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花びらたち 5-4

 正直なところ、カトレアにもこの場を一人でどうにかできる自信はなかった。
 元々備えている魔力が少ないのに、それを吸い取られてしまっている。疲労感が全身にまとわりついているし、刀を握る手にも力が入らない。意識を強めていなければ、膝が今にも崩れ落ちそうなほどだった。
「あなたしかいないのです、チューリップさん……!」
 チューリップに負けないくらいマーガレットのことが気がかりだが、それでもこの場に残ることを決心した。
 だが、赤髪の拳士は首を横へと振った。
「ううん、あたしがここで戦う」
 この言葉は意外だった。意外すぎた。カトレアが一瞬呆気にとられたほどに。
 マーガレットの元へ今すぐにでも駆けつけたいのは、他の誰よりも、幼なじみであるチューリップのはずだ。
「もう一度言います。あなたでなければ……」
「分かってる! 分かってるよ! でも、そうじゃないんだよ!」
 言っている意味が汲み取れない。チューリップ本人も、うまく伝えられないことがもどかしそうだった。だけどその表情は真剣で、目を逸らすことができない。
「なんか、違うの! あたしじゃなくて、カトレアが行った方がいい!」
 カトレアは赤髪の拳士の目をまっすぐ見つめ返した。まったく要領を得なかったが、彼女の言葉には意思の強さが備わっている。幼なじみを救いたいという想いだ。
 それを自分以外の誰かに託している。
 ゆっくりと近づいてくるドールの群れを一瞥したカトレアは、刀を鞘に納めた。
「……了解しました。ここは頼みます」
 勢いに押された、というわけではない。了承はしたものの、カトレアは己の考えを変えてはいなかった。ただチューリップの言葉には、説得力といえばいいのか――「そうかもしれない」と思わせる何かがあった。
「ありがとう。マーガレットをお願い!」
 不安要素が拭いきれない心境ではある。カトレアの心には掴みきれない雲のようなもやがかかっていた。この判断が正しいのかどうか。しかし、彼女はチューリップを信頼している。
 小さくうなずき返し、拳士に背を向けて駆け出した。このスラム地区よりずっと向こうにある、町の主が住む屋敷へ。
 まだ異常に気づいていない住人たちが不審な視線を向けてくる。当然、鞘に納められた刀も注目の的だ。人々の目の色が次第に、恐怖のそれに変わっていく。
 だが今はそんなことに構っている暇などない。止められたりしないのはむしろ好都合だ。
「はっ――はぁっ――はっ――」
 すでに呼吸が荒く、まだ地区を抜けていないのに汗が噴き出てくる。やはり、魔力が枯渇している体では厳しいものがある。視界が揺れるうえに足がもつれそうになる。
「きゃあっ!」
「……ッ!」
 幼い悲鳴にカトレアは足を止めた。今のはこちらに対する反応ではない。戦器士はもう次の行動へと移っていた。
 数歩先で地面に尻餅をついている少女、その目の前に出現した、生きた人形。土の腕が幼い少女に伸びる直前、カトレアは抜刀と同時に敵の胸元を一閃した。
 胴を真っ二つに切断されたドールが、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
「ひっ……!」
 目前でただの砂と化したドールより、刀を振り上げているカトレアに少女は顔を引きつらせた。
「危険ですから、家に隠れて」
 呼吸を乱しながらも、カトレアは静かに告げた。
 ドールはゴーレムと似ているが、心臓であるコアが存在しない。精霊を召還する行為とも別だ。これは呼び出しているのではなく、ただ操っているだけである。
 かなり特殊ではあるが、魔力を注ぎ込むことによって一定時間”自立”させたものだろう。ドールの数と愚鈍な動作からみて、質より量といったところだ。たとえカトレアの刀でなくても、ある程度の魔力を有するならたやすく撃退できる。
 しかし、ここがスラム地区でなければ、の話だ。男性はもとより、満足に魔法が使えない女性ばかりが肩を寄せ合っているこの区域では、ドール一体でさえ脅威になり得る。
 あちこちで悲鳴が鼓膜を震わせてきて、カトレアは歯を噛み締めた。
「人形め……!」
 家屋の裏や隅から飛び出してきた住人たちを素早く見回しつつ、周囲を警戒する。腰が抜けたらしい少女をここに置いたままでは――
「ッ……!」
 めまいがした。膝が勝手に折れ曲がり、とっさに左手を地面に着く。
(一振りでこの有様か……!)
 自分で感じていたよりも極限状態に陥っている。前髪が汗で額に張りつき、激しい動きげ体は温まっているはずなのに、どこか寒気を感じていた。
 一刻も早くマーガレットの元へと駆けつけねばならないのに――
「誰か、カトレアを屋敷まで連れていって!」
 目をみはる。息を切らしながら視線を上げると、チューリップがこの地点まで後退してきていた。向こう側にドールが数体確認できる。やはり数が多いため、押されるようにして下がってきたのだろう。
「お願い……! カトレアを助けて!」
 拳士はその純粋な瞳で訴えかけていた。懇願する感情がにじみ出ている声に、周囲の住人たちはドールに対する恐怖よりも、魔法使い二人の存在に狼狽している。
「……っ! 邪魔しないで!」
 チューリップの目に鋭さが戻り、背後から迫っていたドールに振り向きざま拳を叩き込んだ。一撃のもとに土人形は文字通り粉砕される。
 その間も、カトレアは立ち上がろうと努力した。しかし体が疲弊していて言うことを聞かない。それなのに、意識だけはっきりしていることが苛立ちを募らせていた。
「ねえ」
 すぐそばで呼ばれ、呼吸を整えながら視線を向ける。へたり込んだままの少女がじっと見つめてきていた。
「わたしの、ちょっとだけあげる」
 そう言うと少女はおもむろにカトレアの手を取り、両手でぎゅっと握り込んだ。
「んっ――」
 思わずカトレアは小さく声を漏らした。手のぬくもりとは違う、温かな感覚が流れ込んでくる。微弱だが、少女が魔力を供給してくれているのだ。
「……どうして?」
 思わず口にする。
 スラム地区の人々は、それぞれが持つ魔力の弱さによって蔑まれてきたはずだ。カトレアやチューリップのような魔法使いに対して、良い感情を抱くとは思えない。
 この疑問に目の前の少女は、
「だって、助けてくれたでしょ?」
 と、さも不思議そうに首を傾げていた。
 これ以上ないほどの明確な理由だった。だからカトレアも押し黙り、助けを素直に受け入れた。
 チューリップの戦う声や戦闘音が響く中、少女の友人と思しき子供たちが、その隙をついて駆け寄ってきた。同じようにして手を重ねてくる。
 どくっ、と鼓動が脈打った。胸の奥が熱を帯び始めたのは、注がれる魔力の量が増したからではない。カトレアの心が震えたからだった。
「ありがとう、もう大丈夫です」
 子供たちに微笑みを投げかける。
 実際、最低限の魔力しか受け取っていない。だが彼女にとってはそれで十分だった。魔力だけでなく、他にも体を突き動かすものをもらっている。
 立ち上がって刀を納めたカトレアに、一人の男性が駆け寄ってきた。妙に軽快な足音が連なっている。
「あんた、急いでいるんだろ。乗ってくれ」
 その足音の正体は、彼のすぐ後ろにいた。
 馬である。よく手入れされているようで、薄茶色の毛並みは陽に反射していた。
「馬術には心得があります。他の人たちを避難させてください」
 男性はカトレアを、屋敷まで連れて行こうと考えていたのだろう。
 あちらには何が待ち受けているか分からない。彼には、チューリップが時間を稼いでいるうちに住人たちを避難させるよう頼んだ。
 茶色の馬に跨った黒髪の戦器士を、いくつもの不安げな瞳が見上げている。
「片付いたら、また来ます」
 カトレアは子供たちに小さく微笑み返し、手綱を軽く引っ張った。馬はそれだけで嘶いて勢いよく走り出す。
 スラム街と一般地区を隔てている壁のような門を抜け、さらに加速していく。人々が往来する道を遠慮なく突き進んだ。今、周りに構っている暇などない。
 片手で刀を握り、もう片方の手で手綱を引いているカトレアとその馬を、通行人たちはどよめきながら道を開けていた。小気味よい蹄の音が家々に反響している。
 目的地は、この街が見下ろせる位置に建っている。小高い丘のようになっているその上。流れる風の音を聞きながら、カトレアは屋敷を睨みつけていた。

 
 自分の身になにが起きているのか、理解できなかった。
「ぐうううう、ううううあああああああああああ!」
 ひたすらにその場で悶絶する。体が熱い。内側からなにかが膨れ上がってきている気がする。魔力が増大しているようにも感じられた。
「いい、いいわよマーガレット! その調子!」
 恍惚とした表情でマリーゴールドは成り行きを見守っていた。妹が苦悶しているというのに、助けるという選択肢を持っていないようだった。
「お嬢さま……! これはいったい……!」
 魔法陣に拒絶され、壁に叩きつけられたスミレは腕を押さえながら立ち上がった。マーガレットのただならぬ様子に、目に見えてうろたえている。
 ああ、と屋敷の主人はため息をついた。心底残念そうに。
「ちょっとスミレ、今いいところなんだから、話しかけないでくれる?」
「なにを言ってるんですか……!」
 苦しげに転げまわっているマーガレットに駆け寄ろうとする。が、それはすぐに無理だとスミレは悟った。
「ふっ、ぐっ、ううううううううううううううう!」
 治療士マーガレットの体は今、膨大な熱量に支配されている。体温が高いとかそんなレベルではない。彼女自身が放つ炎魔法でさえ、これほどの温度は生み出せないだろう。
 ただそこにいるだけで、地下室内の温度は上昇していた。スミレはメイド服が汗でへばりついていることにようやく気がついたのだった。
「がっ、ぁぁぁあああああああああああああ!」
 十六歳の少女の口から、獣じみた呻きが溢れ出す。鳴り止まない心臓の鼓動に、マーガレットは胸を掻きむしった。これは自分の心臓の音ではない。
 中に誰かいる。
 比喩ではなく、彼女は漠然とそう確信していた。第三者に精神を見られている――それとは違う。そんな次元ですらない。しかもそいつは爆発的な生命の力を、内側から解き放とうとしている。
「すごいわね。やっぱり動物なんかじゃお話にならないわ」
 瞳を子供のように輝かせながら、姉は妹を観察していた。これから目にするであろう出来事をうきうきしながら待ちわびているようにも見える。
「ぐぅぅぅ、ぎッ……!」
 妹はそんな姉の視線に気づいてはいたが、文句などをぶつける余裕など皆無だった。心臓は今にも破裂しそうなほど脈打ち、どくん、と震えるたびに、視界がはっきりしたりぼやけたりした。
「マーガレットさま! マーガレットさまぁ!」
 反対側にいるスミレの声も届いている。もちろん返答はできない。
 己の内側から顔を覗かせてくる存在に、マーガレットは必死で抵抗した。飛びそうになる意識を掴み続ける。油断すれば、その何者かに人格ごと奪われそうな気さえしていた。
“――――――――――”
 そいつが、何か言っている。
 言葉が聞こえたわけではない。意識がそのまま入り込んできている。いうなればマーガレットは、その次元の異なる存在と感覚を共有していた。だから”彼女”の感情が分かる。
 怒りに満ちていた。その矛先は特定の誰か、というわけでもなく、ただひたすらに怒りをみなぎらせている。そのことだけがはっきりと分かった。
 強大な意思を感じ取っている妹を観察している姉は、おや、と天井に――厳密には、その向こう側に視線を投げた。
「あら、助けが来たみたいよ?」
 彼女は何かをなぞるように瞳を動かしている。天井から次第に壁面へ、そして、地下室の入り口付近へと。
 スミレが背後から近づいてくる音に振り向き、慌てた様子で左へと避ける。そこへ転がり込むように、一人の少女が駆け込んできた。
「……! マーガレットさん……!」
 黒髪の戦器士カトレアだった。普段の無表情は消え去り、親友とも呼べるマーガレットを見て目の色を変えている。
 しかし、この状況に動揺を隠せていない人物がもう一人いた。
「そんな、まさか……! あの子が来るはずなのに……!」
 屋敷の主マリーゴールドは、妹にも見せたことのないほどの狼狽を表していた。小さく首を振りながら、乱入してきたカトレアに視線を釘付けにしている。
 黒髪の少女はその視線を無視した。構っている暇などない。今はマーガレットを救出することが先決である。
 地下室内をぐるりと見回す。スラム地区で発見した魔法陣とは別物であることは明白だった。部屋の中心で苦しんでいるマーガレット一人にのみ、その力が作用している。
 充満している熱気、むき出しになっている魔力の強さ、只事ではなかった。
 カトレアが鞘から刀を引き抜き、真下に突き刺そうと構える。だが、彼女の表情には迷いが垣間見えた。
「ぐぅ……! あああああああアアアアアアアアアあああアアアアアアあアアアア!」
 唐突に、マーガレットが叫びをほとばしらせる。喉が裂けるのではないかと思うほどの怒号。この場にいる全員が、中心で横たわっている彼女を凝視する。
 治療士の美しい顔は、おそらくチューリップが見たこともないほど、怒り狂っていた。それは彼女の奥底にいる”何者か”の感情だ。仇を見つけたかのように、黒髪の少女を睨みつける。
 カトレアは迷いに眉を寄せたまま、まっすぐ見つめ返した。知らず知らずのうちに、足が後ろへと下がっている。
 いまだに増していく熱量の中で、マーガレットは己の中にいるモノに抵抗した。意識を奪われまいとして、自分の言葉を、自分の意思で。
「アアッ――! ぁ、やって――ください――!」
 戦器士の手が小さく震えた。
 マーガレットには、彼女が何をしようとしているのか理解はできていた。刀の特殊効果を持ってすれば、確かにこの状況を打開できるだろう。
 結果として自分がどうなるかは見当がつかない。だが、このまま逡巡していたのでは何も変わらないどころか、もっと最悪なことになる――マーガレットは己の行く末をすでに悟っていた。
 今このときを変えなければならない。それが賭けだったとしても。
「グッ――ゥ――ガッ――! カト――レ――!」
 全身の神経が灼熱と化し、視界も赤く染まってきている。今のは死に物狂いで吐き出した声だ。
 飲み込まれていく感覚が襲ってきた。とてつもなく大きな存在に。
 視界が完全な赤で覆われる直前、彼女の胸の奥を激しい衝撃が突き上げた。
「ガァァァアアアアアアアアアァァァアアアアァアアアアアアァァァァ!?」
 マーガレット本人なのか、それとも違うのか、とにかく彼女は悲鳴じみた雄たけびをあげる。
 カトレアが刀を床に突き立てたと同時だった。部屋全体に張り巡らされている魔法陣が、苦悶しているかのように激しく明滅し始める。
「な、何をしているの、あなたは!」
 現状が理解できていないマリーゴールドが叫ぶが、カトレアはそれを無視した。
 魔法陣の光が消えない。いや、弱まっていることは確かだ――その手ごたえを感じていた。
 マーガレットが法衣を破いてしまいそうなほど胸のあたりをかきむしっている様子に、カトレアは再び躊躇の色を表した。しかしそれも一瞬。
 彼女は決意を表情で示し、突き刺した刀と共に駆け出した。がりがり、と刀が床を切り裂いていく。音は硬くても、まるで紙のように床は一本の線を刻まれ始めた。
 それを、屋敷の主が黙って見過ごすはずもない。
「だから、何をしているのって聞いてるでしょ!」
 半ばヒステリックになっているマリーゴールドが、左の手のひらをカトレアに向ける。瞬間、彼女の周囲にいくつもの火球が出現した。
 熱が充満しているこの状況では目立たないが、それら一つ一つが強力な<ファイアーボール>であることは、魔法を使う者ならすぐに理解するだろう。
 火球が一斉に撃ち出された。それぞれが異なる軌道を描きながら、室内を疾走する少女へと襲いかかる。
「――ッ!」
 カトレアはしかし止まらなかった。別の角度から飛来してくるものを感じ取っていたから。
 着弾する前に、別の角度から新たな影が飛び出してきた。
 その人物は、メイドの服装をしながらも、身軽な動きでもって<ファイアーボール>を両手の包丁で斬り裂いた。水属性の強化が施されていたらしく、斬られた火球は激しい水蒸気を起こして蒸発する。
 屋敷のメイド――スミレは、荒い呼吸のまま笑みを浮かべた。
「いけませんね、お嬢さま。椅子に座りすぎて鈍くなったのでは?」
「スミレ……! 何様なのあなたは!」
「わたしはマーガレットさまのメイドです。マーガレット様のご友人は、わたしの友だちです!」
 主のメイドのやり取りの最中でも、カトレアは疾駆を続けた。
 つくられた目的はともかく、この地下室内の面積はそれなりにある。だから戦器士は全速力でもって疾走した。一刻も早く仲間を救うために。
「アアアアァァァアアアアアアァァァアアアアアアアアアアアアアアアア!」
 その間もマーガレットと、彼女の中に存在する”モノ”の苦悶は止まらなかった。高熱による悶絶ではない。刀が魔法陣を斬りつけたときから、別の痛みに変わっていた。
 魔法陣へのダメージがマーガレットにも反映されているのだ。それこそ、治療士は刃で刺し貫かれている激痛を感じていた。
 神経がむき出しになっているような感覚だった。熱を帯びた空気に肌が触れているだけで、発狂するほどの痛みが駆け巡る。失神さえ許されない。
 だが、もうすぐ終わる。
「やめなさい! やめなさいよ!」
 狼狽しているマリーゴールドは攻撃魔法を放ち続けているが、スミレがほぼ全て迎撃してくれていた。彼女の存在がむしろ、この状況下で一際大きな影響を及ぼしているとも言える。
 ヒュッ、と空気が音を奏でた。カトレアが最初に突き刺した地点まで戻り、刀を振り上げたのだった。刃こぼれなど一切ない彼女の刀が宙を走る。
 床に刻まれた深い溝のような傷跡は、天井から見れば大きな円を描いていることが分かる。魔法陣は模様を破壊され、さらに魔力をも切断されて――ついにその効力を失った。
 陣の発光が完全に消失し、空間が闇で塗りつぶされる。
「アァ――! はっ――はぁっ――はぁ――」
 中心で悶えていたマーガレットが激しい呼吸を繰り返す。カトレアとスミレは、闇の中で安堵していた。咆哮じみた声ではなく、人間らしい、彼女そのものの声だったから。
 暗闇で閉ざされた中で、一つの気配が動く。即座に察した戦器士が、刃をわざと鳴らした。
「動くな!」
 ぴたりとその気配は止まった。その人物は地下室をつくった張本人だったが、この状況下でも逃げ切れないことを悟ったようだった。実際のところ、カトレアなら視界が利かなくても、斬撃を寸分なく繰り出すことができるだろう。
 さらにまた、上の方から新たな気配が降りてきた。若々しく透き通った女性の声が、場違いなほど響く。
「はいはい、明るくするからちょっと待ってね」
 ぱちんと女性が軽快な音を指で鳴らすと、どういうわけか部屋全体が――壁そのものが光を帯びているかのようにぼうっと明るく染まった。
 城で常に身に纏っているドレス姿。思わず見惚れてしまうほどの柔らかな笑み。訪れたのはまぎれもなく、リーフガーデン国王妃コスモスであった。
「コスモス様――!」
 カトレアは疲労と動揺で呼吸を乱しながらも、片膝をついて頭を下げた。この状況でも地位を重んじる戦器士に、コスモスは「いいから楽にしていなさい」と小さく笑いかける。
 そして王妃はまずマーガレットに歩み寄った。彼女の手には、よく見れば木製の水筒が握られている。
「遅くなってごめんなさい。よくがんばったわね」
「はあっ――はぁっ――ぁ、んぐっ、んぐぅ――!」
 差し出された細長い水筒を、マーガレットは奪い取るようにして蓋を開けた。中身を一気にあおると彼女の喉が忙しく脈動して、受け止めきれない量の水が口の周りからあふれ出したが、そんなことはお構いなしだった。
 王妃がひとつうなずくと、次にマリーゴールドへと視線を向ける。
「”四大元素”の召還、誰から聞いたの?」
 かすかに微笑んではいたが、その目は何人も反論を許さない色を帯びていた。圧倒的なまでの威圧感はむしろ目を逸らすことができず、マリーゴールドは顔をしかめる。
「予想はつくのだけれど。つばの広い三角帽子をかぶった、私くらいの人じゃなかった?」
 質問された屋敷の主は、目をわずかに見開いた。肯定の意。
 王妃はため息をつく。その表情には、どこか懐かしむような、哀れむような色が見え隠れしていた。
「……あなたにとって四大元素そのものは、どうでもよかったんでしょ?」
 それはマーガレットも考えていたことだった。マリーゴールドが興味を持ったのはおそらく別だ、と。
「召還の媒体にした人間を様子を観察したかった――ってところかしら。悪趣味ね」
 軽く言い放っているように聞こえるが、その声色には強い軽蔑の感情が込められていた。対してマリーゴールドは、小さく唇の端を吊り上げる。
「妹は姉の言うことを聞くものでしょう。違う? わたしはただ――」
 彼女の言葉が不意に止まった。疲労困憊なはずの妹が、ゆらりと立ち上がったからである。
 水筒が床に落下し、からからと音をたてた。皆の視線が治療士に集中する。
 すぐそばにいるコスモスさえも驚いているようだった。マーガレットは立ち上がることさえ困難なほど消耗しているのに、杖も持たずに自らの両足で立っている。その膝はかすかに震えていた。
 少し離れた位置にいるカトレアとスミレは、彼女へ駆け寄ることをためらった。マーガレットの様子はどこか恐ろしくて、触れてはいけないと直感していた。
 ゆらゆらと、ミイラのような足取りで歩み寄っていく。姉は近づいてくる妹に対し、少し後ずさった。
「わたくしは――」
 やはり消耗が激しいことがうかがえる声だったが、妙に通りの良い響きがあった。
「わたくしは、コスモス様のように、遠慮はしません」
 長い髪のうちいくつかの束が、顔にかかってしまっている。髪の隙間から覗いている瞳に、マリーゴールドは顔をひきつらせた。
「あなたは最悪です。最低です。害虫以下です。クズです。ゴミです」
 単純で分かりやすい、子供が言い放つような罵詈雑言。しかし笑う者は誰もいなかった。マーガレットのうなり声はが呪いを唱えているように聞こえ、口を挟むことができない。
 ずい、と姉と鼻が触れんばかりに顔を寄せた。
「死んでほしい。今すぐ死んでほしい。殺したい。今すぐここで焼き殺したい。その体が真っ黒に焦げて異臭を放つまで延々と燃やして――」
「マーガレット、ダメよ」
 後ろからかけられた王妃の声に、様子が変貌していた治療士は肩を震わせた。
「そんな汚い言葉を聞いたら、チューリップが泣いちゃうわ」
 手を出すことを止めたというより、本人の言動を注意した――そんな感じだった。幼なじみの名前が大きな効果を呼び、マーガレットは再び力尽きたように膝を落とす。
「マーガレットさま!」
 スミレはようやく駆け寄ることができた。倒れかかるマーガレットを抱きとめる。美しい治療士は呼吸がやけにおとなしく、あの高温現象が嘘かと思えるほど、深い眠りについていた。
 カトレアはそのとき、ふと周りを見回していた。室内の人数は変わっていない。しかしそれがなぜなのか自分でも理解できず眉をひそめた。なんとなく、気配が一つ消えたような気がしたからだ。
「ぁ――ぁ――」
 身内でさえ見たことないであろうマリーゴールドの蒼白しきった顔は、妹に言葉をぶつけられたからではなさそうだった。もっと別の何かに恐怖している。
「マリーゴールドさん、あなたをお城に招待します。この街については以後、リーフガーデンの者が責任を持って管理しますので、ご心配なさらず」
 人間を犠牲にするという所業を看過できるはずもない。コスモスの口調は柔らかくても、内容は事実上、マリーゴールドを隔離して拘束することだった。
 通信石が震えていることに気づいたカトレアは、石を額に当てた。
『カトレア? マーガレットは!?』
 幼なじみを想う声が頭の中を駆け抜ける。あちらは無事のようだ。
 カトレアはメイドの腕で眠っている仲間を見ながら、
「……無事です」
『ほんとに? カトレアも大丈夫?』
「はい。ひとまず、終わりました」
 今回の騒動は一段落ついた――戦器士は自分にそう言い聞かせた。
 これ以上何かが広がっていくということはないと思うが、また新たな問題が影を潜めていそうで、後味の悪さが拭いきれない。
 眠りについている仲間の顔を見つめながら、カトレアは鞘に刀を納めた。

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