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★スカーレット夫妻

「グワアアアアアアアアアアアアア!」
 今日もまた怪人の断末魔と、爆散の騒音が街に夜空に轟いた。必殺技のポーズを決めていた女性が、小さく息を吐く。
「なに、まだ終わってないの?」
 彼女は首をだるそうに回しながら後ろへ振り向いた。その先では女性と似たようなコスチュームに身を包んだ男性がいて、今ようやく怪人を倒したところのようだった。
 あはは、と乾いた笑いを含ませながら彼は頬をかいた。
「キミが早すぎるんだよ。新記録じゃないか?」
「ええ、もちろん。最近たるんでるんじゃないの? 下級怪人くらいパパッとやっちゃいなさいよ」
「いやはや、面目ない」
 苦笑いを浮かべる彼に対し、女性は「まったく」と腕を組んだ。
 二人とも普段着とはいえない格好をしている。コスプレといえば納得するが、実際のところこの姿が本当の姿ともいえた。
 名称は長すぎるので省くが、端的にいえばライダースーツに近いものを着込んでいる。どちらも薄赤色で男性は若干ごつごつしているが、
女性の方は余計な装飾がなく、体の線が手に取るように分かるほどぴっちりしていた。腰のくびれはもちろん、臍の窪みまで確認できるほど。
 ただし胸はあまり豊かではない。
「あなたを追いかけてきたはずが、いつの間にかわたしが追い越しちゃってるじゃないの」
 はあ、と彼女はため息をついた。その眼差しや言葉の端々から感じられる親密な気配が、二人の間柄を静かに表している。
 お互い似たコスチュームを着てるうえに、髪も、瞳の色も赤。圧倒的な存在感を放つ佇まい――二人は夫婦なのだった。
 妻であるスカーレット・クレアはセミロングの髪を撫でながら彼を見つめる。
 夫のスカーレット・ガイは、たくましい体ながらも気弱そうな雰囲気をまとわせていた。いつからこんな、立場が逆転している状態になってしまったのか……
 不満げにクレアが唇を歪めていると、夫の背後から新たな気配が動き出すのを感じ取った。彼はまだ気づいていない。
「ねえスカーレット・ガイ、こっちを見て?」
 幼い印象を受ける声色で囁かれたガイは、馬鹿正直に後ろを振り向いた。途端に体がぴくりと強張って、硬直する。
「あなた――!」
 クレアが夫に駆け寄ろうとしたとき、彼のすぐ背後に現れていた新たな気配がするりと前に躍り出てきた。
 背の低い少女だった。声の印象どおり幼い顔つきをしていて、小悪魔的というか、やけに意地悪そうな笑みを浮かべている。
 当然、ただの女の子ではない。少女の背中からは、コウモリのような羽が生えていた。
「怪人……!」
「はぁい、リリスでーす! きゃはっ」

 今までとはタイプの違う怪人に、クレアは少々面食らった。
 リリスと名乗った怪人は人間の姿とほぼ一緒だが、決定的に違うのはやはり纏っている雰囲気だった。黒のチューブトップ、赤いチェックスカート。
 上下ともに薄いし短いし、肩や二の腕、臍、太ももを大胆に露出している。ごつごつしたブーツだけが重々しい。
「ざんねーん、遅かったね。彼はもうあたしのモノよ」
 軽くウインクしてみせる怪人少女。なにを言っているんだこいつ、とクレアは眉根を寄せながら、夫を叱咤する。
「ちょっとあなた! なにをボーッとして――」
 振り向いたガイの目を見て、妻は言葉を止めた。口をあんぐりと開けて呆然となる。
 夫の青い瞳に、文字通りハートが浮かび上がっているのだった。
「ああ、すまないクレア、僕はもうキミとは一緒にいられない……新たなパートナーを見つけてしまったんだ……!」
 まるで舞台劇でのセリフを叫ぶかのような調子で、彼はすぐそばにいる怪人少女を抱き寄せた。やんっ、とリリスが耳障りな声を洩らす。
 クレアはわざとらしく、大げさにため息をついた。夫のダメさに呆れ果てる。まさかこんな、いかにも男受けしそうな怪人にまんまと”洗脳”されるなんて。
そんなクレアの心情を知ってか知らずか、リリスは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「あはっ、そうだよね~。もうおばさんの体なんかより、あたしの方がいいよね~」
「お、おば……! わたしはまだ二十代よ!」
「えーでも四捨五入したら三十歳でしょ? 十分おばさんよ。お、ば、さ、ん」
「ぐうう……! 黙りなさいこのギャル怪人! 今すぐ撃滅してやる!」
「きゃーこわーい! ガイ、助けてぇ~!」

「任せてくれ!」
 言うが早いか、スカーレット・ガイはギャル怪人をかばうように前へと出てきた。
 その表情はというと真剣そのものだが、瞳に”洗脳”されている証拠であるハートが浮かんでいるせいで迫力の欠片も感じられない。
「きゃははっ! 分かってると思うけど、あたしを倒さない限り洗脳は解けないよ。さあスカーレット・クレア、夫婦同士で戦う覚悟が――」
 挑発するような笑みを浮かべているリリスに構わず、クレアは目の前にいる夫の頬を、何のためらいもなく殴り飛ばした。
 ふげっ、と間抜けな呻き声と一緒にすっ飛んで、停まっているワゴン車へと突っ込む。
 あまりにもあっけない出来事。リリスは目を白黒させながら、
「え……ええええええええ!? ちょっとなに、あんたたち夫婦でしょ? そんな親の仇みたいに――!」
「あ、うん。なんかムカついたし」
 半ば反射的に繰り出した拳をさすりながら、クレアは心の中で自分に言い聞かせる。
 悪いのはガイだ。いかにも若くみずみずしくて、上半身は細身だけど露出している太ももは妙に肉感的で、胸も明らかに自分より大きいし――
「なんか余計に腹たってきた……! 怪人リリス、覚悟!」
「やっ、あの、あたしってばさ、洗脳するだけで戦闘能力ないっていうか、だからその――やだその目怖い! ちょ、ちょっと、やだああぁぁぁ!」
 いかにも女の子らしい悲鳴。それさえ癪に障る。一撃で滅してやろうと、クレアは己の右拳に力を込めた。

 しかし、けたたましい騒音が彼女の鼓膜を叩いた。視線を向けると同時、拳をそちらへ突き出す。
 その瞬間、襲いかかってきた物体は野球ボールのごとくあさっての方角へと跳ね返った。
 白いワゴン車――クレアは殴り返したその車がビルの壁に激突してスクラップになっていることを気にせず、飛ばされ来た方向を注視する。
 夫、スカーレット・ガイは、蹴りの体勢を元に戻した。さらに膝をぐっと曲げると勢いよく跳躍し、三十メートル近い距離を即座に縮めてきた。
 再びリリスの壁となるように立ちはだかった彼はびしりと妻に指をつきつけて、
「待ちたまえ! リリスを傷つけることは、この僕が許さないぞ!」
「……あー、はいはい」
 もはや怒りも通り越した。本当に、本当に情けない。こんなのが夫だなんて。結婚する前の、あの誓いの言葉を交わす以前の彼はどこに行ってしまったんだ。
 もう遠慮はいらないだろう。こうなったら可能な限りこてんぱんにして、強引にでも目を醒まさせてやる。
「もういいわ。悪いのはあなたの方よ。うらまないでね」
「さっきは油断しただけさ。ここからは本気で行く」
「本気ぃ? ふん、あなたは特訓のときも本気を出すけど、わたしに勝ったことがないでしょ!」
 先手必勝。クレアは言葉を終える前に動いていた。胸を張って仁王立ちしているお間抜けな夫の顔面めがけて拳を放つ。先ほどよりも速く、強く、正確な攻撃だ。
 その完璧であるはずの一撃が、あっさりと避けられてしまう。
「は……?」
 意味が分からなかった。真っ直ぐとはいえ驚異的なスピードを誇るパンチが、首を傾げるような動きだけで回避された。

「ぐぅぉっ……!?」
 呻き声が無理矢理押し出された。クレアの体がくの字に折れ曲がり、爪先立ちになっている。
 九十度近く曲がった彼女は、己の腹部、ライダースーツの中心にガイの腕がめり込んでいる光景を捉えた。
 よろよろと後ずさると、自然に拳が引き抜かれた。くっきりとした陥没が残る腹を押さえ、膝が小さく震え始める。
 痛みが通り抜けた直後、腹部の奥底から違和感が駆け上ってくた。喉元がゴクッと蠢き、引き締まった肉体がびくんと跳ねた。
「ぐぷっ、ぉ゛えっ……!」
 生暖かい透明な胃液が口からこぼれた。唾液と混ざって粘性を増し、幾筋もの線をつくって滴り落ちる。
 こんな――こんなのおかしい。特訓のときはいつも、彼の拳なんか弾き返していた腹筋が――
「クレア、キミは、僕が本当に本気を出していたと思っていたのか?」
「ぅ、げほっ! ぇ゛ほっ! ぇ……?」
「哀れだね。僕が本気を出したら、キミなんて相手にならない」
 腹部を抱えて前のめりになっているクレアの顎を、ガイは膝で蹴り上げた。
「づぁッ……!」
 砕かれそうなほどの衝撃が脳まで震わせた。揺れる視界が空を映す。弓なりにのけ反りながら浮き上がる。
 前面をさらけ出す格好になっていた美しくしなやかな肢体。その腹部の中央めがけて、ガイのボディブローが打ち込まれた。
「ぅうっ!? ぐっぇ……!」
 伸びきった腹筋がむごたらしくへこまされ、暴力の塊を内部へと受け入れる。
 一瞬にして再びくの字に折れたクレアは、両目がこぼれ落ちそうなほど見開いて苦痛の声を洩らした。
 鍛えているはずの腹筋が軋む音と、奥の胃袋が歪む音を彼女は聞いた。
「ぐっ――ぅ゛、ふっ、む、ぐ……!」
 内臓が蠢く感触と共に、渦巻くような嘔吐感がこみ上げる。クレアは腹部を突き上げられ宙に浮かされたまま、反射的に口元を押さえた。
「まったく、キミには呆れるよ。自分の方が僕より強いだなんて、本当に、呆れるほどの勘違いだ」
 はは、と夫が馬鹿にしたような笑いをつくる。
「本当はね、キミの腹筋なんて簡単に貫けるし――」
 彼は妻の背中へ片方の手を回し、めり込ませた拳をぐりぐりねじって内臓をなぶり始めた。コスチュームに浮かぶ螺旋状の皺が左へ右へと忙しく渦を巻く。
「んぐぅ!? んん゛ぅ゛ぅう、うぅうっぅ゛!」
 体の中でぐちゃぐちゃと響く異様な音。びくびくと痙攣する肢体。
 吐き気も強さを増していき、いつしかクレアの目には涙が浮かんでいた。
「胃袋なんて、こうして――」
 左右にねじり回していた拳を、ガイは一際大きくひねりながらさらに奥へと突き上げた。
 拳全体が埋まってしまうほど、クレアの腹筋は暴虐を歓迎する。
 瞬間、ぐちゅっ、と周囲に響くほどの異音が鳴った。

「ぅげっ……! んぐっ、ぇぐお゛ぉ゛ぉ゛ぉぉぉぉおおおぉぉ!」
 獣の咆哮かと思えるほどの低い呻きがほとばしる。柔らかな胃が拳によって抉られ、背骨に押し付けられてぺしゃんこに潰された。
 消化しきれていなかった内容物が行き場を失って即座に逆流し、薄い唇を割って盛大に吐き散らされる。
 地面にぼとぼと落ちていく吐瀉物を見下ろしながら、妻を拳で持ち上げている夫は妙に優しげな笑みを浮かべた。
「ほら、内臓なんて簡単に潰せるんだ。ずっと手加減していたんだよ、僕は。キミが勝手に、自分の方が強いと思い込んでいただけだ」
 素早く拳が引き抜かれ、支えを失ったクレアは地面へと真っ直ぐ落下した。自分が吐き戻した嘔吐の中へと、無様に顔面から突っ込む。
「んぶっ……! ぅっ、ご、ぼっ……!」
 凛々しい顔がべっとりと汚れていく。そんなことを気にしてはいられなかった。拳を打ち込まれ、内臓をねじり潰された痛みが止まらない。
 拳が抜かれても胃袋の形が戻っていないことが分かった。薄くプレスされた状態でそのまま残っている。
「あぁ~、ガイはなんて優しいの。自分は一歩引いて妻を引き立ててあげるなんて、理想の旦那さまって感じ~」
 耳障りなリリスの声も、今のクレアには構っていられない。激痛でそれどころではなく、潰れたままの胃から次々に溢れてくる胃液を押さえ込むことに精一杯だった。
 喉の奥で排水溝が詰まったような音が連続して響いている。
「ぇぶっ、ごぼっ、ぉ゛お゛っ……!」
「ガイ、その女はまだ意識があるみたいよ。今日が最後なんだから、イクまでもっと愛してあげて」
 赤い戦士は深くうなずくと、悶絶している妻を強引に引き起こした。

 髪とコスチュームの肩を掴まれたクレアはされるがまま。脱力した体は膝が完全に曲がっていて、夫に支えてもらわなければすぐに崩れ落ちてしまう状態だった。
「んっ……ぅぅっ……」
「ふむ、まだ目が死んでないね。さすがクレアだ」
 その言葉通り、スカーレット・クレアはぼろぼろにされながらも、力強い瞳だけは衰えていのだった。
 負け惜しみというとそれまでだが、彼女の心には確かに抵抗の意思が存在している。
 絶望を感じていないわけではない。今まで自分の方が強いと信じていたことが、ただの勘違いで、しかも夫がそのように仕向けていたっていうのだから――悔しい。
「次は肝臓を潰そうか」
 ガイの硬い拳が、脇腹のあたりをさりげなく撫でる。
「いや、子宮という手もあるな。それとも、さっきの胃を破裂させた方がいいか?」
「ぁ、ん……!」
 下腹部、そして先ほど猛打を打ち込んだ箇所に拳をぴたりと触れさせた。それだけで、クレアのなめらかな肢体が敏感に反応する。
 イヤだ。どれもイヤだ。腹を殴られ、内臓を潰されることがこんなに苦しいだなんて。これ以上やられたら――本当に死んでしまう。
 夫に殴り殺されてしまう!

「ぇ゛ほっ! あなた……! 目を、ぅぶっ、覚ましてっ……!」
 濁った胃液を垂れ流しながら、息も絶え絶えに、クレアは目と言葉で訴えた。自分の方が強いと自信を持っていたときの彼女は、もはや存在しない。
 状況が一挙に有利へと傾いた怪人リリスは、余裕の笑みを貼りつけている。
「きゃはっ、無様ねスカーレット・クレア! さっきも言ったけどあたしの洗脳は、あたしを倒さない限り解けない。だから絶対にもう無理よ。ム、リ」
 実際、クレアがいくら声を投げかけても、ガイの心には届いていないように感じられた。ハートマークが浮かんでいる瞳は揺れもせず、次はどこを抉ってやろうかと模索している。
 そんな――そんなはずはない。ガイはこう見えても――いや、本当は強かったわけだが――とにかく、正義を貫く精神を持っていた。
 それは絵に描いたようなスーパーヒーロー然としていて、だからこそ、クレアは彼に憧れたのだ。
 そう簡単に、その心が操られるわけがない。支配されるわけがないんだ。声が届かないなら、体に聞いてやる。
「よし、次はやはり肝臓を――んっ!?」
 攻撃する目標を定めたらしい夫の唇に、妻は己の唇を押しつけた。
 何ヶ月ぶりか分からないキス。初めての時とか、感触とか、そんな甘ったるい思い出に浸る余裕はない。
 クレアは舌も彼の口内へと侵入させた。汚れてしまった舌で無秩序にかき回すと、唾液がぐちゅぐちゅと混ざって下品な音を奏でた。

「んっ――くちゅ、ぢゅるっ――!」
 腹部を殴打されたことで今や立っていられない彼女だったが、自然とガイへともたれかかる格好となっている。
 薄いながらも確かに女としての存在感を示している胸をぴったりと押し付けていた。
 夜の街で、体を密着させながらただひたすらに、妻が夫の口を貪る。その光景にリリスは唖然としていたが、ふと我を取り戻して檄を飛ばす。
「あ――な、なにやってるの、ガイ! はやく振りほどきなさい!」
 そうはいかない……! クレアは抱きつくようにして夫にしがみついた。硬い体の感触が返ってくる。口の中では熱く柔らかい舌の感触が返ってくる。
 キスが影響しているのか、ガイは妻の体を引き剥がすことができないでいた。
 これは効果がある。そう確信したクレアは彼の舌をさらに強く吸い上げた。
「ガイ! あなたはあたしのモノなのよ! 言うこと聞いて!」
 リリスの瞳が一瞬淡い光を帯びると同時に、ぴくっ、と小さくガイの肩が震えた。

 目の浮かんだハートマークの色濃く表れ、密着状態ながらも彼の腕が引き絞られた。
 そしてクレアは脇腹に突如襲ってきた痛みで、殴られたことを理解する。
「ん゛ぐぅ!? むぐっ……!」
 目が見開かれ、瞳に苦悶の色が宿る。ほぼ至近距離のためか最大限の威力ではなかったが、肋骨がみしりと響くほどの衝撃があった。
「ふむんぅ……! んぢゅ、むぅ、ちゅぷっ――!」
 それでも彼女は唇を離さない。舌を抜かない。
 だから、脇腹の肉が、べこっと陥没する。
「ふぐぅ゛ぅ゛ぅ! んぷぅっ……!」
 再び同じ箇所に拳をめり込まされて、肝臓が変形した。溢れた唾液が二人の唇の接点から溢れ出してくる。
 舌が絡む粘っこい音と、引き締まった肉体を打つ音が交互に入り乱れる。クレアのくぐもった呻きも混ざって、苦痛が周囲を彩り尽くしていった。
「ちゅぷっ、んっ……ぶぐっ! ぇふっ! ぢゅ、ちゅぅう!」
「ああもう、見せつけてんじゃないわよぉ! ガイ、ガイってば! もっと本気で殴りなさいよ!」
「――ッ!」
 再度瞳のハートマークが鮮明に浮かび、ガイは両の拳を構えた。密着している妻のくびれたウエストを、左右から挟みこむ形で拳を突き入れる。

 ボゴッ、と重低音が鳴り響いて、クレアの腹が潰れた。
「ごぶふっ……!?」
 突き刺すような圧力が両方の脇腹を遅い、クレアは一際大きく苦悶した。肋骨が浮かび上がってきて、めきめきと悲鳴をあげている。
 それだけでは済まされず、夫は左右の拳をそれぞれ逆方向にねじりまわしながらさらに奥深く突き込んだ。
「ぅ……ぇ゛ぉ……っ!」
 肋骨の一部が異音とともに砕ける。内臓がめちゃくちゃに動かされて、よじれて、潰れた。
 ぐちゃっと何かが破裂するような音も聞こえた。
 ガイの拳は手首まで埋没していて、クレアの体は砂時計のように変形している。
「ふぐっ、ぇぐぶっ……ぉごっ……!」
 瞳をむき出しにした彼女の食道を熱いものが駆け上がった。喉元が大きく蠢くと、キスしている口元からそれが溢れてくる。
 生命の色。それは真っ赤な血。肋骨が折れるくらい内臓を蹂躙されたのだから無理もない。
 吐血したクレアの体から今度こそ力が抜けきって、夫を抱きしめていた腕がだらりとぶら下がった。
 ガイの拳がぐぼっと引き抜かれると、意識が飛びかけているクレアは体ごと彼にもたれかかる。
 そして代わりに、彼の方から抱きしめられた。
 その背後に立っている怪人リリスが、目を驚愕の色に染めている。
「な、まさか――きゃっ!?」
 彼女は目に痛みを感じたのか、両目を押さえてよろよろと後退した。
「……怪人リリス」
 名を呼ばれた怪人が肩を硬直させる。低く、心臓に突き刺さるかと思うくらいに鋭利な声。
 妻を抱きしめたまま、声の主は振り返った。口元が唾液や血液で赤く染まっている。
 その瞳も真紅の色を強くたぎらせていて、洗脳の印はもうどこにもない。
「今すぐ去れ。僕の気が変わらないうちにだ」
「ひっ……! ひぃっ……!」
 恐怖に顔を引きつらせたリリスは、文字通り脱兎のごとく逃げ出した。途中で転びそうになりながらも助走をつけ、小さなコウモリ羽をはばたかせる。
 夜空に消えていった怪人にはもう目もくれていない。ガイは意識を失って断続的に痙攣を繰り返している妻を抱き上げる。
「クレア、キミの血が僕の意識を呼び起こしたらしい……ありがとう」
 静寂に戻った町の中を、彼はいずこかへと歩き始め始めた。

 二人のマイホームは一般的な家ではあるが、もちろんそれは表向きだ。地下室には秘密基地ともいえる施設があって、どちらかというとこの場所で過ごすことが多い。
「あなた! 時間でしょ! 早くしてよ!」
「ま、待ってくれ。まだ着替えていないんだ」
 学校で言うところの体育館並みの広さがあるこの部屋は、スーパーヒーローである二人が存分に体を動かせる場所である。訓練場と称して、結婚してからいつも組手をおこなっていた。
 ぴっちりとしたコスチュームに身を包んだクレアは、同じく戦闘服に着替えたガイを睨みつける。対して夫は乾いた笑みを浮かべて、
「なあクレア、やはり僕は――」
「ダメ! 手加減なんてしたら離婚よ離婚!」
 そう言い放ちながら、クレアはあらかじめ用意しておいた一枚の紙を見せつけた。いわゆる離婚届である。
「え、ちょ、ちょっと待ってくれ早まるな! 頼む!」
「じゃあ本気で私の相手をしなさい! でなきゃ特訓にならないでしょ!」
 リリスとの一件以後、クレアは体力や損傷した内臓の治療に時間を要した。
 しかし回復が七割程度済んで時点で、彼女は夫に組手を申し込んだのである。
 特訓自体はいつも行っていることだ。だが、ガイがこれまで本気で相手をしてくれていなかったことが、クレアにとっては一番悔しい現実だった。
「言っておくけど、手加減はすぐ分かるからね。わたしのお腹殴って内臓が潰れなかったら、その時点で離婚決定だから!」
 夫の困った様子などお構いなしに、妻は戦闘態勢に入る。
 何より許せないは自分の浅はかさだった。夫の実力も推し量れないで、自分の方が強いなんてうぬぼれて。
 見苦しすぎる。なんて馬鹿なんだ。
「あと、浮気したのも許してないから!」
「い、いやあれは洗脳だ! 不可抗力! 僕のせいじゃ……!」
「うっさい! もっと若い女の子が好きなんでしょ、リボンガールみたいな! あの娘のブロマイド隠し持ってるの知ってるんだから!」
「なぜそれを……! ち、違うんだよ、クレア。キミが決して老けているというわけでは……」
「言い訳無用! 早く構えなさい!」
 ただ、弱いと知ったことで挫折するようなクレアではなかった。本気のガイを相手にすることで本当の意味で強くなれる――彼女はそう思ったのだ。
「いくわよ、あなた!」
 絶対に彼を超えてやる……!
 熱意が伝わったのか、ガイの表情に真剣な色が差し込む。クレアは嬉しくなって口元を緩めながら、夫に向かって拳を突き放った。

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