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★金と黄の交差

「わあっ、すごいっ」
 駅から一歩外に出た途端、彼女は好奇の視線をあちこちに巡らせた。
 この地域はT都の代名詞ともいえる場所で、観光客は必ずといっていいほど訪れる名所である。
 背の高いビルにはアニメの看板だったり、映像だったり、それはもういわゆる”聖地”めいた雰囲気があった。平日の夜だというのに人通りも多く、初めてこの地に足を踏み入れれば、とにかくあらゆる店へ入りたくなってしまうだろう。
「あ、いけないいけない。遊びにきたわけじゃないんですから」
 表情を引き締めながら、彼女は――如月シオンは緑色の瞳で夜空を仰ぎ見た。
 雑誌等で興味はあったが、実際にこの目で町の景色を見るのは初めてだ。かといって彼女は観光目的ではなく、仕事で訪れている。いや、任務、といった方がしっくり来るだろうか。
『人妖』と呼ばれる、人間社会の脅威となっている怪異が存在する。見た目は人間だが、本質は妖怪のそれである。人間との粘膜接触によってエネルギーを摂取するという、まさに人類の天敵といえた。
 シオンはそれを半ば実力行使でもって退治する戦闘集団、”アンチレジスト”の構成員である。しかも、彼女は上級戦闘員という肩書きを持っており、その実力は折り紙つきだった。
「えっと、C地区……でしたね」
 今回彼女に与えられた任務は、C地区で探知されたという人妖と思われる生態反応の調査である。
 判然としないのは、今までに確認されたことのないタイプの反応だったからだ。だからこそ、シオンが派遣されてきたともいえる。
 彼女は頭に叩き込んでいる地図を思い浮かべながら、目的の場所へと歩み出した。夜ということもあってか、ブロンドの髪が絵のように映えている。
 トレンチコートを着ているものの、彼女の美貌や真っ直ぐな足取りからして、スタイルも相当レベルが高いであろうことは想像に難くない。この街では外国人がいること自体はそれほど珍しくないが、シオンの存在感はどんな人間よりも一際目立っている。
 当の本人は気づいているのかいないのか、周囲の視線を気にすることなく歩き続けた。目的地は意外にも近かったため、すでに精神を引き締めている。
 しかし、
「はわっ、か、かわいい……!」
 視線の先には、彼女の憧れともいえる存在がいた。
 フリルの付いた真っ白なエプロンドレスにカチューシャを着こなしている若い少女たち。道行く人たちへ声をかけたり、店のチラシを配っていたりする。
 彼女たちはメイドだ。かといって職業がまさにメイドというわけでもない。この街ならその姿はそこかしこで見かけるし、アルバイトが多いだろう。中にはちょっと危ない店もあるかもしれないが、シオンは深く知らない。
「あぁ、こっちにもメイドさん、あっちにもメイドさん……!」
 シオンはいわゆる名門家の生まれで、言うなればお嬢様であった。ご多分に漏れずそれ相応の教育を受けてきたが、彼女自身の心にはほんの少し疑問が浮かんでいた。
 なぜ人は平等ではないのか。
 およそ上の立つ人間の思考とはいえない。しかしシオンにとっては素朴な疑問として常にあり、それは「メイド」という存在を知ったことで、世界丸ごと価値観がひっくり返った。
 ただ映画で見ただけだ。たったそれだけのきっかけで、シオンは「誰かの役に立とうとする」その姿に魅了され、以来メイドに憧れを抱くようになったのだった。
「お話したい……! 写真を一緒に撮るだけでも……!」
 通行人に声かけしているメイド姿の少女へ、ふらふらと吸い寄せられていく。
 しかし、仮にも彼女たちは仕事中だ。それを邪魔するわけには……
「仕事……、い、いけない。私も任務中なのでした――いやでも、ちょっとくらいなら……」
 一瞬だけ我に返ったのも束の間、笑顔を振りまいているメイドの姿が視界に入ると、どうにも頬が緩んでしまう。
 そうだ、通りがかって声をかけられたというシチュエーションでいこう。決して任務を忘れているわけではない。たまたまメイドさんの前を通りかかったら、話しかけられたということなら、別に何も不自然ではない。そこから会話に発展して写真を撮ることになったっておかしくないはずだ。多分。
「よし……!」
 シオンは妙に緊張した面持ちで、金髪のツインテールを整えた。いざ行かんとメイドの方へと歩み寄ろうとした矢先、
『シオンさん!』
「ひゃいっ!?」
 びくりと肩を引きつらせて硬直する。通行人の視線が集まってきて、シオンは顔を伏せながら早足でメイドの前を通り過ぎた。今の声はイヤホン型インカムから流れてきたオペレーターだ。
 自動販売機の陰に隠れながら彼女は弁解の言葉をまくしたてる。
「す、すすすみませんメイドさんが目の前にいたのでつい魔が刺したというか決してサボろうとしたわけではなくて――」
『な、なんのことですか? いえ、それより、異様な反応――気を――』
 オペレーターの声は唐突に聞こえなくなってしまう。若干のノイズが走っていて、耳障りな音と状況の異変に、シオンは眉をひそめた。
「なんですか、放してください!」
 悲鳴に近い声に、シオンはすかさず振り返った。
 先ほど声をかけそびれた黒髪のメイド。なにやら見るからにやんちゃそうな青年が彼女の腕を掴んでいる。
「いいじゃんほら、ちょっとだけだって。あっち行こうぜ」
「や、やめて……! 誰か……!」
 周りは見て見ぬフリをしていることが、シオンには分かった。疑問と苛立ちを覚えるが、あのメイドを困らせているのはシオン自身が見過ごせるはずもない。力強い足取りで二人に迫っていく。
 突然目の前にやってきた金髪少女に、青年は面食らっていた。
「な、なんだよ。あんた」
 彼の身長は若干低めで、線も細い。茶色に染めた髪は若干ボサボサで、目つきは悪いがあまり頼りになさそうな印象がある。
 しかしそんなことは関係ない。例え相手が体格のいいボクサーみたいな男だったとしても、シオンはこうしていただろう。
「彼女は嫌がっています。その手を放しなさい」
「は? カンケーないだろ。それともなに、あんたが代わりに相手してくれんの?」
 逆に男は、相手が女であるということに余裕を\感じているようだった。
 はあ、とシオンはため息を吐く。彼女は羽織ったロングコートの、肩から太ももあたりまである長いファスナーを下ろした。
 コートの下から表れたのは、この場では非常に馴染み深い「メイド服」だった。ただし一般的なそれと比べると露出度が高い。トップスはブラジャー型だし、エプロンのついたスカートも短い。白くて滑らかな腹部を惜しげなく晒しつつも、長くてしなやかな両脚は白のオーバーニーソックスに包まれている。
 今まさに守ろうとしているメイド少女が頬を赤くするくらい、挑発的な恰好である。しかしこの姿は、同時に任務中であることを示している。アンチレジストの上級戦闘員、如月シオンのれっきとした戦闘コスチュームだ。
「わ、あのメイドさん、めっちゃえろい」
「でもすごく綺麗だよね……!」
 事実、シオンは年齢の割に童顔だが画に描いたようなスタイルの持ち主であった。男性は下心の入った好奇も目もあるが、女性は羨望ともいえる視線をシオンに注いでいる。
 青年も呆気に取られたようだったが、どうも自分の都合が良い方向に物事を考える性格らしく、
「お、なに、マジで相手してくれんの?」
 と、にやついた顔で言うのだった。彼の興味は完全にシオンに向けられていて、小柄なメイドの手をすでに解放していた。
 そんな青年をシオンは冷ややかな目で見返す。
「ええ、お相手しましょう。ただし――」
 彼女はおもむろにコートを青年へと投げつけた。動揺している声の主へと向かって、白いオーバーニーソックスに覆われた右脚が振り上げられる。
 長くしなやかな脚が、コートで視界を奪われた青年の頭へと正確にヒットした。ごっ、という鈍い音に、メイド少女がびくりと肩を震わせる。
 漫画みたいな動きでもって、青年は身体ごと吹っ飛んでアスファルトの上にどさりと倒れ込んだ。
「あなたの思っているような――もう聞こえていませんか」
 ハイキックをの態勢から微動だにしないまま、シオンは静かに呟いた。
 おおっ、と周りの人々が歓声をあげ、スマートフォンやら何やらで写真を撮り始める。シャッターの音にシオンはどきりとして、慌ててスカートを押さえながら足を下ろした。
(い、いけない。目立ってしまったら任務に支障が……)
 メイド少女を助けたいあまりに我を忘れていた――しかしある意味彼女らしい一面でもあった。
 ふう、と軽く息を吐くシオンのそばで、メイド少女が恍惚とした表情で口をぽかんと開けている。
 シオンは気づいた。これはチャンスなのでは。今なら少女とお近づきになれるはず――
「おー、いてえ、結構やるじゃん」
 背後からやけに陽気な声。シオンは再びメイド少女をかばうように位置取りながら振り向いた。
 たった今ハイキックでダウンしたはずの青年が、首を回しながらニヤついている。コートは足元へ無造作に投げされていた。
(確実に入ったはず……!)
 動揺してはいるが、シオンは心理的な優位を相手に与えないために、表情を崩さず凛とした目つきで睨み返す。
 彼女が得意とする蹴りは、並大抵の格闘家が放てるものではない。
 筋肉で覆われた腕や足ならともかく、頭部を鍛えることは不可能。しかも彼女のハイキックは直接脳を揺らすほどの威力だし、かろうじて失神しなかったとしても、この青年のように笑った顔で立ち上がれるはずがない。
 こいつは、普通じゃない。
「お? なんだか知ってるって顔してるな――あ、分かったぞ? お前がアレか、果汁系戦士ってやつだな?」
「かじゅう……なんです? 人違いではありませんか?」
 聞きなれない言葉にシオンは気を取られそうになるが、ほんの一瞬だけだった。余計な事に意識を逸らさず、目の前の青年に集中する。
 この街に訪れた目的は、レジスタンスがキャッチした不審な生体反応を調べること――おそらく彼だ。
 短く息を吸ったシオンは戦闘態勢に入る。対して青年は、
「ふん、そうか、正義の味方ってのは正体を明かさないらしいからな。だけど俺は違うぜ?」
 彼は大袈裟に息を吸い込むと、ぐっ、と背中を丸める。
 全身に力を込めているようだ。握った両拳をぶるぶると震わせ、顔も紅潮していき、首元も血管が浮き上がっていた。
「ゴゥアアアアアアアアアアアアア―――――――――――!」
 溜め込んでいた酸素を一気に爆発させ、叫ぶ。
 人間の口から発せられるような声ではなかった。もっと獰猛で、激しい。咆哮と言ってもいい。
「う……!」
 シオンはびりびりとした威圧感を肌で感じ取った。ほとんど迫力のなかった青年が、突如として驚異的な存在感を放っている。
 すぐに、彼女はその美しい瞳に捉えた。青年が『変身』していく様を。
(なんですか、これは……!?)
 目の前で起きていることが、すぐには信じられなかった。
 青年が着ていたシャツが、内側から破れていく。それは彼の肉体が文字通り膨れ上がったからだ。細身だったはずの身体はもう見る影もなく、現れた肉体は人間離れしているほど大きい。
 妙に赤黒い肌には血管が浮き出ており、胴体は大木を思わせる。筋肉がぎっしりと詰まった両腕はシオンの太ももほどの太さはあろうかというほどだ。
「ふしゅううぅぅぅぅ」
 青年だったはずの男は、水蒸気のような白い息を吐いた。
 その口からのぞいているのは薄汚れた牙。彼の瞳はぎらぎらと猛獣を思わせる色を帯びていて、額から突起物が生えている。
 上半身だけは恐ろしく変貌したものの、下半身だけはジーンズのままでほとんど変わっていないのがアンバランスであった。
 周りの人々は明らかな異形を目の当たりにし、我先にと一目散ひ逃げ始めた。好奇心を持つ者はほぼゼロで、シオンはすぐ背後にいるメイド少女に、振り向かないまま声をかける。
「今すぐここから離れてください」
「ぁ、え……」
「早く!」
 ほんの少し躊躇の呼吸。その後すぐに、メイド少女が逃げていく足音をシオンは聞いた。
 自身の精神を尖らせながら、変貌を遂げた青年――怪物を睨む。
「鬼……!」
 そうシオンは感じる。彼の見た目は、昔話などに出てくる鬼そのものと言える。そして、おそらく『人妖』ではない。もっと別の何かであると確信した。
 チッチッ、と『鬼』は分厚い舌を鳴らして指を振る。
「オレの名はオニラスだ。お前は?」
「……答える気はありません」
 あくまで主導権は握らせない。シオンは異様な威圧感を受け止めながら、鋭い瞳でもってオニラスを睨み返した。
「チッ。まあいい。果汁系戦士ってのが分かっていれば十分だ!」
 人違いなのだが反論している暇はない。
 オニラスはその筋肉質な体で駆け出してきた。両脚は人間のままだからか、妙に俊敏に感じられる。
「――――ッ!」
 シオンとてアンチレジストの上級戦闘員である。数多くの戦闘を経験してきた彼女は、もとより『人間』以外を相手にしてきた。オニラスという怪物の存在を目の当たりにしつつも、戦闘スキルが鈍ることはなかった。
 太い腕から放たれる拳を寸前で避け、逆に懐へと潜り込む。
「はッ――!」
 オニラスの脇腹めがけて、薙ぐような蹴りを放つ。シオンが履いている黒のストラップシューズには、鉄板が仕込まれていて、相手が人間であれば肋骨の一本や二本は折れるだろう。しかしオニラスは確実に人間ではない。だからシオンも最初から本気だ。
 ストラップシューズの爪先が、オニラスの赤黒い皮膚へ音をたててめり込んだ。
「ぐっ……!?」
 呻いたのはシオンの方だった。
 間違いなくヒットしたが、オニラスの上半身はやはり人間のそれではあり得なかった。筋肉はもちろん皮膚ですら堅く、まるで地面を蹴りこんだかのようだった。
(一旦離れて――!)
 シオンは即座に状況を理解し、判断する。危険を承知で飛び込んだオニラスの懐は、あちらも得意な間合いだ。
 だからシオンは左足で相手の腹部を蹴りこみ、反動で後方へと跳躍する。映画のワイヤーアクションを思わせる動きは、軽やかで華麗だ。
「グハハッ、どうしたんだ。いきなり距離を取るなんて」
 完璧な蹴りが入った脇腹を、ぽんぽんとオニラスが叩く。やはりダメージはほとんど入っていないと見ていい。
 シオンの表情に若干の焦りが差す。これまでにもおよそ『人間』とはいえないモノを相手にしてきた。危機に陥ることもあったし、その都度でどうすべきか考えてきた。
 しかし、オニラスは異常だ。まだ人妖であった方が、幾分納得もいく。だがこんな常識外れが相手では――
「焦っているな? いいぞその顔。どうだ? 今からでも俺の”相手”をしてくれても構わないぞ」
 へらへらと余裕を露わにしている怪物。
 自分以外の戦闘員であったらどう判断するだろう――アンチレジストは『人妖』の討伐を目的としており、当然一般人が知る由もない極秘組織だ。下手に目立てば組織の存在が知られてしまうかもしれないし、『ファーザー』はそれを望まないだろう。
 しかし、だからといって目の前に存在する怪物を放置することは、シオンにはできなかった。
(きっと、綾ちゃんだって戦うはず)
 同じ上級戦闘員である少女の顔が思い浮かんだ。任務だとか、アンチレジストだとか関係ない。
 究極的な任務は、”人を守る”ことなのだ。
(体は頑丈すぎてまともに通じない……それなら)
 オニラスの体つきは、上半身は完全に怪物と化している。しかしジーンズを履いた下半身は人間のままだ。シオンは自分が相手より小さいことも利用する。
 足を狙うのだ。
「ああん? 焦っていたかと思ったらなんだよその目は。いきなりキリッとしやがって」
 シオンの戦う意志を帯びた目が気に入らないのか、オニラスは大きく舌打ちをした。
「逃げると思いましたか? そんなつもりは毛頭ありません。あいにくですが、私はしつこいですよ」
「チッ、そうかよ。ぜってえ、俺の”相手”をしなかったことを後悔させてやる!」
 吠えながら突進してくる怪物。シオンは冷静な思考でもって相手の動きを読む。
 オニラスは体が大きい分、攻撃の振り幅も広い。それはリーチが長いという厄介さもあるが、攻撃箇所の予測がしやすいという点があった。そこがこの怪物に勝つために攻めるべき弱点だ。
(右のストレートを受け流して――!)
 顔面を狙ってきた真っ直ぐなパンチを、左手で軽く弾く。筋肉の動きなど、戦闘経験豊富なシオンだからこそできる芸当だった。
 オニラスの腕は斜めに逸れて、体の前面を開くようなかたちになる。
「――――ふッ!」
 薙ぐようなローキック。体ごと半回転しながら放ったそれは、空気を切り裂く音を響かせた。
「うおぉッ!?」
 怪物は動揺していたが、対応しようとする動きはやはり人間の領域を超えていた。
 彼は迫ってくるシオンの長い脚を視線にとらえつつ、体をねじって回避行動に移っている。体重を乗せた拳を放っていたから、ジャンプなどして避けることは無理だと即座に判断したのだろう。
(速い! でもこのまま!)
 シオンは自分の蹴りがヒットすることを確信していた。直撃はできなくとも、足にダメージを与えれば勝機も見えるはず。彼女は迷いを捨てて、しなやかな脚を振りぬいた。
 鉄板が入ったシューズのつま先は――オニラスの股間に突き刺さった。
「あ」
 思わずそんな声をこぼすくらいに、シオンは色んな意味で動揺した。だが反撃を懸念して、初撃と同じようにすぐ後方へと跳び退る――追撃は来ない。
「――――」
 停止ボタンを押されたみたいに敵は硬直していた。
 シオンは構えを維持しながらも、蹴り込んだときの感触がどうしてもフラッシュバックしてきていた。男性にとっては地獄かそれ以上、死んだ方がマシという声を聞いたことがある……なんだか、とてつもなく悪いことをしてしまったような気分だった。
(き、効いたの? 人間ではないし、もしかしたら効果は……)
 つぶさにオニラスの状態を凝視していると、彼はものすごく小さく「ぉ」と声を洩らした。そして、
「ぐおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉくぁwせdrftgyふじこlp!!」
 この世のものとは思えない呻き声を発して、オニラスは股間を押さえながら転げまわった。それはもう見るのも気の毒になるくらいに痛そうで、
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 思わず声をかけてしまうくらい、シオンは妙な罪悪感を覚えていた。
 ただの人間みたくのたうち回っているオニラスは、体を小刻みに震わせながらもゆっくりと立ち上がる。
「くそっ、男のアイデンティティを容赦なく蹴りつけるような女だなんて……!」
「あの、さっきのは不可抗力です……! あなたの動きが予想外にも……」
「ええいうるさい! お前は男の敵だ! 全世界の男を代表して仕返ししてやる……!」
 怒り心頭といった様子でオニラスは睨みつけてきた。
 ともかく、効果があることは分かった。あの部分を集中的に狙うのは少々気が引けるが、効果がある部位にダメージを与えなければ勝ち目はない。
 それに、敵の攻撃はただ乱暴なだけで、言うなれば喧嘩スタイルだ。訓練と実戦の経験値が高いシオンにとって大した脅威では――
「――おい、まさか、俺が最初っから全力で戦っていると思っていたか?」
 相手を惑わすハッタリ――ではなかった。ぞくっ、とシオンは全身に氷をあてられたような寒気を感じ、 咄嗟に防御寄りの構えを取る――
 もう、遅かった。
 ズン、と腹部に衝撃が来て、視界が妙な位置にズレた。
「ぁ゛っ……」
 何が起きたのか、シオンの脳はまだ理解が追いついていなかった。
 体が動かない。足がなぜかアスファルトを離れている。
 目の前にオニラスの顔がある。体格差があるはずなのに、目の高さが同じ。
 理解するより先に、腹からこみ上げてきたものをゴボッと吐き出した。
「ぇっ……ごぷっ!?」
 びちゃりとアスファルトに広がったのは、自分の胃液だと分かった。喉が熱く、ひりひりと痛む。口内にまとわりついて、舌から糸を引いている。
「フン、結構鍛えてあるな。まあ、ただの人間じゃ受けきれねえか」
 オニラスの声が妙に大きく響く。鼓膜を直接叩いているみたいに。
 彼の右腕が自分の身体へ伸びていることにようやく気付いた。辿るようにして視線を泳がせる。
 筋肉の塊から繰り出された拳が、身体を強引に持ち上げていた。
「ぅぐっ……! ぇ゛っ……!」
 かなりの時間差で痛みが呼び起された。およそ人間が受け止められる攻撃ではなかったため、脳が理解するまで時間を要したのだった。
 滑らかに引き締まった腹筋は強引に突き破られて、体内の内臓器官にまで拳が抉り込まれている――そう気づいた瞬間だった。
 突き刺さっている腕が、ぐるりと半回転した。
 ぐちゅ、という生々しい音。
「う゛ッえぇぇぇぇぇ゛ぇ゛ぇ゛!」
 大きく身体が跳ね、少し白く濁った胃液が溢れた。抉られていた胃袋が、まるで雑巾を絞るみたいに捩じり回されたのだ。
 ビクビクと痙攣する肢体。ズボリと音を立てて拳が引き抜かれる。彼女は受け身を取ることができないままアスファルトへと転がった。痛々しく陥没した腹部を押さえながら、海老のように背中を丸めてうずくまる。
「ッ、か――はッ――ぁ゛っ――」
 呼吸困難に陥ったシオンは、犬のように浅い呼吸を繰り返した。
 穴が開いたかと思うほどの鈍痛が腹の中で蠢く。激しい嘔吐感はまったく引かず、だらしなく開いたままの口から粘ついた胃液が垂れ流されるばかりだった。
 腹を殴られることはある。訓練もそうだが、実戦で腹部を狙われることは当然ある。が、
(一撃で――胃が、潰れ――!)
 この戦いで初めて受けた攻撃。たった一撃だ。それだけで、すでに再起不能状態だった。
 悶絶しているシオンの頭が、がっしりと鷲掴みにされる。抵抗することもできず、彼女は人形のように持ち上げられた。
 それから手を離されて、倒れ込む前に首元を掴まれる。そのままは背後にあるビルの壁に勢いよく押し付けられた。
「ぅぎっ……! かぁっ……!」
 背中を強かに打ち付けられ、全身に痺れが走る。
 先ほどのボディアッパーですでに酸素がほとんど叩き出されていた。そのうえ首を鷲掴みにされ、シオンは酸素をまともに取り込めなくなる。
 首を絞めている腕を殴りつけるが、細腕には力がほとんど入っていない。これでは、たとえ子供の腕だって振り払えないだろう。
「クハハッ、胃を潰されただけでこのザマか」
 完全に勝利を確信しているオニラスは、空いている片方の手を再び握り込んだ。シオンの瞳に、恐怖の色が宿る。
「安心しな、人間の痛めつけ方は慣れてんだ。すぐにゃ死なないよう殴り潰してやるよ!」
 殴られた箇所へと、再び猛打が埋まる。
 わずかな気力で腹筋を固めたものの、何の効果もなかった。ごつごつとして硬い拳は滑らかな腹筋を押し潰し、再び胃を抉る。
「ぅごお゛っ――!」
 元の形に戻りかけていた胃が、背骨にまで押し付けられる。壁を背にしているから、衝撃はほとんど抜けずに腹の中で暴れまわった。
 新たな嘔吐感がこみ上げるが、首を絞められているせいでせき止められている。吐き出したくても吐き出せない。
「今度はこっちだオラァ!」
 狙われたのは脇腹だ。太い腕がフック気味にしなり、シオンの右脇腹に突入する。
「げえぁっ――!?」
 ミシッ……べキッ……
 シオンは肋骨の数本が折れたことを自覚した。衝撃は肝臓にまで届き、シオンの顔色が青白くなっていく。
「ぐぎっ、ぃ、げふッ……!?」
「ハッ、簡単に折れたな。肝臓も使い物にならないだろ。次はここだ!」
 続いて狙われたのは臍の辺り。やや下方へ付き下ろすような拳が臍へと沈み込む。
 柔らかな下腹部に潜り込んだ拳が、さら右へ左へと捻られた。
「ぅぐふっ!? ぉ゛ぁ、ッ、ごぇ゛――!」
 小腸が大きくかき回される。
 ぐちゅぐちゅ――腸のひしゃげる音が体内を通って、シオンの鼓膜で鳴り響く。
 肋骨を砕かれて、立て続けに臓器を抉られ、ねじ回され、潰され。シオンの内臓器官はほとんど原型を留めていない。
(ぁ――おなか、ぐちゃぐちゃ――)
 涙が溢れている瞳からは、やや光が薄れていた。常人ならとっくに失神しているか、最悪の場合死んでいる。
 まだ意識を保っているのは、彼女自身が人並み外れた訓練で身体を鍛えていること、これまで潜り抜けてきた死地での経験が発揮されているからだった。さっさと気を失ってしまった方が、楽だったかもしれない。
 散々内臓を弄んだオニラスは、手首近くまでめり込んでいる拳を引き抜いた。
 引き締まった腹部には陥没が残され、ぐぼぐぼと臓器が蠢く音が聞こえる。
「もう使い物にならないな、お前の内臓は」
「か……はっぁ゛……ッ」
 汗ばんだ顔に、美しいブロンドの髪が張り付いている。全身も汗で濡れているシオンは、内臓の痛みで失神寸前にまで陥った。焦点の合わない瞳が、時折瞼の裏に隠れるほど行ったり来たりしていた。
「次が最後だ。女の大事なモン――子宮を潰してやる」
 シオンの身体は、痛みとは別の反応を示した。びくっ、と子供が肩を震わせたような動き。なによりもまず女としての防衛本能が働いたのである。
 ただ、それは単なる反応に過ぎず、肋骨や内臓を潰されて満足に呼吸もできない状態では、腕はおろか指先さえ動かすこともできないのだった。
 そのくせ視界だけは妙にはっきりしていて、怪物が拳を固く握りしめているのが見える。大きく後ろに引き絞りながら、彼の視線は下腹部のあたりに向けられていた。
 (ぁ――やだ――ッ――)
 内臓をあっさりと潰す拳。下腹部に付きこまれたら、子宮なんて簡単に破裂してしまう。
 シオンは殴り潰される痛みより、それが怖くて仕方なかった。子宮どころではなく、死ぬかもしれないのに、彼女は『女としての死』にひどく恐怖した。
 だけど、力は全然入らない。腹部を守ることができない。怪物から目を逸らせない。
「ハッ、いい泣き顔だな。なに、一発で粉砕して――」

「そこのあんた、こっち向け」

 その声は、シオンの鼓膜を優しく叩いた。
 ああ? とオニラスは鬱陶しそうに、シオンから見て右を向いた。
 と同時に凄まじい衝撃音が響き、怪物の姿が一瞬でどこかへ飛んでいく。
 首の圧迫が唐突に消えた。シオンは壁に背をずるずると押し付けながら尻もちをつく。
「ぅ、かはっ、げぼ、ぅぅええぇぇぇ……!」
 首を絞められていたことでせき止められていたものが、圧迫感と一緒に解放された。口から黄色く濁った胃液が溢れ出て、時折喉が詰まって重い咳を繰り返す。
 涙で滲んだ視界に、目が覚めるような黄色の髪をした少女が立っていた。
 その少女は右の拳を突き出している。信じ難いことに、一回り以上は体格差のあるオニラスを、拳一つで殴り飛ばしたのだった。
 そして、その姿も非常に印象深い。
(コスプレ……?)
 シオンがそう感じるのも無理はない。最近欠かさず追いかけているアニメに出てくる、魔法少女に似ていた。
 真っ白なブラウスは汚れ一つなく、胸元に黄色い宝石をあしらったリボンが付いている。
 丈の短い黄色のショートパンツから伸びる太ももは健康的に張っていて、肉感的な色気があった。膝下までのブーツだけがやけに重そうである。
 少女は「ふう」と軽く息を吐くと、拳を下ろしてシオンの方を一瞥する。途端に、その瞳が軽い動揺に揺れた。
「わっ、外国の人? えと、だ、大丈夫? あーゆーおーけー? どんうぉーりー? あー、英語ぜんぜん勉強してないもんなー」
 あどけないが、力強さが感じ取れる声だった。黄色の少女はさらに目を見開いて、
「ていうかその服エロすぎ! あ、そ、そういう仕事の人か……!」
「ぁ、ち、ちがい、ます……!」
 その点だけはどうしても否定したくて、シオンはか細い呼吸で答えた。
 おお、と黄色い少女が感嘆する。
「おねーさん、日本語分かるの? あーよかった」
「あ、あなたは……?」
 その時、瓦礫を吹っ飛ばしながらオニラスが起き上がった。彼は意識を保たせようとしているのか、頭を横にぶんぶん振っている。
「ぬあ、くっそ……! なんなんだ、お前は!」
「あ? あんたこそなんだこのクソ怪人。人間相手にみっともないっつーの」
 オニラスを見下すような視線をぶつけている。あの怪物をあっさり殴り飛ばしたのだから、この少女も普通ではあり得ないし、何より本人もそれを自覚している節があった。
「チッ、果汁系戦士に仲間がいるとは聞いていないぞ。お前は何系戦士なんだ」
「は? ああ――もしかしてそうなの?」
 と、少女は疑問の視線を投げかけてくる。
「い、いえ、なんのことだかさっぱり……」
「あー、違うっぽいね。本人は分かってるはずだし。ていうか、もうあの二人で十分だわ……」
 黄色い少女は呆れたような表情をしていたが、何か心地よいものを思い浮かべているのか、口元は薄く緩んでいた。
「おい、このおねーさんは全然カンケーないから」
「ふふん、そいつだけは逃がそうという魂胆か? 無関係なフリをしても無駄だぞ」
「だーから違うっつってんでしょ。人の話聞いてる? 言葉通じないの? バカですかー?」
「ハッ、えらくガキみたいな正義の味方もいるんだな。で、お前は何系戦士なんだって聞いてんだよ」
「あたしだよ! あたしがその果汁系戦士! レモンハート! 分かったかこのバカ」
 レモンハートというのが、少女の名前らしい。シオンはなんとなくではあるが、『果汁係戦士』の意味を理解した。
 小さな口から次々放たれる言葉は、まるで中学生の少女のようだった。それくらいの年齢だろうと、シオンは持ち前の観察力で判断した。小柄で顔つきはまだまだ幼いし、声色もあどけなさを残している。
 しかし、少女の振る舞いはオニラスにも劣らぬ存在感を誇示している。決してただのコスプレイヤーではない。あの怪物とはまた別方向の、『人間』を超えた存在であるとシオンは直感した。
「ていうかおねーさん凄いね。変身できなくても怪人と戦えるとか」
「へん、しん?」
「あー、うん。後で話すよ。まずあのバカ倒すから」
 ひどく呑気な口調でレモンハートはそう言った。いとも簡単に。ちょっと寄り道してくる、みたいな軽さで。
 シオンが呆気に取られていると、怪物は鼻で大きく笑った。
「フン、人助けってか? 俺には理解できねえな。他人なんか助けて何になるってんだ。見返りに何か貰えるわけでもなし、それこそバカってもんじゃねえのか?」
 その表情も声の調子も、明らかに見下している様子だ。
「そこの女だって、別に人を助けようなんて思わなけりゃ、俺にやられることはなかった。本当は後悔してんだろ?」
 腹部の鈍痛はまだ収まっていなかったが、シオンは頭に血が上っていく感覚をはっきりと覚えた。痛みなんか気にならなくなるほどに。
 何なんだあの怪物は。そんなこと言える権利でもあるのか。
(見返り? そんなの……)
 返りを求めてなんかいない。人を守ることに理由なんか必要ない。そんな薄っぺらい思いで戦ってなんか――!
「……そうだよね。あんたの言う通り」
 呟くような言葉は、レモンハートのものだ。黄色い少女はうつむき加減で頭をぽりぽり掻いている。
「赤の他人なんか構ってられないっつーかさ、そんな暇あるんだったら自分のこと優先しろって思うよねマジで」
 それは呆れた声色であることに間違いはなかった。だがシオンはレモンハートに対して、怒りが沸いてこないのだった。
 声の奥に、確固たる『芯』のようなものを感じ取ったから。
「いやほんと、世の中そんなお人好しいるんだよ。下心とかそんなもん無いの。なんつーのかな、使命っていうの? しかも、誰かに認めてもらおうとか思ってないっていうね。ほんとバカみたい」
 はー、と少女はため息をたっぷり吐いてから、オニラスを睨みつける。

「そんなバカなことに命かけてるヤツもいるんだよ。それをバカにすんな。マジでぶっ殺すよ?」

 射貫くような瞳。心臓が跳ねるかと思うほど、思いの満ちた言葉。シオンはオニラスが反論せずに若干後ずさりするのを確かに見た。
 この少女にはきっと、そういった友達がいるんだろうと思った。友達を侮辱されたのだから”キレる”のは当たり前だ。少女はそれだけその友達が好きなのだ。
 対してオニラスは、自分が気圧されていることを誤魔化そうとしていた。
「ハ、ハハハ、調子に乗るな。いくらガキでも遠慮しねえぞ!」
 怪物は再び怒号をあげて態勢を低くした。
 あ、とシオンの背筋に冷たいものが走る。あの構えはまずい。一瞬で懐まで飛び込まれてしまう――!
 目の前で空気の破裂音が轟く。
 シオンはやはり、オニラスの動きを目で追い切れなかった。
 だが、避けようのないボディブローをレモンハートが片手で受け止めていることが、理解不能だった。
「なんだと……!?」
「え、なに今の。おっそ。あたしの腹を潰せると思ったの? 今ので?」
 あえて強気な態度を示しているとか、そんな雰囲気ではなかった。表情でわかる。黄色い少女は本心から、今の攻撃が”しょぼい”と感じているのだ。
「なーんだ。ただのモブ怪人か。じゃあさっさと、死ね!」
 レモンハートは語尾を強めると、あろうことか、オニラスの股間を思い切り蹴り上げた。生き物の身体から発してはならないような音が響き、シオンは思わず両手で視界を覆ってしまった。
 目を見開きながら大事なところを押さえ、怪物はのたうち回った。
「ゴアアアアアアアアアアアアァアアァァァ二回目えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええぇぇぇぇ!!」
 今の蹴りは、シオンよりも当然強烈なものだろう。その痛みなど想像できるはずもない。
「二回目? へえー、おねーさん、こいつのあそこヤッたの? すごいじゃん」
 そう言って視線を向けてきたレモンハートの表情は、関心しているような色を表していた。
 そしてすぐに、悶絶しているオニラスへと目を戻す。少女の右手が何かを握っていることに気づいたシオンの口内に、唾液が湧き出てくる。
 それは熟したレモンだった。どこから取り出したのか全然分からないし、何よりこの状況でレモンを手にしている意味も謎すぎた。
 レモンハートは黄色い果実を、痙攣しているオニラスの口の中へと強引に押し込む。
「はい、もうあんた終わり。ヒーロー番組だったら今ここエンディングかかってるから」
 うまく吐き出せないのか、レモンを丸ごと口に含んだオニラスはもごもごしながら転げまわっている。
 ふーっ、とレモンハートは大きな深呼吸をした。
「飛、ん、で、けぇ!」
 少女の肉感的な太ももがしなる。抵抗できないオニラスの顔面を、問答無用で蹴りつけた。
 ぶぎゅえ、とかよく分からない呻き声と、口に入っていたレモンの果汁が飛び出す。オニラスはサッカーボールよろしく斜め上へと吹き飛んでいった。ゆうに五十メートルは飛んでいる。
 そして、背の高いビルの屋上を越えたとき――爆発した。
「え……?」
 文字通りの意味だ。オニラスの身体はダイナマイトだったかのように、爆散して消え失せたのである。
 一連の流れが全くもって飲み込めないシオン。これはドラマか何かの撮影ではないかと感じるほどに現実離れしていた。
「はー、あたしもバカみたい。あんなモブにマジギレしちゃった」
 目を白黒させるシオンをよそに、レモンハートは腰に手を当てて首を回している。
 騒動は終息した――シオンはそう理解した。途端に、安堵したせいか身体的な疲労と内臓の痛みが再び襲ってくる。
「ぅぐっ……げほっ……!」
 潰れた胃でわずかに残っていた胃液をゴポリと吐き出した。腹部でぐるぐると渦巻く痛みと嘔吐間で意識がぐらついたとき、肩に手が添えられる。
「おねーさん、これ食べて。かじるだけでもいいから」
 視界には黄色い果実が映っていた。小さく、薄く切られたレモン。はっきりと聞こえた声に言われるがまま、シオンはそのレモンを口に含んだ。
「んんっ……すっぱい……!」
「そりゃレモンだし」
 突っ込みを返されたシオンは、されるがままにレモンをそのまま飲み込む。
 すると、身体の重さがわずかに和らいでいることに気づいた。腹部の痛みまで次第に引いていくようだった。
 呆然としていると、レモンハートがいきなりシオンのむき出しの腹を撫でまわした。
「ぅひゃっ!?」
 少しひんやりとした手だったので、シオンはくすぐったくて変な悲鳴をあげてしまう。
「うわっ、あばら二本折れてるじゃん。ていうか胃とかもグチャってたっぽいんだけど。あたしならともかく……おねーさんってホントに普通の人?」
 疑いの目を向けてきたので、シオンは思わず目を逸らしてしまった。
 口をつぐんだ彼女の腹部から手を放したレモンハートは、その場に座り込んだ。片膝を立てた態勢でちょっと行儀悪いが、彼女の風格だととても似合っている。
「まー、詳しくは聞かないけど。いろいろあるだろうし、お互い」
 へへ、とレモンハートは微笑んだ。なんてことはない、女の子らしい表情だった。
「あ、あの……レモンハートさん?」
「なに?」
「……果汁系戦士って、なんですか?」
「分かんない」
 即答である。
「いや、ほんと分かんないの。急にこんな力を持っちゃってさ。意味不明」
「分からないまま戦っているの?」
「あいつらマジうざいんだよね。悪さしていると分かっちゃうんだわ。なんかこう、頭にキーンって来るの。ほんとやめてほしい」
 どうやら、この少女は正義感というものをほとんど持ち合わせていないらしい。それでも助けられたのは事実だ。
 シオンは背中を預けた状態から背筋を伸ばし、頭を下げる。まず、言うべきことがあった。
「……ありがとうございました」
「えっ? いや、いやいや、別にいいって。あたしが勝手にやったことだから」
 礼を言われることに慣れていないのだろう。 手をぱたぱたと振って慌てているレモンハートは、頬を赤くしていた。
 あー、と少女は頬を掻きながら、
「多分そろそろ人が戻ってくるかも。おねーさんも離れた方がいいんじゃないの」
「そう、ですね……」
「さっきレモン食べたでしょ? さすがに一日で骨までは治らないけど、二、三日すれば全快すると思うから」
 少女のレモンは、劇的な治療薬であるらしい。実際、腹部の鈍痛や吐き気がかなり軽くなっていた。怪物に食べさせた後に爆発していたのは気になるのだが――
 さて、と呟きながらレモンハートが立ち上がる。シオンはぴくり、と肩を震わせた。
「もしかして、記憶を消すんですか?」
「……へ?」
 首をかしげるレモンハート。
 アンチレジストは当然、一般人には知られていない組織だ。人妖の存在もそうである。もし知ってしまったとしたら、どうなるか。
 シオンは詳しく知らないが、力になる人物なら招き入れるし、役に立たないと判断されれば記憶を操作する――と噂されている。 
「あなたからすれば私は一般人のはずです。秘密を知ったからにはそれ相応の――」
「あ、あは、あっはははははははははははは!」
 突然、レモンハートは腹を抱えて爆笑し始めた。
 真剣に聞いていたのに、とシオンは少しむっとする。
「どうして笑うんですか!」
「いや、いやゴメン。だって、あいつと同じこと言うから」
 レモンハートは目じりに浮かんだ涙をぬぐっている。
「それなんの作品? アニメとか映画で見た? あはっ、それフィクションだから。んなめんどいことやんないって――でもあいつならやってそう。無意味に」
 めんどい、の一言で片づけられてしまった。あまりにもざっくりとした返答だったので、シオンも言い返せなくなってしまう。
「それにさ、今日みたいなこと話したって、誰も信じないっしょ」
 あっけらかんとしているレモンハートは、遠くで鳴っているサイレンに反応した。
「あ、マジでそろそろ行かなきゃ」
 背中を向けかけた黄色い少女に、シオンは慌てて声を張り上げる。
「ま、待って!」
「ええー? 今度は何?」
「また、会えますか?」
 思わずそう尋ねていた。
 もう少し少女と話をしたかった。こんな数分だけの関係にしたくない――シオンは純粋に、レモンハートと繋がりを持ちたいと感じているのだった。
 目をぱちくりさせていたレモンハートは、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「えーっと、あたしが出てくるってことはさ。あんま良くないんだよね。怪人が暴れてるってことだから」
 んー、と少女はわずかに考えてから、
「じゃあさ、ピンチになったら名前呼んでくれる? あたしの顔を思い浮かべながら。そしたら飛んでいくよ」
 自信に満ち溢れた声と、屈託のない笑顔。
 安心させるための見栄とか、嘘とか、そんなものじゃなかった。レモンハートは紛れもない事実を語っている。
 すぐに駆けつけられるだけの力を持っているのだ。だって彼女は、果汁系戦士なのだから。
「あ、ほんっとーにどうしようもない時じゃないとダメだから。掃除を手伝って~、とかはナシ」
「あははっ、私の恰好、何に見えます?」
 シオンは、足を少し震わせながらも立ち上がった。そこまで回復していることに驚きつつも、腕を広げる。
 別にメイドという職業についているわけではないのだが、レモンハートは納得したようだった。
「そっか、掃除得意そう。それに、おねーさんすっごい強いみたいだし、心配ないか」
「あと、私の名前はシオンです。如月シオン」
 名乗りながら手を差し伸べると、レモンハートはひんやりとした手で握り返してきた。
「ん。なんか楽しかったよ、おねーさん」
 名前を知っても、少女の呼び方は変わらなかった。その呼び方がなんだか気に入っているようにさえ見える。
 サイレンの音が次第に大きくなってきた。その音は別れを告げる報せのようにも聞こえて、シオンは胸の奥にちくりとした痛みを覚える。
「それじゃあね、バイバイ」
 手を解いたレモンハートは、背中を向けて駆け出して行った。途中、ぐっと両膝を曲げたかと思うと、トランポリンでも踏んだかのように驚異的なジャンプを行った。
 電柱やらビルの窓の淵やらで器用に足をかけ、どんどん上へと登っていく。
「わぁ……」
 それこそ、映画で見るような光景だった。シオンはどこか恍惚とした表情でそれを見送っている。
 やがて黄色い少女の姿が見えなくなると、耳元で雑音が鳴り始めた。
『――さん? シオンさん!』
 オペレーターの声だ。今のままで、本部との交信がストップしていたのだった。
「あ、は、はい!」
『ああ、よかった、無事なのですね。急にシオンさんの声が聞こえなくなってしまって。それに、いつのまにか不審な反応も消えています。何があったのですか?』
 インカムを押さえつつ、シオンはレモンハートが去っていった方角を見上げる。
 実際に調査を行うという任務に就いている以上、経緯を報告するのは義務だ。起きたこと、出会ったもの――隅々までをボスであるファーザーに共有しなければならない。
 組織の一員として判断を問われるべき事項であるが、シオンの心情はどこか余裕さえ見せていた。
「いえ、人妖関係のものは見つかっていません。ここは電気街ですし、そういったものが反応しただけけではないでしょうか」
 隠す、などという考えは持っていない。命を助けてくれた少女を『売る』なんて、するわけがない。
『なるほど、確かにその可能性も否定できませんね。念のためもう少しだけ調査をお願いします。今後については改めて連絡しますので』
「了解です」
 頷いてから、インカムの通信を一時的にオフにする。
 再び、黄色い少女が去った先に視線を向けた。
『怪人』と呼ばれていた存在、アンチレジストが処理している『人妖』。世界には、自分たちの知らないところで何かが蔓延っている。組織だけでは解決できないようなこと、いや、人間だけではどうにもならないことが起きるかもしれない。
 そんなとき、黄色い少女は――果汁係戦士は来てくれるだろうか。
 今日はいろんなことがありすぎた。あまりにも怒涛だったので無理やり付いていくしかなかったし、とにかく喉が渇いている。
「ん……レモンって、紅茶の香りが消えちゃうんですよね……」
 サイレンはすぐそこまでやってきている。シオンは自分のコートを拾おうと、そちらへ歩を進めた。


 C地区で何やら騒ぎがあった日の翌週。
 別に大きなニュースでもなかった。酔っぱらいが喧嘩したとか、電子機器が誤作動で一斉に緊急地震速報と流したとか、あまり気にならない程度の出来事だったらしい。
 今日は休日ということもあって、そんな騒ぎなど遥か過去であるかのように、人でごった返していた。
「あ、ほらほらあの看板! 仮面マスクナイトの新作映画!」
「あー、あれね」
 同年代であろう少女二人が肩を並べて歩いている。一人は見るからにうきうきとした足取りで、もう一人はそれに付き添っているという雰囲気だった。
「来月よ来月! ずっと楽しみにしてたの! もう予告編だって百回くらい見た! 劇場版だけの変身ポーズがあって、それがこう、右手がこの辺りから」
「だーーー! こんなところで変身ポーズ取らないでよ、恥ずかしいでしょ!」
「わたしは恥ずかしくないわ!」
「あたしが恥ずかしいんだよ! 横にいるあたしの身になってみろっつーの――」
 ふと、一人の少女は周囲の視線が、自分たちではない別のところへ集中していることに気づいた。

 パシャパシャとシャッター音が響いていた。一般的なスマートフォンや、明らかにその筋の人間であろうカメラを持った人たち。
 たくさんのカメラが向けられている先には、二人のメイドが立っている。それぞれ、細部が違うメイド服を着ていた。
 左にいる黒髪のメイドは慣れているのか、向けられたカメラに笑顔を振りまいていた。手にチラシを持っているから、この辺りでバイトでもしているのだろう。
 対して右にいる金髪のメイドは、あたふたしているものの、隣にいる黒髪メイドと写真を撮られて嬉しそうだ。
 ツインテールが煌びやかで、スタイルも見惚れてしまうほど洗練されている。黒髪のメイドよりも視線を集めているようだった。

「なんだ、普通のメイド服もあるんじゃん」
 彼女たちを眺めている少女は、ぽつりと小さく呟いた。
「どしたの? 知ってる人でもいた?」
「――ん? あー、うん」
「声かけてきたら? 約束までにはまだ時間あるし」
「いや、いいよ」
「いいの?」
「いいの。ほら、さっさと行くよ」
 友人の肩を押しながら、少女は歩みを再開する。
 そうしながらもう一度だけ金髪のメイドへと視線を向けた。あちらも視線に気づいたようだったが、すぐに周りのカメラへと顔を戻す。
「ま、そりゃ気づかないよね」
 少女は微笑みながら、その場を歩き去っていった。
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