできること――時間稼ぎだ。勝つ必要はない。
「ま、待て!」
 声が震えていたかもしれない。弱々しすぎたかもしれない。けれど、強烈な存在感を放つ男はぴたりと足を止めた。
「わたしが相手になるわ……!」
 立ち上がったルナに振り返った闇の戦士は、軽く首を傾げた。
「貴様はライトニング・アイナの妹だろう? そいつより強いとは思えんが」
「そんなことは、戦ってから言いなさい!」
「ふむ? なるほど。そこまで言うのなら勝つ算段があるわけだな? いいだろう」
 勝負に乗ってくれた。あとはできるだけ時間を長引かせればいい。姉のようにうまくはいかないかもしれないが、少しくらいなら。
 両拳を構えると、フィストも戦闘態勢をとった――と同時、彼の姿が風を切る音と共に急接近してきた。
「――ッ!」
 咄嗟に上半身を反らす。顎を打ち上げようとしていたフィストの拳が空を切った。ルナは初撃を外した彼に蹴りを放つ。
「だっ!」
 呼気と共に銀色のブーツで彼の胸板を蹴り込み、反動を利用して距離を離す。接近しすぎてはいけない。一定の距離を保てば回避にも余裕ができるから、この戦法を続ければ時間は稼げる。
「はは、遠慮はいらんぞ。本気でかかれ」
「……!?」
 今の蹴りだって手加減なんかしていない。まだ未熟とはいえれっきとした光の戦士だ。それなのにフィストの声色にはなんの変化もなかった。ダメージが通っていないのか。
「なぜそう驚く? 貴様、勝てると思ったからこそ俺と戦っているんだろう? ならばさっさと本気を出せ」
 それは、挑発でもなんでもなかった。フィストはおそらく大真面目なのだ。姉であるアイナが勝てないのだから、妹には万に一つの可能性もない……ルナ自身も自覚していることは、彼にも理解できている。
「まさかとは思うが、勝てないと分かっているのに挑んできたのか?」
 納得できないとばかりにフィストは首を振る。
「わたしはお母さまのために戦っているの! お前みたいに戦いを楽しむためじゃない!」
 ルナが力強く叫ぶと、闇の戦士は天井を仰ぎ見た。ああ、と彼は頷き、心底呆れ果てたようにため息をつく。
「そうか、貴様も誰かのために戦うような愚か者ということか」
 頭が沸騰しそうなほど熱くなった。歯をぎりっと噛み締める。
 無謀な戦いをする自分は確かに愚かかもしれない。しかし、彼の言葉は母を守ろうとしたアイナを侮辱したのだ。
「撤回しなさい! 今のは聞き捨て――」
 ずっ、と重い音が響くと同時に、ぴたりとルナが停止した。意図して言葉を止めたのではない。怒りをぶつけたくてたまらない。だが、せき止められているかのように喉から声が出てくれないのだ。
 ただ、酸素だけが押し出されるような音だけが口から洩れる。
「……ぁ?」
 フィストの体がすぐそばまで接近している。彼の腕が自分に向けて突き出されている――ルナは何が起きたのか理解できず、呆然としながら視線で追いかけた。
「ぇ、あ」
 視界に映ったのは、フィストの拳が自分の腹部にめり込んでいる光景だった。手首より先は全てミニドレスの中心にめりこんでいる。そこで初めて、彼女はボディブローを受けたことに気付いた。
 攻撃が速すぎたため、殴られたことに気付かなかった――脳が状況を理解した瞬間、おぞましいほどの嘔吐感がこみ上げる。
「ぅぐぶ!? ごぼっ……!」
 びちゃりと黄色い胃液が溢れた。鍛えているはずの腹筋が破れ、胃袋がひしゃげている。
 追従するかのように激痛が腹から全身へ駆け巡った。勝手に膝が笑い始めたが、拳で支えられているためか崩れ落ちない。
(お、も、い……!)
 こんな拳をアイナは何発も受けたのか。たった一撃で胃液を吹き散らしたルナは意識すらも混濁させる。
「興ざめだ。戦う価値もない」
 拳が引き抜かれる。あるいはアイナでも見切ることのできなかったであろう彼のボディブローは、戦装束にくっきりと打撃痕を残していた。
「あっ……かはっ……ぁ……?」
 少女は粘液を垂れ流しながら、いまだに陥没したままの腹部を見やる。内臓器官は当然歪んだままで、まともに酸素が供給できずに唇が魚のように震えるだけだった。
「ふん、アイナの方がまだマシだったな。そこで二人仲良く寝ていろ」
 一撃で粉砕したフィストはもはや興味をなくしたようだったが、ルナに背を向けることはなかった。
「なんだ、その目は」
「ッ……お母さまの、ところへは、行かせない」
 回復しない呼吸のまま発した声はか細く頼りない。だが彼女の目にはまだ生気があって、怒りのエネルギーで満ち溢れていた。母を守ろうとする意志が背中を支えている。
 その力強い両目が再び苦痛に見開かれた。
「ぐがっ……!?」
 ルナの体が脇腹を中心にして弓のように折れた。猛打が左脇腹に埋め込まれ、殴られたものとは別の鈍く重い音が響く。
「これだけで肋骨三本か」
 拳によって直接ではなく、受けた衝撃だけで骨が砕けたのだった。まるで細い木の枝。肝臓も一緒に変形したことをルナは痛みで知った。
「はっ、ぐっ……!」
「誰かのために戦うやつが、俺に勝てるかぁ!」
 三度目の凶弾。ようやく回復の兆しが見え始めた腹部の中央に、凄まじいスピードを乗せたアッパーが抉りこまれた。
 どぶっ、と鈍い音。ルナの肢体が殴られた箇所を支点に折れ曲がる。
「ごぅっ……! げぇは……!」
 一撃目よりもさらに深く埋まった。砕けていた肋骨の破片が衝撃で泳ぎ回り、内臓たちに突き刺さる。胃に。肺に。肝臓に。その拳はとどまるところを知らず、傷ついた内臓を背骨近くまで強引に押し込んだ。
「げぅ!? ぐばぁ!」
 拳と背骨に挟まれた胃袋が水っぽい音をあげながら潰れ、骨の欠片によって裂傷した箇所から血液が噴き出した。猛烈な勢いで逆流し、堪えることもできず盛大に吐血した。びちゃりと鮮血がフィストの腕にも降りかかる。
「がはっ、あ、ぁがっ……!」
 大きく開かれた目と口。飛び出した舌までもがぴくぴく震え、胃液と血が混ざり合った粘液が幾筋も糸を引いている。
 くの字に折れた体はフィストの腕一本だけで持ち上げられていた。痙攣する爪先は床から完全に浮いている。もう体が沈みこんでいかないのは、すでに限界まで拳がめり込んでいるからだろう。
「……貴様」
 わずかだが闇の戦士は感心したような、あるいは動揺を見せた。ルナが震える両手で彼の腕を掴み、腹部から引き抜こうと抵抗を始めたからである。
 肋骨を砕かれて胃袋も完全に潰されたはずなのに、まだ意識を保っていることがまず奇跡だった。アイナでさえ白目を剥いて失神するであろう猛攻だったが、彼女は寸前で踏みとどまっている。
「なぜだ。なぜそこまで戦おうとする?」
「げふっ……ぁ、まもり、たい、から」
 ろくに呼吸もできない状態ながらも、ルナは言葉を搾り出した。母を守るという目的が彼女を突き動かしている。もはや本能といってもいい。姉だってもとより母のために戦いを挑んだのだ。
「……そんなに母親が大事か!」
 右拳が引き抜かれた。宙に浮いている折れた肢体、その鳩尾へとフィストは左拳をめり込ませる。
「ごぼぉおぉ!?」
 半壊していた内臓たちが音をたてて潰れていく。血管が耐え切れずに破裂して、あらゆる臓器が血で満たされた。新たな血反吐を撒き散らす。
「戦いは目の前にいる相手が全てだ! ここにいない奴なんぞ想って何になる!」
 右、左、右、左。両の拳が次々と少女の鳩尾、臍、さらに下腹部までを責め立てた。地へと落下することは許されず、空中でルナはその美しい肢体を苦痛に躍らせる。
「貴様のような! 奴が! 一番! 気に食わん!」
「ごぁっ! げほっ! ぐぶっ! ぉご……!」
 一撃一撃が致命傷になる威力だ。すでにアイナが受けた回数を超えている。拳が腹を突き上げるたび、粘ついた赤が延々と溢れた。地面には血反吐溜まりが生まれている。
「貴様は俺を見ていない! 俺を、俺を見ろおおおおおおお!」
 喉が張り裂けそうなほどの怒声。でこぼこになっているルナの腹部へと凄まじいスピートで拳が突き刺さった。おそらく今までで最大威力。その証拠に、突き抜けた衝撃が衣服の背中部分を大きく破り裂いた。
 ぐちゃ、とルナは体内で胃袋が弾けたことを自覚した。
「ッ……ッ……!」
 ルナの瞳孔が見る見るうちに細くなっていく。もう胃液も血も吐きつくしたのか、口に残っていたそれらが滴り落ちるだけになっていた。体の痙攣も幾分小さく、もうとっく限界を通り越している。
「……クソが」
 フィストが毒づきながら手首まで食い込ませていた拳を引くと、ようやく少女は地上に降りることができた。受身など取れるはずもなく、己の血反吐の溜まりへとうつ伏せに落下する。
「なにをしているんだ俺は。馬鹿馬鹿しい」
 姉妹など無視してさっさと進めばよかったのかもしれない――彼は時間を無駄に浪費したと感じたようだ。本来の目的はルナたちではなく母親。彼女はこの先にいるのだ。
(やっぱり、わたしじゃ、だめ……)
 体の中を破壊されたたルナは、朦朧とする意識のなかで己を叱責した。未熟なくせにフィストへ挑んだのは、やはり無駄なことだったのか。
 いや、違う。彼に勝ちたいわけじゃない。強さを示したいわけでもない。
 家族を守ることができない……泣き叫びたくなるようなその悔しさに、ルナは体を軋ませながら咆哮した。 
「う、うあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 その瞬間、彼女の消えかかっていたエネルギーが膨れ上がった。ルナの体が淡い光に包まれ始める。
 去ろうとしていたフィストも目を見張っている。明らかに異常な光景だった。完全に打ちのめしたはずの少女が……
 瀕死状態だったルナがゆっくりと立ち上がった。彼女を包み込んでいる光はアイナのそれよりも眩しく輝き、力強さよりも優しさに満ちている。
 やがてオーラが彼女の体へと溶けるように収束していった。オレンジだった髪も、銀色だったはずのミニドレスも、全てが金の光を帯びている。
 生命力も増大していた。先ほどまでのルナとは桁外れの存在感を放っている。
「あ、わたし……」
 己の姿を見て、ルナは戸惑いながらも自信をみなぎらせた。散々痛めつけられた腹部、内臓も骨も完治している。体も軽い。力がどんどん湧いてくる。
「ぐぬ……」
 フィストは果たして気付いているだろうか。圧倒的な威圧感に後ずさってしまっていることを。
「意味が分からん! 理解できん!」
「……お前には分からない。自分のためにしか戦わないお前には!」
「なんだと……! なんなのだ貴様は!」
「全てを照らす太陽の戦士、シャイニング・ルナ!」
 新たな戦士が誕生した瞬間であった。光を超え、姉も、おそらく母をも超えた存在となったルナ。闇に打ち勝つ強さではなく、誰かを守る強さを求めた意志が、彼女を覚醒させたのだった。
「ほざけええええええええ!」
 闇の戦士は超人的なスピードでもって肉薄してきた。何度も陥没させられた腹部へと、もう何発目かも分からないボディブローが放たれる。
 ルナはその攻撃が見えていた。ゆっくりと。まるで数秒先の未来を覗いているかのように。避けることなど造作もなかったが、彼女は彼の拳をあえて受け入れた。
 風船が割れたような、妙に乾いた音が響く。苦痛の声を漏らしたのは太陽の戦士ではなく、闇の戦士だった。
「ぬうう、あああああああ!」
 フィストの拳が赤く焼け爛れた。煙まで立ち上っている。
 ルナの腹筋に命中はしたがダメージの一つも与えられていなかった。数ミリもめりこまず、むしろ逆に拳が弾いてしまったのだ。
「ハアッ!」
 よろめいたフィストの顔面へと、ルナは真っ直ぐ拳を突き出す。純粋なストレートパンチは、本人も驚愕するほどの威力で彼の頬面に叩き込まれた。
 屈辱的な呻き声をあげながら闇の戦士が猛烈な勢いで吹き飛んでいく。破壊された面頬の破片をばらばらと撒き散らしながら、床を二転三転。神殿の壁に激突してようやく停止する。
「ぐぁっ……クソッ……!」
 戦闘経験豊富な彼のことだ、今の一撃で理解しただろう。覚醒したルナには到底かなうまい、と。
「俺は認めん……! 強さとは敵を打ちのめすという思いそのものなのだ! 貴様のようなお人好しなど、絶対に認めんぞおおおおおお!」
 それでも闇の戦士フィストは突撃を仕掛けてくる。面頬が砕け散りさらされた素顔、荒れ狂う表情を目にしたルナは哀れみを抱いた。
「かわいそうに。お前に大事な人がいれば、変われたかもしれない」
「黙れ! 黙れ! 黙れええええええ!」
 少女は静かに右手をかざした。まばゆい光が手の平に収束し始める。小さな光の球だったが、爆発的なエネルギーが凝縮されている。それはまるで他の星々に輝きを与えているあの巨大な――
「さようなら、ナイトメア・フィスト」
 呟くような言葉は闇の戦士には届かなかったかもしれない。ルナの右手で渦巻く太陽光が、巨大な光線となって轟音とともに撃ち出された。
「ッ――」
 はたしてフィストは最期の瞬間を自覚できたのか。膨大な熱量を誇る光は彼の体をまるごと飲み込んだ。そのまま神殿の壁まで貫き、地平の彼方まで飛んでいく。
 闇の戦士は跡形もなく姿を消していた。全てが一瞬。光が燃やしてしまう音や、悲鳴は全く聞こえなかった。
 あれだけ荒れ狂っていた周囲の空気が、嘘のように沈黙する。
「ル、ルナ……」
 はっ、とする。少女は倒れこんでいるアイナへと駆け寄った。姉は苦しげに腹部を押さえているが、表情の生気は失われていない。
「お姉さま、しっかり!」
「ぐっ……大丈夫だ。それにしても驚いた。私を遥かに超えているな」
 ルナに抱き起こされた姉は、呼吸をかすかに乱しながら感嘆していた。
 姉に認められたことが嬉しくて頬が緩む。
「いえ、そんな……神殿に穴を開けてしまいました」
「ふっ、気にしなくていい。それより、お母さまにその姿を見てもらえ。きっと喜ぶ」
「は、はい! お姉さまも一緒に!」
「ま、待て。私はまだ体力が」
「抱えて行きます!」
「わっ!? こ、こら!」
 頭一つ分は背の高いアイナを軽々と抱え上げたシャイニング・ルナは、疲労の色など一切見せずに神殿の奥へと駆けて行った。

もうちょっと

時間をください。