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【skeb】★新堂恵美は目を逸らさない

skebのリクエストを納品しました。
https://skeb.jp/@otoha_39/works/1
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 どうしよう、と新堂恵美は焦った。
 ここは狭い路地裏で、表側の通りはそもそも人気がほとんどない。しかも、治安もお世辞には良いとは言えないから、仮に大声を出しても誰か来てくれるのかさえ怪しかった。
「いけないなぁ、女の子が一人でこんなところに来ちゃ駄目だろ?」
 道を塞いでいる男数人のうち、リーダーらしき坊主頭がにやにやしている。
 傍から見ても、恵美がただ単に注意されている、という雰囲気ではないことがうかがえる。男たちは明らかに彼女目当てで近づいてきたのだった。
(ネコを追いかけてきたらいつの間にかこんなところに……やっちゃった……)
 恵美はできるだけ表情が崩れないようにしながら、ランドセルの肩紐をぎゅっと握った。小学生にしては凛々しく、切れ長の目で男たちを見上げる。
「なんの用ですか? 帰りたいんですけど」
「ふん。おい、お前だろ? オレの弟をボコったのは! 中村雄二だよ!」
 あ、と恵美は坊主頭の顔に、なんとなく面影があるのを感じた。確か、兄である彼は雄一というはずだ。高校二年だったと思う。
 小学生の恵美も、この状況にはすぐ察しがつく。弟の仕返しをするつもりなのだろう。
「ボコったって、何ですか。悪いことしてたの中村くんじゃん!」
 つい先日のこと。クラスメイトの男子が雄二にイジメられているところを、恵美は学校帰りに発見した。
 カチンと来た。雄二は恵美の両親が営んでいる空手の道場に通っている。だから彼の行為に、両親の清く正しい道場を汚されたように感じて、気づいたら雄二に飛びかかって殴りつけていたのだった。
「女のくせにイキがりやがってよォ。お前も弟と同じ気持ちを味わわせてやる」
 指をポキポキ鳴らしながら、雄一と取り巻き二人が近づいてくる。
(小学生の女の子相手に、なにやってるんだろ、この人たち……!)
 恵美は苛立ったが、さすがに高校生三人相手は分が悪い。
 坊主頭の雄一と、取り巻きは帽子をかぶった奴と、メガネの人。
 もっと厄介なのは、雄一も弟と同じく、何かしらの格闘術に長けているだろう。半袖から伸びている腕は他の二人と比べても明らかに筋肉量が違う。
 なんとか隙をついて逃げたい。恵美は呼吸をできるだけ乱さないように、意識を張り巡らせる。
 そこへ、視界の端からサッと飛び出してくる影があった。
「あっ」
 黒猫だった。恵美がこの路地裏に入り込んでしまう原因となった猫である。
 彼か彼女か分からないが、黒猫はこの状況を理解していないだろう――よりにもよって雄一の足元に近づいていった。
「あァ? なんだよクソ、邪魔だ!」
「あ、だめっ!」
 思わず叫んだが、雄一は黒猫を空き缶のように蹴とばした。さすがに本気ではなかったようだが、それでも苦しげな声を漏らした黒猫は脇へと転がっていく。
「――ッ!!」
 頭に血が上って、一瞬だけ何もかも忘れる。
 恵美はランドセルを一瞬で背中から降ろすと、雄一の顔面目掛けて投げつけた。
「うおっ!?」
 視界を塞がれてうろたえる雄一に、一呼吸のうちに肉薄する。体格差は歴然だが、ちょうど腹部が目の前にある恵美は、彼のボディに拳を思い切り打ち込んだ。
「むぐッ!?」
 ダメージを受けている声は聞こえたが、恵美は拳に返ってきた感触に動揺した。相当鍛えているのか、拳に痛みがあるほどだった。
 その動揺が失敗になる。
「ユ、ユーイチさん!? おい、捕まえろ!」
 瞬間的な動きで戸惑っていた取り巻きの二人が、片腕ずつ掴み上げられる。体格差は歴然で、恵美は簡単に持ち上げられてしまう。
「は、離してよ――!」
 逃れるためにもがくと、取り巻き二人の腕がぐいぐい揺れ動く。
「うわっ!? な、なんだこいつ、力つえぇ!」
「両手で押さえろ! 両手で!」
 高校生男子二人がかりで、女子小学生の片腕をしっかりと掴んだ。そうでもしないと、恵美を拘束することさえできないのだった。
 恵美はなおももがくが、足が離れているせいか力がうまく入らず、宙に浮いた両足がバタバタと揺れるだけに終わる。
 腹部にストレートパンチを受けた雄一は、軽く咳き込みながら恵美を睨みつける。
「このやろ……ガキのくせに、何だこの力……!?」
 痛みを感じたことが信じられないのか、雄一は少女の肌を隠すような長袖を掴む。
「か、かってぇ。筋肉ハンパねえぞこいつ!」
 続いて彼はおもむろに、恵美のシャツをまくり上げた。
「きゃっ――!」
 恵美が女の子らしい声を漏らすと同時に、三人の少年たちは、あっと驚愕する。
 そこには、小学生の――しかも女の子とは思えないほど、六つに割れた腹筋があった。
 決して、痩せすぎているというわけではない。
 いったい、こんな小さな体格でどれだけ鍛えればこんなに筋肉がつくのか――三人はある種、恐怖を覚えたことだろう。
 特に雄一の理解は早かった。彼は、実はボクシングジムに通っている。だから、単なる筋トレでこんなに筋肉が付くわけないということが、すぐに分かったのだ。
「っ、ユーイチさん、だ、大丈夫っスかこれ? こいつの家、なんかやってんじゃないんスか?」
 帽子を被った方が怖気づいたように、リーダーの顔色を窺っている。
 それを知らないで突っかかってきたのか、と恵美は彼を睨む。遥かに小さな子供の視線に、ビクッと震えた。
「空手やってんだよこいつ。それだけだ!」
「け、けど……」
「うっせ、ガキにビビってんじゃねえ! オレは弟ボコられてんだぞ? このまま帰れっか!」
 やかましく声を荒げる彼に、恵美は嫌悪感を抱くものの、弟のために行動するというのは、なんだか気持ちが分かる。
「お前らしっかり捕まえてろ! その生意気な腹、ブッ潰してやる……!」
 右の拳が握られたのを見て、恵美は息を軽く止めて、腹に力を込めた。彼女の美しく割れた腹筋が、さらに深みを帯びて凹凸がくっきりと現れる。
 ゴッ、と音がした。
 およそ、拳と腹がぶつかった音ではなかった。
「ぎッ……!」
 恵美は歯を固く食いしばる。
 鋭い一撃は、さすがに痛みがあった。
 対して雄一はというと、多少ではあるが口元が緩んでいる。
「へ、へへッ、なんだ、普通に効いてんじゃねーか」
 さすがに鍛えている男子高校生のパンチは、まともに受け止められるものではなかった。自分はまだ小学生で、筋肉が完璧に整っているわけではない。
(三人のくせに……! むかつく……!)
 少なくともこんな状況は、正々堂々な試合でもない。まともに抵抗できないことに、恵美は苛立ったし、悔しい気持ちで泣きだしそうだった。
「おら、かわいくもなんともねえその腹、しっかり力入れとけよなァ!」
 表情を曇らせている恵美を見て、雄一はいくらか余裕を取り戻していた。黒い瞳にぎらついた光が宿って、日ごろから何十発と打ち込んでいるであろうパンチを繰り出していく。
「ふッ! くっ! ふゥ゛――!」
 一発打たれるたびに、幼い体がブランコのように揺れる。
 雄一の拳は、鍛えているだけあって凄まじい威力だった。
 普通の女子小学生だったら、こんな力で殴られたら内臓なんてすぐに破れて、死んでしまうかもしれない。
 耐えることができているのは、恵美だからだ。
 だが、やはり小学生という体はまだまだ幼く、彼女は今も「成長途中」であって、打撃を受け止めるだけの強さは、精神的にも持っていなかった。
 顔をうつむかせて、容赦ない打撃をこらえる。
「い゛っ――! くはっ、はぁ、はぁ、ぇぐッ! あ゛っ――!」
 加えて、雄一は男であり高校生だ。単純に体力の差もある。時間をかけられたら、恵美の方が先に崩れてしまうことは明白だ。
 彼もそれを分かっているから、あまり勢いに任せず、吟味するかのようにボディブローを打ち込んでいる。
「ははっ、どうだおい、痛ぇか? 痛ぇんだろ?」
 少し汗を流しつつも、雄一が顔を覗き込んでくる。
 彼はニヤついた顔だった。抵抗できない女子小学生を好き放題殴ってる男の顔。
 じんじんと痛みを帯びてきた恵美は、そんな雄一の表情を見た途端、痛みを一瞬忘れた。
 端的に言うと、めちゃくちゃむかついたのだ。
 だから、先日父親と一緒に見た映画のワンシーンみたいに、
「ぷっ!」
 唾を吐きかけてやった。
 鼻のあたりに飛んで、ニヤニヤした顔が間抜け面に見える。
「けほっ――、だっさ、タマついてんの?」
 これも映画の真似だ。意味はよく分からないのだが、男をバカにする言葉だと父親が教えてくれた。
 ピリッ、と空気が張り詰める。
 両腕を掴んでいる取り巻き二人が、少し震えているように見えた。
 雄一はというと、いやらしい笑みはどこかに消えて眉間がピクピク動いている。
 そして、再び右拳を構えると、アッパー気味に恵美のボディに突き込んだ。
「う゛っ――!? ぐえッ――――!!」
 着弾音が、違う。
 先ほどとはまるで違う威力に、恵美は目を白黒させた。
 ある程度跳ね返していたはずの拳は、彼女の腹の筋を歪ませ、形を変えさせていた。
(な、なに、これ? 男の人のパンチって、こんなに――!?)
 トレーニングとは違う、明らかに暴力を目的とした男の拳は、鍛えている肉体を簡単に打ち砕いた。
「おい、お前な、いい加減にしとけよ」
 幾分低い声質になった雄一が、拳を引く。するとすぐに左拳が飛んできた。
「あ、だ、だめっ――」
 すぐに腹筋を構えることができなかった恵美は、思わず言葉を漏らしていた。
 ヒュッ、と拳が唸り、ボグッ、と腹肉にめり込んだ。
「ぐぶッ――!? がッは、ァァ゛――!!」
 恵美の小さな口から、唾液が飛ぶ。
 ミシリ、と腹筋が悲鳴をあげた。腹の肉が押しつぶされる感覚に、少女は悶絶する。
 確かな痛みがあった。今まで受けたことのない、傷つける目的の拳。
 こんなに痛いパンチは、初めてだった。
 雄一が拳を引き抜くと、「うぇっ」と恵美は舌を突き出す。
 彼女の腹筋はたちまち赤く染まって、ひくひく痙攣していた。
「二度とそんな口きけねえよう潰してやるからな。何言ってもやめねえぞ」
 鼻にかかった唾をようやく拭って、雄一は静かに、しかし力強い声色で告げた。
 初めて、他人の男を怖いと感じた。
 父親も厳格で怖いときもあるが、尊敬できるものだった。だけど目の前にいるこの男子高校生は違う。
 そして、あんなパンチをこれからどれくらい、受けるのか。
 それが、最も怖い。
「すぐへばんなよ? いくぞオラ!」
 激しい威圧感と共に、ボディブローが飛んでくる。
 恵美はなんとか腹部に意識を集中して、ダメージを最小限に抑えようと試みた。しかし、
 ――グボッ!!
「お゛う゛ッ!?  ぶふぅぇッッ!!」
 そんな抵抗は空しく砕かれて、雄一の拳がメリッと沈み込んできた。
 打ち込まれた衝撃が腹筋越しに内臓にまで伝わり、嗚咽する。
 間髪入れずに、フック気味の拳が襲いかかった。
「ごぉえッ!! あ゛っ、はァッ――――!!」
 小学生の女の子とは思えない鈍いうめき声が、狭い路地裏に響く。
 表通りに仮に人がいたとして、こんな声が聞こえるところに来るだろうか。
 関わらない方がいいと、と考えるのだ自然だろう。
(こんなのやだ……! 悔しい、悔しい……!)
 今度は、何もできない自分に苛立った。
 男三人にいいようにされているのも。
 捕まっていなければ、殴り返せるのに。
 そんな悔しさで、彼女は涙を滲ませる。
「おいおい、今さら女らしく泣いてんじゃねーぞ!」
 その仕草まで雄一の怒りに触れるのか、彼の猛打にキレが増す。
 空気を切る音を響かせて、勢いよくボディアッパーが叩き込まれた。
「んも゛ォっ――!? お゛、げぼぇッ――――!! 
 臓物を抉るような一撃が、恵美の腹筋に突き刺さった。
 腹筋と腹膜を押し込み、なおも進行が止まらない。
 恵美は体内に、メリメリという音と共に拳が侵入してくる感触を味わっていた。
「ッ――!? えぉ゛――!」
 やがて、胃袋に拳の表面が触れた。恵美にはそれが分かった。
「ぁ、ぁッ――――かはっ、かッ――――!!」
 拳の進行はまだ止まらずに、胃袋の外側から中に入り込もうとする感覚。少女はガクガクと痙攣しながら、舌を突き出して悶えた。
「へっ、ちっせえ胃だな。これなら丸ごと潰しちまうぜ。こんな風にな!」
 雄一は手首までめり込ませた右拳を躊躇なく、反時計回りに捩じり込んだ。
 グチャ、と生々しい音が、少女の体内から響く。
 恵美は、胃袋が潰れたことを自覚した。
 途端に腹の奥底から、熱いものが駆け上がってくる。
「ブッ――!? ぅごぉ゛え゛ッッ――――!!」
 頬が一瞬膨らんだかと思うと、堪えられず恵美は吐瀉物を噴き出した。
 胃袋をねじ回されたのだから、当然の反応だった。
 青白くなった恵美の唇を割って、ボタボタと白い粘液が零れ落ちる。消化しきれていなかった学校の給食が、ぐちゃぐちゃになって地面に飛び散った。
「ガっは――ッ!! はぁーっ! はぁ、げぇほッ――!!」
 こんなにかっこ悪く吐く姿なんて、両親にだって見せたことがない。愛らしい唇は吐瀉液と涙でベトベトになって、うめき声も痛々しい。
 この路地裏で、取り巻き二人はむしろまともと言えた。嘔吐してボロボロになっている女子小学生を目の当たりにして、気分が良いわけはない。実際、彼らは少女の腕を掴みつつも、目を背けていた。 
 だが、肝心の雄一はまともではないのだった。
「きたねえだろうが! 胃に一発入ったくらいでゲロってんじゃねえよ!」
 そうして再び強烈な一撃を加える。ズシン、という鈍い音。
「ごぼろッ!? ぅごおぉおぉぉぉほッ!!」 
 こんなに小さな体でも、そんなに量があるのかというほど再度嘔吐する。
 異臭がたちこめる中で、いたたまれないといった様子で帽子の男子がおそるおそる口を開く。
「ユーイチさん、も、もうイイんじゃないっすか? こいつも反省してるっしょ」
「……あ?」
 なおも拳を振りかぶった雄一が、ジロリと帽子を見やった。びくり、と睨まれた方は肩を震わせる。
 そして、今まさに恵美を腹を抉ろうとしていた拳で、その帽子の頬を殴りつけた。おかげで恵美の左腕が自由になったが、すでに腹部のダメージが申告な彼女は身動きできない。
「ひっ――」
 今の今まで何も言わなかったメガネの方は、恐怖におののいて思わず拘束を外した。
 自由になった両腕で腹部を抱え、恵美は小さくうずくまる。
「おいお前よぉ、オレの弟がどんな目にあったか知ってんだろ? あ?」
 実際はというと彼の弟雄二は、たった一発だけ。一発だけ恵美に腹を殴られただけだ。だが彼女のパワーが強烈すぎて、雄二はそれだけで胃の中身を戻しながら失神したのである。
 だから、これが雄一のお返しとするなら、これでギリギリおあいことも言えた。だが彼の気はまだ収まらないらしい。
「ビビって何もしねえなら帰れや。うっとうしいからよ!」
 路地裏に響く怒号は、取り巻きが逃げだす背中の後押しをした。彼らはわき目も振らず、つまづきながらも走り去っていく。
(――二人だけに、なっちゃった――)
 敵の数が減った、と安心できる状態ではなかった。すでに大きなダメージを受けて満身創痍だし、脚は震えてまったく力が入らない。こんな状態で戦えるわけがなかった。
「いつまで丸まってんだコラ」
「うぎっ――――!」
 脇腹を蹴られて、仰向けに転がされる。
 狭く、誰も助けに来ない路地裏に男と女。恵美の脳裏に映画のワンシーンがフラッシュバックする。直接的に映さないものの、強引に男女の行為をしていると思われる光景。
 小学生の恵美でも、女としての恐怖を覚える。
「あっ、や、やだっ――」
 反射的に片手で股の下を隠す。知識はほとんど無い彼女ではあるが、ここは守らなければならないと、本能的に感じたのだった。
 しかし、「は?」と雄一は拍子抜けの声をこぼす。
「バカか。お前みたいなガキをヤるわけねーだろ!」
 また彼の怒りに触れたらしい。仰向けになっている恵美の無防備な腹へと、拳をまっすぐ打ち下ろす。
「ぐっふェ!? げおォッ――――!!」
 激痛と共に、口の中に溜まっていた唾液と胃液と吐瀉液が溢れる。
 雄一が少女のシャツを捲ると、目を背けたくなるほど赤く腫れあがった腹筋があらわになった。確かに深く彫りこまれたような硬い腹筋なのだが、今はヒクヒクと痙攣している。
 生腹にもう一発、ぶち込まれる。
「お ぼっ!! か、はッ――!」
「くそッ、どいつもこいつもビビりやがって! ガキが生意気に鍛えてるだけじゃねえかよ!」
 自分にいい聞かせるようにしながら、何度も何度も拳を振り下ろしていく。
「ぐぼァェ――!? ぐへっ、あ゛っ、はあァ゛ァ――――!!」
 殴り始めたときは乾いたような音だったのに、今は肉を確実に抉るような音に変化していた。腹筋は防御力を失い、内臓へとダイレクトに衝撃を与えている。雄一も拳に返ってくる手ごたえで分かっているだろう。
「うげェ――! がばッ――がふっ――ぐふァァ――ッッ!!」
 威力が衰えるどころか、次第に増している気がした。恵美はなすすべなく腹を殴打され続け、やがて腹部は赤黒い痣で染まっていく。
 素人が見たとしても、中にある内臓は深刻であることが見て取れるだろう。それほど雄一の拳は威力があり、なおかつ遠慮がなかった。
 そして、腹の奥がゴポゴポと水っぽい音を奏で始めたとき、恵美は目を大きく見開いた。
 先ほどとは違う嘔吐感。
 熱さと、匂いと、痛みが違った。
「ぐぷッ!? お゛、ッエぇぇ――――!!!」
 赤。
 生命の色とでも言うべき、赤い液体が恵美の唇を染めた。とろりと唇から頬を伝い、地面に付着する。
 内臓が破れかけていることを、恵美は知った。
 信じられないくらいの痛みが、腹部に渦巻いている。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
 血の色を見た雄一は、何十発を打ち込んでいた拳をようやく止めた。さしもの彼も、ストップをかける要因になったようだ。
 だが、恵美の目を見て、少しひるんだ。
 彼女の瞳の色は、まだ死んでいなかったからだ。
 腹筋も内臓もボコボコにされ、嘔吐や血まで吐き出しても、恵美の目だけはまだ確かな意思が宿っている。
「う、うう、うわああああああああああああああ!」
 まるで、自分に危機が迫っているかのような表情。
 今ここで何とかしないと、殺されてしまうんじゃないか。
 彼はそう感じたに違いない。
 だから彼は残っている体力を総動員して、拳に握りしめた。
「ふっグ!! ぶふっ、げボっ! ごぉォァ――――ッ!!?」
 腹を殴られるたび、唇に血の泡が生まれる。うめき声が路地裏を染めていく。
 腹筋が砕けて、内臓が潰れた音をたて、口からドロドロした液体を零す。
 人間サンドバッグと化した恵美は、今にも消え入りそうな意識の中で、視線だけは絶対に雄一から離さなかった。

 気づいたら、いつの間にか終わっていた。
 吐瀉物と血でまみれている路地裏に、女子小学生が一人で横たわっている。めくれたシャツからのぞいている腹部は、どれだけ殴られたからこうなるのか、というほど痣と拳の痕が残っていた。
「――はっ、は」
 小さく小さく、少女の呼吸が聞こえる。
 彼女は、意識だけは失わなかった。そうしたら負けだ、とでもいうように、絶対に目を瞑らなかった。
 なにがきっかけで、彼の暴行を止めさせたかは分からない。今はもうどうでもよかった。
(家、帰らなきゃ……)
 両腕に力を入れて、体を起こそうとする。しかしそれだけで腹部に激痛が襲ってきて、
「ぐっ、はッ――! ぉぇッ」
 内臓がゴボリと音を鳴らし、血液が食道を通って外へと溢れ出る。失神しないが自分でも不思議なくらいだった。
(どうしよ、動けない――)
 こんな状態では、家に帰れない。もうほとんど夜だし、それこそ、よくない大人に見つかるかもしれない。今度こそ、映画みたいなことが起きるかもしれない。
 そんなとき、表通り側から小気味よい音が聞こえてきた。
 猫の声。
 あ、と恵美は思い出した。猫を追いかけてここに来たんだった。雄一に蹴とばされてしまったが――
 あちらの方で、猫がやけに大きく鳴き声をあげている。そんなに大きな体でもないのに、必死に。
 誰かを呼んでいるかのように、声を荒げている。
 やがて恵美は、猫と一緒に人が近づいてくる気配を感じた。

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