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★設定屋さん

 西野綾香は、以前から気になっていた飲食店のポップにある『レディースデー』という文字に顔をしかめた。
「なによこれ……帰ろ」
 ヒールが強くアスファルトを踏み鳴らす音。その音で、彼女がイラついているのは傍から見ても分かるだろう。
 綾香は、一言でいえば「デキる女」である。
 高校を卒業してすぐにデザイン会社へ就職し、二十歳でチームをまとめるリーダーになった。そして二十五歳の今では、複数のチームを管理する立場にまで出世した。そのうち、拠点を統括するポジションにまで登りつめるだろうと言われている。
 上司やクライアントの期待には十分応えてきたし、綾香自身も自分の能力に自信を持っている。
 学生の頃から陸上部で身体を鍛えていて、今でも運動や筋トレは継続中だ。次第に「可愛い」といったものを表すにはキツい年齢になってきたが、鍛えているおかげか若々しいエネルギーに満ち溢れている。
 同性からは憧れの存在である彼女は、人間の本質的なところに不満を持っているのだった。
「女って理由で特別扱いされて、何が嬉しいっていうのよ」
 思わず独り言を漏らすくらいに、綾香にとっては大きな問題といえた。
 身近なところでいえば、先ほどの『レディースデー』である。
 女性であれば料理が安い、映画が安い、何かしらおまけが付いてくる――
 性別に左右されず、一人の人間として積みあがってきた綾香には、この手のやり口を強く嫌悪していた。
 女も男も同じ人間だ。子供と大人での違いこそあっても、性別によって優遇されたりする理由が見当たらない。
――西野さん、女性なんだからもっと愛想よくできないの?
 忘れかけていた上司の言葉が思い起こされて、綾香はさらにイラついた。これは、職場環境の問題について抗議したときに言われたことだ。
「女だからなに? おしとやかにしろって? ふざけんな」
 街灯がともり始めた道で、彼女は不満の思いを口から吐き出し続ける。
 いつも通っている道。こうして文句を垂らしながら歩いている道。それなのに綾香はどこか違和感を抱いた。
「……あれ、こんなのあったっけ」
 本屋がある。いや、それ自体は別におかしくないが、いつも通っている道なのに今まで気づかなかったのが不思議だ。まるで初めて訪れた土地であるかのような感覚。
 表札みたいな看板には『設定屋』と彫られている。
 無意識のうちに、綾香は『設定屋』の扉を引いた。木の扉が軋みながら開き、内部の光が視界に差し込む。
 古本屋だ、と綾香は印象づけた。くすんだ色の本棚。収まりきらずに平積みされた本。乾いた紙の匂い。それら一つ一つが、綾香の苛立っていた心の色を洗い流していく。
 視界の奥。カウンターらしき大きなテーブルを隔てて、一人の少女が視線を返してきた。
「こんばんは」
 少女の声は小さいのだが、妙に鼓膜へ響いた。脳に直接話しかけられたかと思って、綾香は肩を少し震わせた。
 店番をしているアルバイトなのだろうか――真っ黒な長髪は肩よりも下まで伸びており、肌は対照的に白くて透明感がある。
 これまた古風というか、紺のセーラー服を着ている。いわゆる『文学少女』といった様相を呈している少女は、じっと綾香を見つめている。
「あ、えっと……」
 どうしよう、と綾香は焦りつつも、本棚を見回す。彼女自身、特に小説などを好んで読むわけではない。こういった古本屋はサブカルな雑誌なんて置いてなさそうだし――
「ついここに入ってしまったのでしょう。構いませんよ」
 少女はつり目気味の瞼をゆっくり閉じてから続ける。
「あなたはこの世界に不満を持っていますね」
 ぎくり、と綾香は少女を凝視してしまった。
 どうしてだろう。少女は目を閉じているのに、心を見透かされている気がする――よく本を読んでいるから、洞察力が高いのだろうか。
「別に驚くことではありませんよ。むしろ不満を持っていない人間なんていません。わたしも例外なく」
 少女は瞼を開き、天井を軽く仰いだ。
「この世界は気に入らない設定が多すぎる。そう思いませんか?」
「――あの、なんの話なのかさっぱり……」
 なんだか――宗教的な、怪しいお店に入ってしまったのかもしれない。綾香はそう感じたが、不思議とこの少女に嫌悪感を抱かなかった。
つらつらと間を置かない話し方だが、読み聞かせるような声に聞き入ってしまう。
 そして次の言葉に、綾香の胸はどきりとした。
「女と男の違いとか知ったことじゃないって考えていますよね?」
「え……? なんで知って…?」
 思わず一、二歩後ずさるくらいに動揺した。
「あなたがそういう人だからです。よくある設定なので珍しくもありません」
 少女はゆっくりと立ち上がった。読んでいた本を閉じてから、
「この本には世界の設定が全て書かれています。この意味が分かりますか」
 と、さらりとした口調で伝えられた。あまりにも普通のトーンで話すものだから、綾香もその意味をよく拾いきれなかったというか、単純に理解できなかった。
「無理もないですね。ではこちらへ来てください。直接お見せします」
 少女は再度本を開いてぱらぱらとページをめくる。
「は、はぁ……」
 ちんぷんかんぷんな綾香は、なんでこんな店に入ったのだろう、と改めて自問した。しかし、少女は悪い人ではなさそうだし、ちょっと興味も湧いてきたのも事実だった。
 すぐ目の前まで寄っていくと、少女は本の半分くらいのページのところで指を当てた。
「ここがあなたの設定ページです」
「……え?」
 西野綾香――大きく印字された文字と顔写真。ぞくりと綾香の背筋が震える。さらに、横書きで羅列されている文章に目を剥いた。
 生年月日、年齢、正確、出身、学歴、職歴、家族構成、はてはスリーサイズまで。そのほかにもたくさん、個人情報といってもいい事項が所狭しと書かれている。
「な、な、なんでわたしが本に載ってるの? しかもこんな、誰も知らないことまで!」
「言ったでしょうあなたの設定ページだと。ここに年表もあっておそらくこの先――」
「待って待ってやめて! 言わないで!」
 目をそらしながらとっさに手で制す綾香は、胸の鼓動が早まっていることを自覚した。
 信じたわけじゃない。突然とんでもないことを突きつけられたものだから、理解がほとんど追いついていなかった。
 ただ、このページの全てを読んではいけない気がする。それだけは分かるのだった。
 でも少女はそんな綾香の動揺など気にも留めない。
「それでは手っ取り早く髪にしましょう。ここに『黒のショートヘア』とありますね? ここに――」
 テーブルに転がっている鉛筆を手にすると、【髪】という項目に、
『茶色のポニーテール』
 と書き加えた。そして印字されていた『黒のショートヘア』には二重線を引く。
 小説などはほとんど読まない綾香でも、少女がいま何をしたのか、なんとなく察しはついていた。が、そんな馬鹿なことがあり得るのかと、まだ半信半疑の状態だった。
 それでも、心臓の早い鼓動は鳴りやまない。文字から視線を外せない。
「あちらの鏡を見てください」
 テーブルのすぐそばに設置されている姿鏡。少女の声に促されるまま、おそるおそる視線をそちらへ向けた。
「うわっ……」
思わず声がもれる。
髪型が、そっくり変わっていた。『茶色のポニーテール』に。
「こうして設定を変えることもできるのです。もうお分かりですよね」
「し、信じられない……! 魔法みたい!」
 綾香は髪の尾を手で触れた。引っ張ると頭皮が痛いし、手触りもいつもと同じ。間違いなく自分の髪だ。
 ここでようやく、綾香にも一つの可能性に気づいた。
「あの、それって、人じゃなくてもいいの?」
「ある程度は自由に設定できますがあくまでも地球ベースの本ですので。たとえば『宇宙で呼吸ができる』は無理ですが『地球は呼吸ができない』は可能です」
 あまりにも極端な例だったが、綾香の理解を得るには十分だった。
 自分が望むような世界に変えることだって、できるということなのだ。しかし、そんなとんでもない本をどうしてこの少女が持っているのか。
 この店はいったい、何なのか。
「試してみますか?」
「え? い、いいの?」
 正直なところ、綾香が期待していた言葉だ。だが、こうもあっさりかけられると逆に不安になってくる。
「ほら、その、お金とかは……」
「必要ありません」
「それじゃ、他に何か取られるとか」
「いりません。寿命とか魂を取るのは悪魔や死神のやることですし私は違います」
 じゃああなたは何者なんだ、と綾香は率直な疑問を抱くものの、それを尋ねるのはどうもためらわれる。深入りするのは危ない――と直感的に思ったからだ。
 そう簡単に安心はできない。が、少女が嘘を言っているようにも見えないのだった。
「本の所有者である私が書かなければ変わらないのでその点はあらかじめご了承を。それではご希望の設定を教えてください」
 ページをいくつかめくって、鉛筆で止める。
 そのページには何が書かれているのか――綾香は好奇心をそそられたが、心のどこかでストップをかけていた。
 知ってはいけないことまで書かれている気がする。だから彼女は好奇心を今は振り払って、一つの心情を吐露した。


 翌日。
 綾香はそわそわしながら自分のデスクへ腰を下ろした。
 もう、彼女自身はあの店で出会った少女のことを信じて疑っていない。朝起きて、駅まで歩いて、電車に乗って、会社に着くまでに確信を得ていた。
「西野さん、これ十五時までにまとめといて」
 年下の女にへらへら鼻の下を伸ばす上司も、
「先にお昼失礼しまーす」
 女性社員をいつも食事に誘うはずの同僚も――どの男性も、まるで異性に興味を失ったかのように淡々としている。
 あの少女に告げたのは、『性別で態度を変えない』という言葉だ。本にどう書かれたのかは分からないが、とにかく、綾香が想像していたとおりの世界になったことは間違いない。
 男や女の態度でもうイライラすることがない――そう思うと、妙にうきうきとしたテンションになってくる。だって、自分の理想と感じる世界がもう訪れたのだから。
 
「ふふっ」
仕事を終えた綾香は上機嫌で通りを歩く。
 今日はイラつくこともなかったから効率的に業務を進めることができたし、男から下心丸見えの言葉もかけられなかったし、社内でもそんな光景を見ることもなかった。みんな自分のことに専念していて、とても心地よかったのだ。
そして、再びあの店に行こうと思っていた。お礼を言いたいし、なにより、もっと自分の思い通りにできると考えたからだ。
 あの曲がり角の先に『設定屋』がある。綾香は無意識にスキップでもしそうなほど浮かれた気持ちで店を目指した。
 曲がった瞬間に、ドンッ、と肩に衝撃を受けた。ほとんど周りを意識していない状態だったから、反対側から歩いてくる人物に気づかずぶつかってしまったのである。
「いってえな。おい」
 若いのに、無理やりドスを効かせようとした感じの声。
 見れば、髪を薄く金色に染めた青年だった。綾香は同年代の女性と比べて若干背が高いし、青年と同じくらいだ。
「あ、すみません」
「いてえっつんだよコラ。折れてるかもしれねえだろ、大人なら誠意見せろや」
 うわ、と綾香は顔をしかめる。面倒くさいヤツに絡まれた。設定屋はすぐそこにあるのに。
 せっかく今日は良い気分だったのに、こいつのせいでまた苛立ちが帰ってきた。
「だから、謝ってるじゃないの。ていうかそれくらいで折れるわけないでしょ」
「あぁ? ぶつかっといて何だよその態度。おい、ちょっとツラ貸せや」
「はい? 何なのあなた、初対面で――」
 失礼なヤツだ、と思いをぶつけようとする前に、頬に衝撃を受けた。
「ぶっ……!?」
 ――痛い。
頬が、痛い。
「おら、こっち来い」
 折れかけた膝では満足に抵抗できず、腕を引っ張られるままに路地の裏へと連れていかれる。
 ひりひりとした刺激で、綾香はようやく殴られたことに気づいた。平手ではなく、握り込んだ拳で。
「な、なにするの! 放して!」
「うっせーな、お前からぶつかってきたんだろうが! 土下座すりゃ勘弁してやるよ!」
「ふざけないでよ! 誰が土下座なんか……!」
 普段から、男に負けたくないと考えている綾香だ。素直に謝るはずもなく、こんなくだらないことで土下座なんてしたくない。
男の言いなりになんか、なりたくない。
 その意思を持ちながら生きてきたし、精神だけでなく肉体的にも彼女は鍛えてきたのだ。
 幸い、青年はそこまで大柄ではない。綾香は彼の腕を強引に振りほどいて、一瞬驚いたそいつの顔に、思い切り平手打ちをくらわせた。
 小気味良い音が路地裏に響き、瞬時に静まり返る。
 少しだけたたらを踏んだ青年は、頬を押さえながら綾香を睨み返した。
「何だ、やんのか」
「う……相手が女だからって、強がらないでよね!」
「あ? 何言ってんのお前、意味分かんねーよ」
 明らかに苛立っている青年が右手を伸ばしてくる――その手首あたりを綾香は手の甲で弾き、わずかに膝を曲げて重心を置き、青年の腹部めがけてストレートパンチを放った。
 唯一習っていた、護身術である。今回が初実践であるが、何度も練習してきたこともあってほぼ確実に対応できた。
「――ぃたっ!?」
 しかし、呻いたのは綾香の方だった。思い切り打ち放った拳は確かに青年の上腹部をとらえたが、乾いた音を立てて弾かれてしまったのだ。
 仮にも筋力トレーニングを積んできた綾香だ。薄く張った筋肉は並の男よりパンチ力はあるはずだったのに、青年にはまるで通じなかったのである。
 へえ、と青年は少し関心したようだった。
「結構やるじゃん。腹に力入れてなきゃダウンしてたぜ」
 力を入れていた、というのは何の気休めにもならなかった。綾香は自分のほぼ最大限の力がほとんど通じなかったことにショックを受けていて、動揺を隠しきれない。
「そっちは二発殴ったんだからな。まだ殴らせろよ」
「はあ? 本当にどうしようもないわね……!」
 苛立ちの火がさらに強まり、綾香は負けじと青年を睨み返した。
 先に手を出してきたのはそっちなのに。ちょっとぶつかったくらいで、いい歳してキレちゃってカッコ悪い。
 なによりも、声を大にして言いたいことがある。
「それに、女を殴るなんて最低! みっともない……!」
 見知らぬ相手に暴力を働くなんて当然おかしいし、女を殴る男なんてどうかしている。常識の欠片さえ持っていないのか。
 青年は、「は?」と眉をひそめる。
「あのさ、さっきからなに言ってんの? 女だから何だよ」
 理解不能、といった表情だった。本当に。
 綾香はそこで、胸の内がざわりとする感覚に陥った。その正体が何なのか気づく前に、
「ぅぐっ……!」
 青年の拳が、腹部に入っていた。
「っ、ぇ……!? げほッ!」
 目を白黒させた綾香は大きく咳き込み、体をくの字に折って苦悶する。
 体を鍛えて護身術を習っていたといっても、別に格闘技ができるわけでもない。対して青年は慣れた様子で殴ってきた。何の躊躇もないボディブローだった。
「女だからってカンケーねーだろ。おい」
「う、ぅぅ……!」
 ようやく、綾香は自分の矛盾点に気が付いた。
 今まで自分はどんな思いで生きてきた?
 優遇されているのが嫌いで、女という理由で人格まで注意されて、女に媚びを売る男がみっともなくて。
『女を殴るなんて最低』
 だったら、どうしてこんな言葉が出てきた?
 性別で扱いを変えない世界を望んだのは、誰だ?
 綾香は自分の意思を取り戻そうとする。しかし、殴られたという事実、加えて、腹の痛みがそれを邪魔し、心がふらふら揺れるばかりだった。
「あー、最初にぶつかってんだから、全部で三発だな。じゃあと一発殴るわ」
 青年の口調は、“相手が女でも”容赦がないようだった。
この世界では男女の区別がないのだから、当たり前なのだ。
「い、いやぁっ……!」
「なよなよした声出すな、むかつくんだよ!」
 青年は右腕を大きく振りかぶった。まっすぐ顔面を狙う構えだ。
「ひッ……!」
 とっさに腕で覆い隠す。
 だが、鈍い音は再び腹部から聞こえた。
「ぅっぶ……!?」
 顔を守ろうと両腕を上げた瞬間、無防備になった腹を狙われた。
 体を持ち上げるようかという拳は、ブラウスに隠された綾香の腹へと沈み込む。鍛えているはずの腹筋が、めりめりと音をたててへこんでいく。
「ぐっ、ぶぁ……ッ……むぐっ!」
 肺を圧迫されたことで、押し出されるようにして空気と唾液が口からこぼれた。見開いた目には涙が浮かび、視界が滲む。
 ガクガクと膝が震え始めると同時に、喉の奥から何かがこみ上げてきた。腹に突き刺さっている腕から手を離し、反射的に口を押さえる。
「へっ」
 綾香の悶絶ぶりにほくそ笑んだ青年は、彼女の腹に拳をさらに深く押し込んだ。
 ぐりっ、とブラウスに反時計のねじれが生じる。
「ぅう゛っ」
 音をたてて軋む内臓。綾香は濁った呻き声を洩らし、目を白黒させた。
「ッ、ぇっ、ぐぷっ!」
 喉の奥からのぼってきた酸味に身体が震え、綾香は耐えきれずに胃液を吐き出した。
 ある程度鍛えていたおかげなのか、もろに胃の中のものを嘔吐することはなかった。しかし、勢いよく吐いた胃液は青年の腕にかかり、彼をまたしても逆上させる。
「おいおい! きたねえだろ!」
 青年は拳を引き抜くと、びくんと痙攣する綾香を突き飛ばした。
「いっ……! かはっ、けふっ」
 塀に背中を強打し、残り少なかった酸素が全部飛び出した。
 綾香は塀を支えにしながらずるずると尻もちをつく。そのまま、腹部を抱えるようにしてアスファルトに横たわった。
「ぅぅっ、ふっ、う゛え゛ぇぇぇっ、けほっ」
 痛い。お腹痛い。気持ち悪い。
 いまだに痛みの引かない腹部と、視界がぐるぐる回るような嘔吐感。粘ついた唾液が溢れて止まらない。
 悶え続ける綾香は、次に起きることを予感していた。
 ここは人気のない路地裏で、もう夜になろうとしている時刻。力の強い男が、女を殴りつけて抵抗できないようにしている。
 こいつは他人を躊躇なく殴るような男だ。これだけで済むはずがない。
 綾香の下腹部の奥で、何かがうずいた。防衛本能が働いて、そちらも一緒に抱えてうずくまる。
「けふっ、や、やだぁ……! ぜったい、いや……!」
 涙もぼろぼろと流れてくる。無様とかそんなこと言ってられない。なんとか脱出する方法を考えなければ――
「ったく、冷めたわ。もういいよお前」
 心底興味なさそうな声だった。
 え、と綾香はうずくまったまま、遠のいていく足音を聞いている。痛みをこらえながらおそるおそる顔をあげると、青年の姿はすっかり消えてしまっていた。
 助かった、と言えるのか。
「うぅ……」
 だが、綾香の心にはなぜだか引っかかるものがあった。海の底にあるような感じ。
 そして、それを掬い上げると、涙がさらに溢れてきた。殴られた腹部が痛いとか、吐きそうだからじゃない。
 自惚れだと思われたっていい。だ女として襲われなかったことが、悔しい。
 女を人気のないところに連れ込んで、ぼこぼこにして、逃げられなくして、それで終わりって――
 いや、今この世界は、どういう常識なんだっけ。
 それを考えると同時に、綾香は自分の愚かさも自覚するのだった。
 誰よりも女としての意志を持っているのは、他でもない自分だということに。

 生気を失った表情で、綾香は『設定屋』の扉を開いた。
 なぜだか懐かしい感じがする紙の匂いと淡い電灯。黒髪の少女は、昨日といつもの恰好で椅子に座っていた。
「こんばんは。随分とお疲れですね」
 やはり無表情で少女は言った。何があったか知らないはずなのに、少女にはすべてが御見通しのような気さえする。
「自分の望んだ世界にはなりませんでしたか?」
「あ……」
 どう答えたらいいのか分からない。
 確かに綾香の願いは叶えられた。女だからって優遇されない世界。女だからってちやほやされない世界。女だからって色目を使われない世界。
 でも、さっき分かった。
 自分自身が、女であることを盾にしていたこと。
――女だから、なんだっていうんだ。
簡単なことだった。“そういうことを言える女”であることに悦になっていただけ。有り体にいえば、自分に酔っていたのだ。
 なんて情けない。なんてみっともない。世間や他人のことをあれこれ突っ込むくせに、肝心の自分は――
「……戻して」
 自然とそう口にしていた。
「よろしいのですか?」
「いい。自分のこと、よく分かったから」
「なるほど。それではあなたが変更する前の世界に戻しますね」
 淡々の少女は答える。その表情からはやはり何も読み取れない。
戻すよりも、また別の設定で世界を変えることだってできる。しかし、精神的にも肉体的にも疲弊した綾香には、もうどうでもよかった。
「人は何かに直面して初めて自分自身を知るのです。あえて偉そうに言わせていただきますがあなたにはいい経験になったことでしょう」
 まるで、昔から知っているかのような口ぶりだった。
 ぞくりと綾香の心臓が震える。
 目の前にいる少女は、単なる書店の店員ではない。世界の常識を変えることができる本なんて、そんなおかしな本を持っていること自体、疑問が浮かんでくる。
 だって、この少女だって自分の好きなように変えることだってできるはずだ。それをどうして、他人である綾香に試させたのか。
 そもそも――今の世界はどうやってつくられたのか。
 あっ、と綾香は声をあげた。その時にはもう遅くて、少女は本へと鉛筆を走らせていた。
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